2019年12月26日木曜日

時間の持続

こんなこと経験ある人はみな知ってることでめずらしくも何ともないだろうけど・・。
全身麻酔手術受けてみて初めて知ってびっくりしたこと。
麻酔かかってる間って、自分のなかで時間が進んでいないのね。
先に注射打たれて数を数えあげてる間に意識がなくなったという自覚はあって、次目覚めたとき、意識は眠りに落ちた時点から直に繋がってて、「あれ?今から手術始めるのかな?」とか思ってると「無事に終わりましたよ」と言われる。
眠ってたあいだの時間の感覚がなく(夢ももちろん見てないし持続した感じがなく)その間の時間をごっそり盗まれたような感じ。麻酔にかかってる間も睡眠と同じように(夢でも見ながら)とろとろと時間が過ぎていくものだと想像してたら、全く違ってた・・。
昏睡状態の人の意識もそうだろうか?

2019年12月23日月曜日

お腹の脂肪を・・

tarahineの肉体をフィールドにして自分の「作品」を創りあげたのが、tarahineの形成外科医だった。
実際のところ腫瘍の摘出手術は、初発のときの全身麻酔手術、再発のときの部分麻酔手術と二度体験しているが、それ自体それほど大したことはなかったのだ。手術時間もそれほどかからなかったし、手術後の回復もスムーズだったし。むしろ身体に(心にも)大きな負担をかけたのは、再建手術の方だった。
初発のときに乳房温存手術を諦めた時点から「では再建を」と申し出ていたのだが、当時の(最初の)乳腺外科の主治医は、「でも、ま、美容のことだしね」って消極的だった。(その「美容」の文言にかなりカチンと来た。その医者の価値観からすれば癌の手術と治療は生死に関わる大問題だから真剣に取り組む。再建なんて美容上のことで生死に関わりないし必須でもないので後回しと。tarahineに言わせれば、それはQOL上必須でしょうがぁ!治療とは現状に復元して初めて治療でしょうがぁ!と吠えたくなるのだったが・・)。しかし結果的には摘出手術後しばらくして(しばらくは片っぽ欠損のまま下着だのTシャツだのに工夫して外見からはそれと気づかれぬようにしてたけど)形成外科医を紹介してもらい、話し合いの末、再建手術をお願いする次第になる。最初の主治医はその総合病院の副院長の立場にあったのだが、その先生に言わせると「若くて熱心な先生。どうしてもやらせて欲しいと切望している」。確かにその通りだった。
いまでは(美容形成と同じく)シリコンだの人工物を使った手術の方が一般的かもしれない。そっちの方が圧倒的に負担少なくて済むもんね。もちろん当時もその選択肢はあったが、なんだか人工物というのが嫌で、自前の組織(自分の体の他の部分)を持って来て作るという方法を選んだ。(この選択基準、本当に合理的かと言えばそうでないような気もする)。
で、どこの組織を持ってくるか? ここに至って選択基準はさらにボロボロになる。二つ方法あります。背中の脂肪をぐるっと持ってくるやり方、もうひとつはお腹の脂肪をよいしょっと上に持ってくるやり方。笑っちゃいますが、そう言われて「やった!お腹の脂肪を取ってもらえる!」と思わない女子はいるでしょうか?(いや、もちろんいるでしょうけど)。
愚かにもtarahineは「お腹!」と即答しました。そして、女友達らには「ずるい!」とか羨ましがられさえしましたよ。
で、実際の手術は思ったより大変だった・・。きっとそんなことの説明(インフォームド)もちゃんとなされてたんでしょうけど、耳で流してたんでしょうね・・。手術時間も予定より長くかかったし、目覚めたあとの体の感覚ももう大変で、回復にも時間がかかった。どんな時でも食べるtarahineが食欲なくなり、手術の翌日はけっきょく一日食べることができず、形成外科医に「意外とあかんたれやな」と心配される始末であった。

2019年12月22日日曜日

患者第一?

ときどき「医者は患者の命(利益)を最優先する(べきだ)」と信じているひとがいてびっくりすることがある。医者は人間の命を救うことを第一の目標/動機に仕事をしていることを信じているし、そうでない医者は医者失格だとでも思っている。
そうじゃないことは実際に医者と接していればすぐわかる。(もちろん辺境の医者や町医者と専門性の高い医者とではそれぞれありようが異なるだろうけど)。医者はそれぞれの専門によって異なるそれぞれのプロフェッショナリズムの内部に第一の動機も目標も、また矜恃も持っている。「患者の命」とか患者の利益とかはそれじたいを目標とするものではなく、医者が医者としての最善を尽くしたあとから結果的についてくるといったところだろう。(たとえば災害や紛争など究極の条件下にあって目の前の命を救わなければといった切迫した場面にあってさえ、そのとき医者の考えることは「自分に何ができるか」であって「どんな手段を使ってでも(極端にいえば自分の命を投げうってでも)この人を救いたい」ではないだろう。)
もちろん医者が医者という職業を志した最初の動機に「人の命を救いたい」「人に奉仕したい」という心があるだろうことは否定しない。あらゆる「奉仕(サーヴィス)」業の根っこにはそれがあるだろうから。しかし、その動機から職業(プロフェッショナル)として「医師」を選択した時点で、そして「医師」として立派に一人立ちしたときから、その人は、ただただ盲目的に人に奉仕するだけの者ではなく、一人のプロになっていますぜ。
そして、そのことはちっとも悪いことではない。オートバイを作るのがものすごく好きなホンダさんという人がいて、そのひとは消費者の存在なんて意に介さず、ひたすら自分の気に入る良いオートバイを作りたいと念じて製作に励む。そのひとが創造力に優れていて、また運が良ければ、これまで世に阿るようにつくられてきた製品とは格段に異なる画期的な製品が生まれるだろう。消費者はそのひとたちのプロとしての仕事から、自分にとって利益になる部分を都合良くもらってくればいいだけの話である。
オートバイづくりとはちがって医者の仕事は患者の身体という場をフィールドにしているし、医療にかぎらずサーヴィス業というのは消費者それぞれについて商品であるサーヴィスの内容が異なって当然でもあるし、医者と患者が少しずつ接触を重ねつつ、それぞれの要求や利害をすりあわせつつ、少しずつ微調整を繰り返しながら、実際の医療サーヴィスは遂行されていくものなんだろう。
大勢の患者が集まる病院では、一人ひとりの患者の利益を最優先することなど不可能だから、それこそ調整が必要で、どこまで自分の都合を押し通すのか、どこまでの不都合を受け容れるのか、わがままと言われるのを恐れずにどんどん要求したほうがいいみたい。単に病院の都合で不都合を強いられているのに、「これは先生(医者)がわたし/あなた(患者)のことを考えてくれてこのようにしてくれているのよ」「わたし/あなた(患者)には理解できないところもあるけどきっとこれが最善の道なのよ」とかわざわざ医者/病院の都合の良いように考えてあげる(たぶん患者の不安をのぞいてあげるための善意でもあるんだろうけど)ひとなどを見ていると、意地悪なわたしは横から口を挟んで「ちがいますよ」と冷たく言ってやりたくなるのだが(笑)、患者の気持ちを考えるとそんなこと言っちゃいけないんでしょね。どうも患者同士のなぐさめあい、周りの近親者が患者をなだめるために口々に言うことなどは、この種の欺瞞に満ちていて気にくわない。
患者と医者と(また病院と)利害がはっきり対立したり思惑がずれたりすることは当然のことなのであって、医者は「わたしはあなた(患者)のことを第一に考えてるんですよ」などと嘘をつくべきではないし、患者の側も「全幅の信頼」なんて医者に押しつけるべきではないだろう。いまだにびっくりするほどナイーブな人がいて、「先生のおっしゃることにまちがいはないから…」「先生がわたしにとって最善の道を勧めてくださるから…」と信じている患者とか、ろくに説明もせず(インフォームドコンセントをなおざりにして)「君は何も心配しなくていいから」「安心してわたしに任せていればいいから」とのたまう“名医”とかがいるらしい。そんな名医に全幅の信頼とやらを預けてそれが裏切られればなにもかもチャラのように言うひともいるが、そもそもそんな“信頼”があるかのように振る舞うほうがまちがっている。必要なコミュニケーションをせず、お互いに勝手な幻想を抱いてそれぞれが自分の都合の良いように考えているだけの信頼なんてもとから信頼じゃないぜ。
あらかじめ「各々の利害は異なる」という互いの了解があってこそ、きちんとコミュニケーションができる。互いの立場や条件、それぞれの意思を確認し、そのうえで、いろんな調整も関係も契約もできていくわけなんだから。そのコミュニケーションのベースになるのが、誠実であるとか、正直であるとか、互いを思いやることができるとか、そういう人間性への信頼ではないのかね。

2019年12月12日木曜日

さ・迷う

まちなかで迷うのはなにかとたやすい
どこへ向いているのかわからなくても
いま向いている方向へどんどん歩くと
いずれ幹線道路か交差点や線路や駅や
大きなビルやショッピングセンターや
公共施設や団地工場河川寺社のたぐい
とにかく徴になるところにぶちあたる
そこでじぶんの位置を確かめればよい
歩く時間を惜しむのならしかたないが
杳い山の深い森の奥へ迷い入ることも
おなじ場所を堂々めぐりめぐることも
可能性は尠いのだから気楽に歩くのだ

通行人をつかまえてわたしはどちらへ
向かってあるいていますかとたずねて
みるのもよいしバスの標識を見るのも
よい適当にバスに乗ってみるのもよい
飛んでもないところに連れていかれた
ところでせいぜいまちのはずれの車庫
ぐらいなものバス会社が此の世の外か
ら乗り入れているなんてことはないの
だから安心していてよろしそりゃいち
ばん確かなのはタクシーを拾うことだ
けどお金もかかるしつまんないじゃな
い?ゆっくりさ迷いたい気持ちと早く
目的地に着きたい焦りどこへ着くのだ
ろうかという不安と夢想どこへも着か
ないかもしれないという宙づりどこか
へは着くだろうという根拠の無い楽観

道傍に花があって
脇に鳥がいて
子供が遊んでいて
粗大ゴミがころがっていても
目もくれないでもいいし
目くばせをくれてもいい
美いものがとおりかかっても
みにくいものがたちさわいでも
目をとめてもいいし
目をふせてもいい
だれかと喋ってもいいし
独りで呟いてもいい
音楽を聴くのもいい
本をみるのもいい
車がくれば避ければいい
ひったくりに遭えば叫べばいい

雨が降っても
夜になっても
おなかがすいても
おしっこがしたくなっても
悠悠となにもしないでもいいし
慌ててコンビニを捜すのもいい
喫茶店にはいるのもいい
誰かに電話するのもいい

ただ道をいそぐ
ただ未知を急く
ただのうごきに
なってもいいし
止まるのもよい
やめるのもよい
やめぬのもよい
引き返すもよし
やり直すもよし
終りはなくても
終りがあつても
嘉いではないか

寓話でなく
具象の街を
歩きたまへ
迷ひたまへ

2019年12月7日土曜日

かたつむりのおはなし(Go Go Slow)

かたつむりのしっぽ
かたつむりのしっぱい
かたつむりのつめ
かたつむりの鉄道
かたつむりの航海
かたつむりの後悔
かたつむりの軌跡
かたつむりの刑務所
かたつむりの保釈金
かたつむりの嘆き
かたつむりのバケツ
かたつむりの聖杯

聖なる欲望を
享けるさかづき。塩化ヴィニルよりも地球に優しいという(嘘の噂の)ポリエチレンテレフタートのシートをこまかい四辺形に切り分け、地下鉄の背後の壁にぺたぺたと隙間なく貼り付けていく
君の
不可思議な動機。
じつは世界はそれほど奥行きなく厚みなくぺらぺらの乾いたモザイクの書き割りなのだが、ポリエチレンテレフタートにお手紙を持たせておつかいにやるそこには誰かいるのかそこにはストロークを要求するべつのポリエチレンテレフタートのモザイクの貼りついた阿呆がいて船酔いブレイクダウンの指示を出す
某の
みえすいた忖度。
やはり陽気な電子が陰気な電子の振る舞いを拒絶するかのように
跋扈する跛行する跛の(差別用語をのこらず排斥した辞書の)
舞い舞い
でんでん
無視する
片目
隻眼の

かたつむりのヴェール

かたつむりのビール
かたつむりの梱包
かたつむりの販売
かたつむりの谷間
かたつむりのそよ風
かたつむりのおはなし
かたつむりのおすそわけ

おそく
おそく
かたつむりのおてがみで頂戴ナ。
かたつむりのおさそいはとどかないから。

2019年12月4日水曜日

セカンド・オピニオン

で、いろいろ信頼できる方々から忠告をいただいたり本を読んだりした末、最初に診察を受けた総合病院とはべつに2つの病院に行って、セカンドオピニオン、サードオピニオンを得ることができた。(最初に行った病院には断らなかったし検査データも持っていかずエコーだけは改めてやったから、厳密にはそう言えないかもしれないけど)。当時の焦点は乳房温存療法ができるかどうかで、最初の医師の見解はステージ( I の最終あたり)と腫瘍の大きさはともかく位置が乳首に近いから無理とのこと。2番目に会いに行った医師は当時関西でこの分野で権威とされていた人で(というわけかtarahineのエコー映像を3人の若い医師から背後で見つめられつつ先生の解説を聞く羽目になったが)、「抗癌剤でまず癌を小さくしてから手術する」という手を提案された。ここがまた思案のしどころで、いろいろ調べるうちtarahineは抗癌剤という治療法はそもそもあかんのではないかという個人的見解を得つつあったのである。あんなもん、そりゃー癌を叩くかもしれないが、同時にからだ全体を痛めつけてしまうやん。癌患者ってむしろそれで弱ってるんとちゃん?それにそのうち抗癌剤に耐性を持ちはじめるんだから結局治療効果というより延命効果しかないんちゃん?(すべてtarahineの個人的見解です。安易に同調しないようにね)。それもあって躊躇したのだが、そもそもtarahineには内分泌系の持病があることをお話ししたところ、「だとしたら、やらない方がいいですね」と。それでもうほぼ方針決定。3番目に会いに行った医師もほぼほぼ同じ意見で結局最初の総合病院に戻ることになった。(後々そこで知り合った・・途中で最初の主治医からバトンタッチした・・乳腺専門の医師が現在もtarahineの主治医になっている。)
ところでその2番目に会いに行った「その分野の権威」の先生だけど、初診予約は普通に取れた(特に誰かの紹介がなければということではなかった)し、「先生のご執刀で手術していただくことは可能ですか?」と尋ねたところ「いついつならいいですよ」とスケジュールを示してくれた(いくらお金を積まないと無理みたいなことはなかった)。それがやっぱりかなり先になるので、最初の病院に戻ったけれど、世上言われているより医学界は情実とかに左右されるということはないようだとわかった次第。

2019年12月3日火曜日

ネガティヴ・キャンペーン

ただ、まあ、「覚悟しといてな」の一言でひとつ安心したことがある。tarahineが疑心暗鬼に思ってたのが、自分がもし癌に罹ったとして、家族と一緒に来いとか言われて、家族にだけは本当のことを言われ、本人には癌であることを隠されたりしたらどうしようかと。まあ、インフォームド・コンセントが行き渡った今では考えられないけど(一部にはまだそういうのも残ってるらしいけど)、本人だけ自分が癌であることを知らぬまま(家族や周囲は知っていて)そのまま死ぬなんて最悪だと。どうであれなんであれ本人にちゃんと真実を告げてほしいというのがtarahineの意向で、それはどうやら通りそうなのだった。で、実際、家族を連れてったのは手術当日のみで、あとは全てひとりで行って決めた。医師も本人にズバリ告知(言葉を飾ったり婉曲に言ったりはしなかった)、本人の責任で治療方針を決定、という流れになった。
もひとつ告知直後の鬱になる暇のなかった要因には、「病院行こ」と決めた日から、あらゆる情報を(ネット情報も図書館情報も)調べまくり、病院で正式に告知されてからは、当時やってたMLの仲間をはじめ、信頼できる人(というか、ハッキリ言えばこういう場合に役に立ってくれる人/利用できる人)にすべて打ち明け、いろいろアドバイスを受けたこと。先行して自分でいろいろ調べてたこともあってリテラシーはそれなりにできていて、その当時でいえば茸の類(たぐい)とか蜂の巣の類とか胡散臭い情報には耳を傾けない鉄壁の構えができてたのも大きかったかな。頭の良い友人のなかにも(コレは非科学的だから胡散臭いとかコレは科学的で信頼できそうとか区別せず)「良いと言われているものはなんでも試してみれば?」と言ってくれた人や、自分の親族が末期癌でなにやらその類のものを摂取せられて回復せられた由を懇々と語られた方もあったけど、惑わされずに済んだ。べつに試してみてなにも効かなかったらそれでもいいやん、プラシーボでも効けばまたいいやん、不安を慰める気休めにもなるやん・・とか思う人もいるかもしれないけど、tarahineは持ち前の正義感からそういう業者を悪徳(癌患者の不安につけこんで詐欺商法で儲ける)と決めつけ、許せないの。自分が利用するどころかネガティヴ・キャンペーンを張りたいところだったわ・・。

2019年12月1日日曜日

劣性遺伝子

左足のかかとがほんのすこし深めに砂にめりこむようなリズムでそのうしろすがたはゆったりとあしをはこぶのである。きびすとかかと きびすとかかと」

頭蓋骨のかたちが うしろからみているだけで 掌ての ひらで覆いつつめるがごとくさわっているような感触あってよくわかる うしろあたまが微妙にがくがくゆれて ぼんのくぼが宙にうかぶ 吹く あそび球のようにぷくぷくへこんだり膨らんだり浮かんだり沈んだりするようにみ 。細めの肩から流れ落ちる背中の大儀そうに めにみえぬ空気のふとんの層いちまいしょって腰のあたりでひといきれ ほっと
 ぽっとくぼむまでに長いこと。そらとちゅう 宙とそら」

ゆるゆるとつっとりもっとり ......... かれの吐き出していることばことば断片ごとに引き伸ばされて、ぷーくぷーくふきだしの泡に包まれて頭上の空に消えていく。そらとくう 腔とそら」
。。。そらにあいた 孔

(わがみがくるしか
(おのれがつらか
(  なかなか
(いかさま
(うとかもん
(とつ おいつ

ふっと気づくと
そういうひとが左にまたひとり
右にふたり さんにん
左にまた よにん
ごにん ろくにん ....................
と殖えて みな いちように ほそい肩をして
らんぼうに虎刈りにされた まるい頭蓋をして
背の高い低いはあっても どうように つるんと肉の乗っていない皮膚だけの背中をして おとこかおんなか判らず
判然とせず決然となく おなじように かかとを かるく地にめりこませながら 歩をすすめている。

よにん ろくにん
よにん しちにん
はちにん よにん
正確に数えるわけでもない かれらと同調する歩幅とおなじ拍子でくりかえしくりかえす声が いつしか節になり よそごとのように ブラウン管の裏手 柔毛(にこげ)に放射された光のように 表面一枚へだてて距離を詰めることができない。みそなわし みそなえて 。おもてとひょう 面」

そういえば青い縞のパジャマの横並ぶすがたがいつかどこか此処ではない彼処(かしこ)ど処かで見た絶滅収容所へ向かう囚人たちの列に似ていたのかもしれない。せんせえ!に告げると満たされぬ こころの飢ゑとロマンティクな修辞もて笑い飛ばされるのがおちてところか。ふん!どこ何いずこ」 ふんとくそ」

かもしれぬ。かもしれる。かもしれた。劣性遺伝子裂性の列列列........。 ...列たて横列たてひとたび
しかるべき薬品スポイド一滴たらすと そこからまたたくまにアメーバ様のしみほのほとひろがりとろんとろんとろけて坂をころがりおちていくのであつた。
一坤の賽神のひとこえのようにかたぶけるかたぶきに みなとけるみのうえ。 縦立て楯 よ」

(.....やく たれか 
(たれか がみをてろおてくれるか
(がみを
(な がみを
(わ がみを
(  わがいを
(     わああいいを........

...おてくれるか? と イントネーションで判る 懇願でなく きつい命令でなく 切なる請願でなく 要請でなく ....

彼がみをのぞきこんで しかばねきけん/ここより落つるな の看板をわらって みおろしとる。たれも落ちたくて落つるものなどいやせんにて。さきから しかばねになろうかばねは おるなかねて。ふぜんにて いっつのまにか さきほどのれつびとららがぐるりとわになてはねばねを

構成しておるのがみえとおる ずら がらっとみわたすと じぃ っちょうっこうつとみてふよ。


...それはおとろしいまなざしで

2019年11月25日月曜日

覚悟しといてな

病気譚というのは「なんだ大したことないやん」と言われるとちょっとムカつく。それなりの重病と思われて「すごく大変なのね〜」といちいち親身になって聞いてくれると嬉しい。だけどそのまま悪化したり死んでしまったりするのは絶対嫌で、結果「だけど克服できてすごかったね」と言われると鼻が高い。・・という我儘なもので、そういうトラップに嵌らないように書きたいものだけど、どうしても現時点でtarahineが生きている以上、手柄話になってしまうな・・。
癌譚も世の中に溢れているけど、ついこないだテレビでやってたのは、告知からしばらくの魔の鬱期みたいな話。癌の告知を受けた人は誰でもまずどどーんと落ち込み、その事実を受け容れるのに時間がかかる。そのあいだ少なからぬ人たちが鬱になる(軽い鬱であれ本格的なものであれ)という話。まあそうでしょう。つい最近もtarahineの友人の親御さんが癌の告知を受けたんだけど、側(はた)から見ればごくごく軽いもので生存率も高いし、ましてや手術の必要もないかもというぐらいで、聞いたtarahineもその親御さんの子であるtarahineの友人も「そんなん平気やん」とのんびりしたものだったけど、告知された当人の取り乱しようといったら半端なかったらしい。「癌」という言葉の響きがまだやっぱり「死病」なのね。
ついこないだテレビでやってたのはもっと重大なケースで、それはどどーんと落ち込んで当然だと思われたけど、tarahineに限って言えば、癌を初発した当時の普段の精神状態があまり良好とは言えず、少しずつ回復傾向にあったとは言え、その前の「軽い鬱」期の名残をまだ引きずっていたゆえに、癌に気づいたことで逆に「目が覚めた」。こんなことやってる(鬱々と毎日を過ごしている)場合ちゃうで!と思ったのでした。もちろんその当時はマンモグラフィ検診なんてものはなく(あったけど有料で高価で今のように何も自覚症状なくても全員受けに行くべしみたいなキャンペーンもなかったし)、いつの頃からか右胸の乳首近くにちょっと引き攣(つ)れるような感覚(べつに痛いわけではなく皮膚がちょっとつれる感じがするだけ)があり、横になって触ってみるとその乳首の側(そば)の奥のほうに何か触れるものがある。(いわゆる「しこり」というやつだけどそれが何者か自分にできてみて初めて知った)。あれ?これっていわゆる癌ってやつ?とちゃんと気づいたのがそれこそ3か月〜半年ぐらい(正確に覚えてない)も経過したあとで(ずいぶん遅かったんです。つまり「早期発見」の原則には全く反してた。)その日の情景はよく覚えている。夜そこに触れつつやっぱ気になるな〜と思って寝て朝目が覚めてから再びその部分に触れながら「あれ?」と初めて思いが至り、そうだ確かめなきゃと思いついて、起きて洗面所の鏡の前に立ち「エイヤっ」っと声あげながら弾みつけてバンザイした。すると見事に右の乳首の側(そば)の皮膚が引き攣れ、その辺りに触れてみて奥に何者か悪いものが隠されているらしいことがはっきりわかった。・・「うっわー」・・絶句。
そしてちょっと笑ったかな。何よこれ?次の瞬間、tarahineは、なんでこんな運命がわたしに降りかかるのよ?と思い、自分が死ぬのかと思い、声あげて泣きたい気分だったけど、むしろ「あかん、こんなことしてる場合やない。一刻も早く動かねば・・」と目を覚まされた感じの方が大きかったな。鬱々と(つまりはなんもせんと引きこもりがちに)日々を暮らしている暇はないぜって。
その場で鏡みながら鏡の中のもうひとりの自分に「すぐ病院行こ」と語りかけ、以前内分泌系の病気でお世話になったことのある総合病院の診察券を用意する。ネットでその病院のウェブページ見て関連する科のいちばん偉いさんが外来初診に出る曜日をチェックする・・と。
で、病院行って診察受け、後日の一連の検査手順をまず確かめて日時を決める。触診の時点でもう医師には経験値あってほぼわかったらしくハッキリとは言わないもののギョロっと大きな眼でtarahineを見据えながら「覚悟しといてな」と正確にその文言を言い渡した。(「癌」とか「腫瘍」とか「悪性新生物」とかいう言葉をハッキリ言わないのは現行の倫理には反しているのか?)。で、検査ももともと予約が詰まってたところに「知らん顔して入れとくか?」とか看護師さんに冗談のように言いながら割り込み予約で早め早めに設定してくれたらしい。その雰囲気からしてもうtarahineも覚悟を決めていた次第。

2019年11月22日金曜日

トラブルトラヴェル

いつもすでに出発している此処をはなれて目的地はさだかではなく路上にあり迂回し迂路うろしながら通過列車やりすごシナハンおはなしをかたりはじめるには場所を横断しなければならない行かなければならない きつく締めてそこに県境のひろい河がありわたしたちは横切らなければならない よく似たコースを辿っても経験上浅瀬をしっている案内人がいていつものルートではない そのつどあたらしくルーチンワークのように退屈な渡りの儀式 一級河川たて札のむこう岸よその県には県の名を付したぴかぴかの建物がありナントカミュージアムとなづけられて建設中事業主体どこどこ責任者だれそれなに県ぺこ市ぽこ町岐阜蝶カップ事業費数億円開館予定2001年春小春日和見お菓子の看板アイドルが微笑みよく似た計画はあっても其たてものはふるくから其処にある旧聖なんたら会不可能なミッション病院にもとづくものであるからこそユニックなのだと元型がなければ詰まらない時代なのだと謂い だからかんぜんには壊さないむてきの煉瓦の剥がれ落ちる頑強な密閉度の高い風のとおりぬける 霊のはしりぬける魂の滞留する脱け道の分岐する無数の水路が浸みこんでいくその屋に今夜の宿を据えてあとさきは考えぬ たまたま夕食をともにしてどこから来たのかとスタッフに尋ねると吉田とな吉田でわかんない?そんな地名が南紀にあったのかきっとあったのだろうなんせ熊野だもん海のそばだか山の奥だかわかりゃしない下僕を寄越して電報を打たせる気が利かない電話がつうじないからこそ情報記録ぽんぽこりん装置送信そうしているのにチップもないくせにエラソーに水泳ぱんついっちょでどうして小銭が所有できよう一寸貸してよ厭よたとえ1セントだっていやだわいいじゃないかダーリンafter allたった50セントのことだろスマイルが呼んでんよ 待ってんよ出発してんだからたどりつかないといかんのさっして頂戴この旅を やめるわけにはいかないのぞくわけにはいかないかたりはじめる以前に帰途についてはならぬ沙汰やみにどこへかわからぬやみのよむにた闇の読むに似た病みのやまいや舞いしかど あらゆるコードが連関をもって意味のファントム肉体を構成してしまう段階を経ていちど試験管撹拌し混乱イニング裏からふたたび整列しわたしとまったくおなじ遺伝子をもつクローンが(此処にいる)わたしより少し遅れて彼の地で成長していることを知り対手にはひそかにしておもむくことにする ものかげよりガラスごしにうかがえば疾っくに細胞ではないかのじょは英語をあやつり(そりゃそーだ)わたしよりいくらか年下で(それもそーだ)なにかをコーディネートしがちなおふぃすをけんめいにやっているらしい苦手なのにな渉外障碍ひとづきあいは遺伝子に記載されていないのか いやかのじょもほんらいみにあわぬことをけんめいにやっているのだよ賢明にもよなよなよなよ仕事それが目的ではない わたしとかのじょのほかにもうひとり いるはずなのだ いるはずのない このよのものではない 精霊が ひとり そのこどもに遭わなければ 旅は終えられない ひとつのまるはない 一卵性双生児とてそれほど似ているものではないのだから こどもが どちらに似ているのかは本来どうでもいいことなのだが どーでもいいよにみえてじつは どーでもいくない むずかしいむずかる幼児コロコロかーとに載せてひいてやる ひいてもらう ひいてもらうのかひいてやるのかたぶんふたりのどちらが表になるのか裏になるのか双方髪が漆黒ベタ墨色だから並んで立っていると折り重なってひとりにみえる桎梏なさげにうっちゃりノンシャランに擦れ違いざまつぶやくHi!にHow are you doing?をつけくわえ いいからちったぁこんじょすえてけつあげろうごきはじめろ お尻かっちんリセットしてもいちどスタート スロウから徐々に加速せよ てんすうは勘定すなよ特質点のみに集中せよ 持ち駒に ならないカードはいくつある?
再見をきめる ために        離陸せよ
いまは    時の渦の ただなかにある

2019年11月18日月曜日

ちびこちびこ

とんとん一段降りるごとに肩叩かれる。死神に
とんとんとん踊り場をぐるっとまわれば殴られる。待ちかまえていた悪意に
とんとんとんとん急いで降りると足掬(すく)われる。悪戯小鬼に
とんとんとんとんとん
落ちれば5秒とかからない。
落ちるかもしれない と
落ちるに決まってる と
落ちることを知っている と
ああやはり 落ちることはわかっていた と
落下の蓋然性をめぐって
めぐりめぐるうち 知っていることを知らぬふりして
背後からつけてきている死神と
壁に塗りこめられた悪意と
段差に仕込まれている小鬼と
それでも我慢してつきあっていこうとするのは

ぶわぁぁぁっと黄色い土埃の舞い上がる分厚い あなたの匂いのカーテンの
襞につつまれ
心地良く血しぶきのスローモーションに酔い痴れて
ここがここ
ここしかないここ
いまがいま
いましかないいま
を確かめるためと 嘯(うそぶ)きながら
ときどきは不平を洩らしたくもなる。

あたまを撫でてくれ

しつこくしつこく要求したくもなる。
たぶんこの詰問口調があなたをうんざりさせるだろうと
なぜ撫でてくれないのか
しか囁くことのできないわたしを
それでも我慢して やしなっていこうとするのは

2019年11月15日金曜日

ヴェルナー・ヘルツォーク氏のアンギラス

先のエントリー「瀧のように落ちる」という詩はtarahineが最初の入院中にみた夢のひとつをモチーフにしたもの。ヴェルナー・ヘルツォークもクラウス・キンスキーもアンギラス(怪獣)も、当時の主治医(執刀医)のイメージ。ははっ(笑)。いや、目はギョロ目だけど白髪長身の素敵な紳士でしたが。(ただやっぱりひと昔前の世代にあたる医者の固定概念があってtarahineを苛つかせるところはあった。再建を「美容の問題」と言われたりね。)
夢のなかでおちのびていく村は、それ以前に旅行した南フランスの片田舎の名もなき村を反映している。ちいさな村でありながら、中世に成立したヨーロッパの町のあらゆる相貌を備えていて、町の中にあらゆる時代が重層し、そこで丁寧に暮らしている人びとのありようが心に残った。広場の中心に立ってたのはもちろんアンギラスなどではなく、何かの石像だったとおもうのだけど・・・なんだったかは思い出せない。
こんなかんじで、旅の思い出も、手術のような激烈な(致命的な)思い出も、映画の記憶も、互いに思いがけない繋がりや重なりを形成しつつ、しずかに積み重なって、やわらかな層をなして、具体的な記憶の細部を喪いながら、なんらかのイマージュをtarahineのなかに刻印していくのである。

2019年11月14日木曜日

瀧のように落ちる

夜をついで
夜をぬって
夜をぬけて
逃げ落ちていく
無名の黒いタクシーに乗って 無貌の運転手の無言に身をゆだね

ふたり 息をつめて
それぞれの ふところにひみつを いだき
こころもとなく たがいの ひみつを まさぐりあって
なぜ わりなく ふりかえることなく
みつめあうことなく
それぞれの 虚空を 瞠り(みはり)

ネオンの街から くらい街灯のともる細い道にはいり
くねくね 坂をのぼったり おりたり
道沿いに 無音の木の家の 無関心な視線を意識し おびえながら
いくつもの 古い街街をついで にげのびていく

中世の街の広場まで来たところで 水を汲みにいった運転手におきざりにされ
鉄の車体に夜の冷気からさえぎられ護られ ふとあいまの時刻をかぞえながら
静寂(しじま)にくりかえされるエンジン音に耳をすませる

広場の中心に据えられた インスタレーション
「ヴェルナー・ヘルツォーク氏のアンギラス」
怪獣の着ぐるみから すがたをのぞかせる俳優の顔かたち からだつきから それが
クラウス・キンスキー氏演じるものであることが知れる
昼間はここで 生徒らが弁当をひろげ
おのおの 制作に 精を出すのであろう
白い布のしたに それぞれのポーズを刻印して

ダストシュートをつかって一気に堕ちれば
敵をあざむくことができようと
先師 ともども 説得しようとするのだが
かのじょが 肯んじない
怖いから というより 死ぬかもしれない その蓋然性のゆえに
ねむりにおちたまま その夢のままに めざめることがない なんていや
と 彼女は ことばは合理的に 態度は おさなごのように
頑なに その術を採るのを いやがるのである
仕方がない。 いいでしょう
そのまま 車で降りましょう 立体駐車場の外郭をつたって
下の スクランブル交差点まで おりれば
はるか 西に みわたせるでしょう 入り陽が
そこで 待ち構えて いましょう 味方が

あなたがたの味方が 敵が
いつのまに できたのか
ふたり あやうさに ためいきして
てわたされた 武器をためつすがめつ 一眼のキャメラである
これでshoot せよというのだ
操作すら知らぬのに

てきせつな言葉が捜せなくなったのなら さっさとそこで全面降伏すべきなのだ
わかっていながら だれも口にしない
わずかに 未来に のぞみをつなぎ 破滅のときを 一縷あと一縷と わずかずつ先延ばしにしていく

そこをなんとか きりぬけ
ふたたび 黒いタクシーと落ち合って
夜を 徹して おちのびていく

西へ
北へ
また西へ
西へ
赤黒い 火山の火が ともる地へ
灰色の地を割いて 白い沫をたてながら 巨大な瀑布が おちる地へ
瀧の ながれおちる 表面の透明を ゆっくり斜め上から下へとクレーンにのって移動するキャメラに捉え
せめかかる 光の弾々に
ふたり ふたたび せつなさに
身をよせあう

瀧のように落ちかかる彼女の 肩

2019年11月10日日曜日

fragments

わたしたちは厳密な全体ではない

かたまりかけた豆腐のひとすくいを ふわっとテーブルのうえに盛りつけたように
部分部分がゆるやかにあわさって ようようひとつの全体として機能してはいるが
あちこちの部品やつなぎめが ほろほろ綻びかけたころあいをみはからって
遊離剤をくわえてばらばらにし
つながりをかるくたもちながらも
それぞれのパーツが自由に漿水のなかを ぷかぷかうかぶ諸島連合にしたところで
わるくなったところを取り除いて あたらしいものを補ったり
つなぎめを補強したり
部分部分を刷毛できれいにおそうじして 生気を注射したり
そのように全体をリフレッシュしてから
ふたたび凝固剤をくわえてかるくかため
うまくつながらないピースは 鋏で切ったり捨てたり
また新たな白紙のピースを補ったり
接着剤で接合したり
そうしてふたたび ひとつのものとして
ゆるくあわさった全体として
機能するなにものか にする。

そんなふうなものとして わたしたちは生きていける。

取り除かれた部分への郷愁もなく惜別もなく
あたらしいものへの感慨もなく歓迎もなく
ジグソーパズルほどにも 厳密でなく
粗忽な鋏で エイヤッと ピース切るええかげんさほどが
ゆるやかに たえず揺れうごいている やわらかさをたもつにふさわしい。

夜中
分解され排泄される部分部分が 大量の細かく薄いかけらになって
ところどころきらきら 記憶の反射光を呼び覚ましながら
さらさらと排気孔へと 流れ落ちてゆくのが聴こえる。
朝方
あたらしく挿入された部分部分が 真白い無関心の顔して
それぞれの場所に ぐつ悪げにおさまり
だんだん馴れて環境に応じて
赤く青くとりどりに だんだらに染まっていくのが 見わたせる。
夜明け
一旋ふと吹く感情のつむじ風に 呼吸器が一寸ふたがれ
ちいさな咳をして ふたたび常のように流れはじめる
血流の音に
みじかい永遠の
そのまた一瞬一瞬を微分した
ごくごく微細な断面のいたみを 思いやる。
それは
なんら 意味ある図形を 描いていない
にもかかわらず/だからこそ
如何ようにも 読みくだせる
抽象的なfigureである。
純にsignifiantな
第一の模様

とりわけ明るい眸をもつ解読者が必要だが
解読されると寿命がちぢむとでもいうのだろうか
野蛮人たる魂は
最も単純な構造をもつ 写真機のまなざしさえ 嫌がって拒むのではあるが。

それでもただに捨てられるばかりの断片を サンプルとしてわずかに謂集し
だましだまし撮影した無数の断片図像を 表層像として定着させ
できあがった無数の膜の断片を ひとつながりのなにものかとして再構築し
細長いテープに編集して リールに巻き取っていく。

さてさて お立ち会い!
どのようなおはなしがみえまするか
わたしたちのささやかな60年を わずか60分のフィルムにしたてあげて
何も語るな
何も読み取るな
ただ瞳を 曝してさえいればよろしい
というのは あまりに傲慢な 監督の態度である。

とりわけ暗い心室をもつ鑑定者が必要だが
鑑定されると かぎりある生命が果てしなく延びるとでもいうのだろうか
文明人たる魂は
最も簡単な操作が可能な映写機の介入さえ よろこんで いちいち だらしなく
身をゆだねるのではあるが。

そりゃ 豆腐よりは
暗闇のなかを一閃 はしりぬける光の波動として
histoireに銘記されるほうがかっこいい。
だけど
わたしたちのほとんどは それほど 重要では ない。
豆腐の蓋然性と
光の蓋然性と
誰もがふたつながら 持ちながら
光のほうは 日々無駄に流産し
ながしつづけているケースがほとんどである。
そりゃ かっこよさが
すべてでは ないけどさ。

 (そこに多声コーラスが入って)
 それでも だれしも
 めちゃくちゃに こんぐりがえった ノイズの 糸玉となって
 宇宙の複眼の 多重露光の いくつかのショットぐらいには
 互いに 捉えあって いるのである
 そして かる がるしい 糸玉どうしが
 もっとかるがるしく
 たぶん かっこよくなくてもいい
 それが しあわせ などとつぶやきながら
 もつれあい こすれあっているのであろう
 そりゃ しあわせだって
 すべてでは ないけどさ。

ふと とった 他人(ひと)の手の あたたかさが
ひとにぎりの つかのまの 妄想へとさそう
Tout とうとつに
ばか笑いしたくなるような

2019年11月9日土曜日

ヘリコプター

「手術」そのものは「戦争」「戦闘」のようなイメージで夢に出てくることが多くて、何かの映画であったように、ガラス張りになった高層ビルの高層階にいると、大きな戦闘ヘリコプターが下からゆっくり浮揚して来て外の中空に現れ、ビルの中にいる人(tarahineたち)と目が合うや、バリバリバリ・・と物凄い音を立てて銃撃して来たり・・(当然ガラスは全て破られ壊されこちらの階は火や炎や煙や爆風や爆音で大混乱に陥るのだけどなぜかtarahineはそれを受けながら生きて全体を眺めていたり・・)。
あとこれは全身麻酔で意識がなかったからありえないんだけど、あとから考えると手術の光景を夢で再現していたのかしらというイメージもあって、(まあ普通に考えれば何度も受けた部分麻酔による手術室の記憶とか、テレビや映画の手術シーンのイメージをつなぎ合わせて作ったものなんだろうけど)、やはり大きな戦闘ヘリコプターが隊を連ねて飛んできて、tarahineの大事にしている庭園の上空にやって来る。ちょうど4機のヘリがtarahineの頭上に輪を成して滞空していて、照明光を放ちながら轟々と音を立ててローターを回転させ、下を威嚇している・・。と、やおら爆撃が始まる。真下にいる者たちはそれこそひとたまりもないはずなのに、夢のなかでは別の場所にあった(藤棚みたいなところをステージとして舞台セットのように建っていた)ガラス張りの温室が、パリーンッと乾いた(むしろ玲瓏な)音を立てて、砕け散るのだ。そして一頻り爆撃が終わると4機のヘリコプターは悠々と空を引き上げていく・・。

2019年11月6日水曜日

夢と絵

その当時の tarahineは、感傷的であること陳腐であること他の女と同様であること、をことのほか憎んでいたので、よく話に聞くように「ばいばいわたしのおっぱい」とか呟きながら手術前に切り取る側の乳房とお別れの儀式をするなんてことは、絶対にぜったいにゼッタイにしたくなかった。(こっそりしていたとしても口が裂けても口外したくなかった。)(・・て、したんかーい!ってツッコミはなしね。)
そのかわり、抑圧された感情や心象が無意識にあらわれたものか、よく夢をみたり、絵を描きたくなったりした。絵を描くと、円や渦巻のモチーフがやたら出てきて、それが穏やかでなく荒々しい色彩や筆致で描かれるのが常であったり、夢のなかでは色とりどりのビーズだったりちいさなお菓子だったりとにかく一粒一粒「ちいさき良きもの」をたくさん入れた箱、袋などがあって、中身をざざーっとこぼされたり、溢れ出させたり、覆されたり、とかしてたかなぁ・・。

2019年10月30日水曜日

初発手術

もちろんtarahineが結婚したわけではない。
初めての(初発のときの)手術の印象を書いたらこんなものが書きあがった。
なんだか「結婚」そのものをごくごく普通に陳腐に記述したものに過ぎないものが出来あがってしまって、tarahine自身は唖然とするばかり。で、現実に結婚したものとさえ思われて「おめでとう」とまで言われる始末。
・・しかし、だとすれば「いやでしょうがない」なんて書くか?
それとも、世間のひとびとはやっぱり「いやでしょうがない」と思いながら「カクゴ」の結婚をするんだろうか?

2019年10月29日火曜日

婚礼

つよくもとめられる
 いやでしょうがない。
つよくもとめられる
 いやでしょうがない。
つよくもとめられる
  もとめられていくのがいちばんだから と
  せけんのひとびとはいう
 いやでしょうがない。
だけど日程はかってにきまる。
婚礼はこのようにとりおこなわれる。

まだひとごとのように現実感のない花嫁は
あおざめて
そこだけがピンクの紅をさしたくちびるが
赤黒い液体をふちまで充たしたワイングラスをまえに
逡巡する。

血はあまいだろうか?
血はねむいだろうか?

こまかい毒の粒子と大つぶの滋養の粒子がきつく縒りあわされた
重たい流れがゆっくりと聖堂の内部を循環している
魚たちはぱくぱくくちをあけていっぺんに呑みこむしかない。
滋養も毒もごそっとくちにはいる。はなからはいる。鰓から全身からはいる
しかない。
ほかに選択肢はない
空テーブルをまえに
浸潤する

1階と2階で完全別居すればいいことなんだから・・・
たった10年がまんすればいいことなんだから・・・
いや5年
1年

1年はほしい。
せめてふたたび外光あびて腕ふりながらあるきたい

なぜわたしにだけ毒はふりかかるの?
なぜわたしがえらばれるの?
なぜわたしをえらんだの?
あっ ちがうんだ
あっちが うんだ

花婿はやせほそった貧相なからだに白い衣装をきて長い顎鬚と長い口髭たらして
テキパキことをすすめて
髪はもうすこし切ったほうがいいね
めがねを新調しといたほうがいい
PowerBookとPHSはかまわないの?

-----知らん顔して入れとくか?
-----ふふふふふふ・・・
-----あっ多い!
-----きょうは写真撮って帰ってくださいね
-----(ジェームズ・コバーンに似ててちょとわたし好みだけど)
-----(そんなこと言うてる場合か!)

とにかくカクゴしといてね。

このグラスはのみほさないといけないの?

きみが美しかろうが醜かろうがそんなことはどうでもよい。
婚礼はとどこおりなくとりおこなわれる
そのことが宇宙の大事

2019年10月24日木曜日

イチゴゼリー

刃のかたがわにゼリーを塗っておくと痛くないのだと
やさしい手術人はいうのである。
つぶつぶのはいったイチゴゼリー。とろとろにながれるほどのカタサの基調のジャムに
真珠ほどのまるさのカプセルのようにとじめのついた紅い透明ぷりぷりつぶゼリーをどっさり配合しました
そのなかにイチゴの種(あるいは罌粟粒)が無数に重なって透けてみえる。
たっぷり取ってかれらの信奉する名人の鍛えしわざもの銘刀ナニガシ真剣白刃の片面に丁寧にぶあつく塗っていくのである。
これで切ると甘いからという。
これで切ると痛みがゼリーにとろけて
ホトンド快感なのだという。
「麻酔のゼリーか?」と問うと、「そのようなものだ」と言葉を濁すのだが
なぜそんな言い方をするのかわからない。
なぜって、妹が管をさしこまれるときに敏感な箇所にはすべて麻酔ゼリーが塗ってあった
というから。苦痛をやわらげるために。なにかからなにかをふせぐために。

静謐な なにかから
押し寄せる なにかを禦ぐために
かれらは深長にぶあつく片側を蔽い隠していく
人工がつくった人工物を組み合わせた模造のウェルメイドのつぶつぶイチゴのゼリーで
人工がつくったいちばん良きものの片面を台無しにして
「血は痛くないよ」
「血は甘いよ」
とつぶやくのである。

それでもひとり。
光るかたがわはのこっている

2019年10月21日月曜日

終わりのヴィルス

なぜ光は点滅するのだろう かげはかげとしてそのまま認識できないのだろう。なぜ
たったいま終わってしまったなにものかを 今まさに始まりつつあるなにかと
取り違えるのだろう。覚悟の欠け落ちた人間は
気づくのがいつも遅すぎる。気づいたころに
終わりは折れ重なってすでに到来していて
時の体内ふかく浸みこみ複製装置を蝕んでいる。ところどころ脱落し
誤って書き換えられたデジタル信号ほどナサケナイものはない。カウンターをこまめにリセットしても
つねにずれを生じるラップタイム。修正しようのないラグ。

除去しようのないバグ。ぞろぞろ這いずりまわるザムザ虫のこらずはぎとってしまわぬかぎり
この寝台にまれびとをむかえることはできない。めりこんだ背後から遊離し寝返りして
わたしを見据えるわたしの鏡像。光学効果をひとひねりくわえて
暗転する 見知らぬひとかげ

ショッピングセンターの柱の四面にぺったり貼りついた水たまりの
かげに予期せずすれちがうとき
わたしは人間の顔をしていない。
とうに時を終えてしまってあてなくはざまにあぶれた怪物の顔をしている。油滴ひとしずくたらして
うつるかげ

最も切実に関係するのに、わたしから最も遠いところでわたしと関係なく執りおこなわれる。わたしは
終わりに立ち会うことはできない。

壁にうずめこまれた死人の肖像画がもっとも人間らしい顔をそなえているのは
かれらが早めに終わりに気づいた聡明なひとびとだったからだ。
終わりをはじまりと勘違いするたびごとに怪物は醜くなる錠剤を一粒ひとつぶ
服用している。くすりが腕のすみずみにまでしみわたってどんより重たい

もちろん奇跡は きちんと端正に死んでいる人びとにしかおとずれないわけだし
奇跡を待ち臨むのもまたあさましい。迂濶きわまりなく
断片化し もうもとにもどせないまで書き込まれてしまった。記憶装置

ぶっこわれたなつかしの記録装置よろしく対向車線に渋滞したくるまの一台からたちのぼる女性性器の俗称の連呼に
あほがとわらいながらすれちがい終わってから そんながきっぽい
世界を構成する欲情の輪環のかたすみに
おなじように鈍くふるえている怪物の楽器もまたわたしのものだということに気づいて
ぞっとする。

確かに共振しているのにことさら誇らしく宣言しなければならない I can't hear you.
漸くたどりついた国境に飛行場の荒漠を支配しながら ざわめく あさましさに立ち会いながら
さて 出立しかねている ヴィルス熱に襲われて

瀉血しないとだめみたい
それとも血を注射する?
それともDNAファイルを差し換える?

2019年10月18日金曜日

濃密に負けまいとする

たがいちがいに不定形の帯をえがきながらやってくる稀薄と濃密に負けまいとする
力もたいしていれないのにたゆたいながら揺られながら
それでも流れにあらがう方向にむかって立ちつくしてしまう。

薄いから速いとも濃いから遅いともかぎらないし
重いから密とも軽いから稀ともかぎらないし
あ、ついでに、と思い出したように振り向いて付けなされる死の宣告
にたまたま向きあう方向に居あわせてしまう。

流れのそちこちにむすぼれとけぬよどみや渦ににた大きい小さい想いのつぶの輪郭の曖昧にぬれた塊を遺しながら
おもいぬられておみなえし流れていくのはだれなのか
みおつくしはどちらなのか
感情に全身びしょびしょにみたされ
みたされぬ愛にひたされ
ひたすら全霊を消尽して出会えばかならず暴力にぶつかってしまう
すれちがえばそのつどそのかずだけ泣いてしまう

流れの筋のわずかなすきまに祥福を透かしみて昏い明るいはただの落差である。すべてが反射し透過し遅延しながら到来する光であって
絶対光はどこにもみえないのに
うれしいときはそのつどそのかずだけ泣いてしまう
遅れながら泣いてしまう

2019年10月8日火曜日

try

現在(といっても今在るかどうかわからないが1997年4月1日小包を出しに行ったときは確かにあった)中央郵便局のあるところは(信頼できるといわれている)歴史教科書等によれば100年前から由緒ある中央郵便局であるということだが私にいまある記憶によれば30年前ここはたしかに1,000年前からここはこうだったとひとびとのいう果物卸売市場があった。ゆっくり移動撮影して7分25秒かかるほどの間口にドリーすべらせ何か寄生植物の蔓を編んだ籠をせなにオレンジ檸檬ライム西洋梨いちご杏さくらんぼアヴォカドまんごー芭蕉いろんなめずらしい果物の山とつみあげられたうえに美味しそうな白熱電球の美人ライト処々ともるひろい市場をあるきまわる。ここ1週間の滞在で見たことのなかったマンダリンがあるのをみつけへたくそな(現地に行ってからおぼえたばかりの)スペイン語で「どこの産か?」と問うと親爺は「中国産だ」という。小粒のふわっとしっかりした粒揃いに有田を見出していたわたしは重ねて「日本産ではないのか?」と問うと親爺は「ああそのとおりだ。中国の(なかの)日本だ」と答えるのでうつむいて言い訳がましく「わたしは日本人だから」と呟き「2kg頂戴」と籠をさしだす。秤に2kgぴったりのみかん籠に入れてもらい財布をさぐってお金を出そうとすると親爺はすでに市場の仲間たちとべつのおしゃべりに夢中になっていて此処1ヵ月まともな肉の配給がないとか今日はいよいよ塊肉が大量に出るらしいとかハムしか出ないのではないかとか豚のたべられないおまえは気の毒だとかハムを少しずつ削って夕食の貧しいおかずにするのはやりきれないとかひんぴんと受け渡されるハムの語感にぶっとい脚の筋肉ぷりぷり私を蹴ろうとして脹れ漲るのを感じ蹄がしゅわっと目の前とおりすぎるのをあやうく躱して私は出しかかっていたニッケル硬貨2枚引っ込め気づかれぬうちにとそそくさその場を離れる。結果的にただで手に入れたみかん背にコリント通り北へ進むと左手に酸性雨なみだたれる建国英雄の銅像といつもつるつるに磨かれている黒い石の碑があってあらかじめセットされたおざなりの花束とロウソクと泣き女(子供つき)が供えられている。ゆるやかに段をのぼり剣呑な石の喉元に籠のみかんをそのままざらんとあけてひとつかに重ねカンマがわりに手をあわせそれから自分のために3個だけ取り戻しいざりさがると2~3日前から耳について離れない声がまた執濃く囃したてるとられたものはとりかえせトランスポートとらまえるトラックにトライ・・・ざぶん!筒状に空洞になった情報端末に視線をくれ病状の宣告はあと2年の猶予をくれてもうこれいじょう睡れないわやわやといそがしくいごきまわるゆめをいちいちキャッチアップすることなどできぬ何いいだすかわからない渡来人たちのほこりに一人ひとりフォローすることなどできぬぼろぼろに穢されたうつろを抱え疲れ果ててヒジャブの少女をかどわかしてくる純情下劣にうちのめされどうにもならないどうやることもできないひとひとひとのみがわりにfuckfuckfuckをかさね無残な不潔な非人道的なここまで堕ちたくないとだれしもなぜおもうのだろう?生きるためにはどうして墜ちずにいなければ或る水準を保ってきしむ板を渡さねばならぬのだろう?ぎしぎし板をわざにゆるがせ錠をやぶるほどの酒かっくらって紫陽花をかかえたjohnnyは「今晩おれの子供が生まれたから」と嘘をのべて死をもてあそぶありふれたあかぬけないあかぎれたあそびにわたしを誘った。しょぼくれはてた贅沢にもゴールデン(すら)アンバーむさぼりそこがだれか高貴なひとの墓であることはまちがいないのに火の玉の人食い鬼のドルイド幽霊の俗説が圧し倒している天罰覿面ばちかぶりに剥き出しに曝されたごつい石をかさねた遺跡で夜明けを迎えて二人だらだらみかんの小袋を吸いながら春分だったらよかったのにねとなまりきった感覚をなぐさめあいつつかつての英語教師にwish you were hereをふくむ絵はがきを出しに中央郵便局へとまたロケバスを駆っていく。

2019年10月3日木曜日

名づけたくないひと

きみと私とのあいだにあるびみょうな間(マ)
いわくいいがたいふんいきを
きみは名づけたくない。

どういうことばをつかっても
かならず「ちがう」と抗議する。
どう言っても ずれてしまう。
どう語っても 紛糾してしまう。
名づけると同時に 腐ってしまう。
終わってしまう
から?

だけど きっと
ホンキで名づけようとおもったら めちゃくちゃ簡単なのだ。
生物学的な段階を位置づけるメタフォールをもって
AとかBとか あっさり名指しされてしまうもの。

だって
名づけられないものが
なんでにんげんに知覚されるはずがあろう?
私が たしかに感じている この感覚を
きみが どうとらえているのか しらないけれど

私は 謎を問うて
きみの胸に飛びつくスフィンクスか。
きみが、まっとうに人生を歩めば、私の謎などは粉砕される。
こなごなにくだけてしまう のに。

2019年10月2日水曜日

ブランデンブルク協奏曲

(90年代)こもっていたその時期がいまから思えば「軽い鬱」だったかもしれないと本人が素人診断するのはホンモノの鬱レベルではなかったろうなということと(だって昼間にはそれなりに仕事もしていたし本人にはまともな意識があり周囲が気づいて病院に担ぎこむほどでもなかったということ)それがひとりきりの夜になるとたまらなく鬱の重みに押しつぶされる日々が続いていたことと。自殺念慮という症状があるわけだけどこれは経験した人にしかわかるめえ。「あ、自殺念慮キタ!これはいつもの鬱の症状でやばいから病院に駆け込もう」とか思える人はよほどその病気との付き合いが長くおそらく瀕死の体験も実際にして来ている人かもしれないとおもうけど、当時のわたしにそんな知恵はなく13階のベランダから身を躍らせる代わりに灰皿を投げていた。(いや、ほんまにそのことば通りに)。で、背中からしつこくしつこく重たく重たく迫ってくる鬱の重圧をなんとかやり過ごすために頼っていた最後のよりどころ(縋った藁しべ)が音楽で、そんなときに繰り返し繰り返し頼ったのがJoy Division(もちろん Ian Curtisが自死を遂げたことは知っててだからこそ身に沁みたとこもあったかも)と バッハのブランデルク協奏曲 。これはたんなる当時の私の感覚で根拠も何もないのだけれど、世間的に心を鎮めるのに良いとされるモーツァルトは当時の私の耳にはめちゃマッチョに聴こえ聴くに堪えなくて(当時の私を現実的に苦しめていたもの=迫害者はなにかマッチョ的なるものであった)それにくらべてバッハは女性的?(もしくは脱男性的)に聴こえていた。なかでもたまたま持ってたブランデルク協奏曲の4番5番6番をこの順で収録したTrevor Pinnock率いるThe English Concertの古楽器つかったCDはその再生頻度からして大袈裟に言えば(いやちいさく見積もっても)わたしの命を救ってくれたともいえます。夜中アンプのとこに駆け寄り背中まるめてヘッドホンで聴いてた自分の姿を第三者がみているように思い出すことができる。

2019年10月1日火曜日

自然からの復讐(もしくは懲罰)?

だいぶ以前の話になるが・・さる薬品会社のPR誌に小コラム書くためにわざわざ専門医師に取材に行ったのだが、内臓脂肪が体に悪いというのは、内臓脂肪がまるで独立した一つの臓器のように、数々のホルモンを分泌するからなのだ、という話。そのホルモンあるいはメッセージ物質は体の他の箇所に働きかけ、その個体に早死にをもたらす。高血圧だったり心臓疾患だったりのリスクを高めるんだそうで、内臓脂肪が伝えるメッセージに良いものは一つとしてないらしい。
という話を聞けば、みんなすぐそう感じるだろうか? その取材の折に医師が洩らしたこと。これってあたかも自然の摂理ですよね。群れのなかで食物を独り占めする強い(権力のある)個体があって、どんどん食べるもんだからどんどん肥って内臓脂肪を貯めこむ。そんな個体は群れにとって邪魔だから、早死にするよう自然が命令するのだ・・と。
その伝でいけば、栄養状態が良くて女性ホルモンが盛んに出ていてそれなのに妊娠出産しない個体に乳癌・子宮癌のリスクが有意に高いというのも、似たような自然の摂理ではないのか。そんな個体は群れのためにならないので、早々に癌を発生して死んだほうがいいのだ、と。それって世間が乳癌あるいは子宮癌になったその条件にあてはまる女性に対して言うのであれば、これは完全に差別であって許されることではない。エイズ禍真っ盛りの頃のアメリカで、エイズを発症するゲイの男性たちはやっぱり自然に反する行いをしているので自然の摂理で死病になるのだとか原理主義的保守派から指弾される一方、ゲイの女性では乳癌が「レズビアンのエイズ」と呼ばれるほど猛威をふるっていて(だってアメリカとか先進国のレズビアンって上に挙げたリスクに大抵あてはまるでしょ?)これまた自然の摂理的語られ方をして、当事者らを怒らせていたのだ。
・・しかしtarahineが当事者になってみて、しかもその癌がまさしく「女性ホルモンを餌にして成長するヤツです」というご託宣もとい検査結果が出てしまうと、当事者自身としてはやっぱり自然から復讐(もしくは懲罰?)されているな・・と感じずにはいられない。そのとおり。tarahineは食べるのが大好きで栄養状態良くこってり小肥りで、恋愛沙汰もそれなりにこなし女性ホルモンもおそらくたっぷり出ていて、それなのに妊娠出産しようとしない、自然に反した生きかたをしているので、自然からしっぺ返しされたのだ、と。

2019年9月29日日曜日

アツヒコよ

殺しちゃったぞ。ついに。
でも現実のキミは生きている。

2019年9月25日水曜日

死。篤彦の

死はからだを貫く風穴のようなものとして表象される。
たとえば銃の登場するあらゆる映画のように。
しかし別のかたちの死もある。それはゆでたまごの薄皮のようにからだにひっつき
皮膚に塗る麻酔剤のように ひとの 表面の感覚を麻痺させ
徐々に 徐々に 生を 奪う のだ。

つらくて 語れない。アツヒコの死を。
でも語らなければならない。

みんなが気にかけていた。
みんなが見護っていた。
みんな知っていたのだ。すでにその麻酔剤が、たっぷり何年もかけて、アツヒコの表面に塗布されていることを。
そしてじわじわ じわじわと かれのいのちを麻痺させていくのを・・
最期の最期の瞬間まで みんながみまもっていた。
でも、だれも、その最期の瞬間に立ち会った者はいなかった。
アツヒコは だれにも看取られずに 死んでいったのだ。

最後のエントリーは「もう寝る。」だった。
「もう目覚めなくてもかまわない」があとにつづいていた。
半時間後に気づいた誰かが「おい、起きろ!」と書いた。それから、そのほかのだれかも、そのほかのだれかも、「起きろ!」と書いた。「起きてくれ」と懇願する者も、「大丈夫?」とか「心配しています」とか綴った者もいた。
でも、みんなが、広場で起きている惨劇を 自宅の安全なアパートの高い窓から眺めている状態だったのか?
これだけたくさん書きこんでいるそのうちの だれかが、きっと駆けつけてくれるだろう、あるいは通報してくれるだろう、兎に角なんでもアツヒコを救うためのなんらかの適切な手段を講じてくれるだろう、と、みんな、ただ、みているしかできなかったのだ。
広場ではなく、そこはネットのヴァーチャルなひろばだから、画面の向こうには じっさいには見えていない アツヒコを。

そこまで周到だったかれをむしろ褒めるべきなのか?
そうやって、ブログを通じて、かれをみまもっていただれ一人として、アツヒコが現実に住んでいる住所だったり連絡先だったりを知らなかったのだ。
だれも 駆けつけるすべを知らなかったのだ。

そうしているうちに ながいあいだ かれをむしばみつづけていた 死は
最期の最期の瞬間まで ゆっくり ゆっくりと かれをそこないつづけて
かれの表面を 溶解し
かれの 肉を 熔解し
かれのこっかくを 融解し
そして
ついに かれの いのちをうばった のだ。

そりゃあ

責められるべきは ぼくたちだ。
わかってる
でも 酷いよ アツヒコ
ひどすぎる
こんなふうに おまえに 死なれてしまう
ぼくたちの
いや ぼくの
身にも なってくれ。

2019年9月22日日曜日

闘病とは言わんぞ

(これ書いたときから13年経ってますが状況あんまり変わってないですかね?)
いまでも普通の(自分や近親者が癌になったことのない)人たちには「癌=死病」というイメージがあるかもしれないし、もちろん今でも治療困難で間近な死が避けられない癌もたくさんあるけど、たとえば映画になった『阿弥陀堂だより』など南木佳士さん(もともとお医者さん)の小説を読んでたりすると、ひと昔前の医者たちの意識、患者やその周囲の人たちの意識はこうだったのねぇ〜という「明治は遠くなりにけり」的な感慨しか思い浮かばん。思いっきりええかげんにいえば「そんなに深刻にならんでもええのに...」という感じ。
もちろんこのかんの医学的治療的環境の変化はすごく大きい。オールマイティな特効薬とか画期的な治療法とかが発明されたわけではないが、癌もエイズも知らん間に患者がなかなか死ななくなったのは、いくつものいくつものいくつもの新薬や治療法が発明・発見されていて、どれもが「決定打」ではないにせよ、取っ替え引っ替え使ってなんとかコントロールしていくうちに、自然の寿命と等しくなるぐらいになっているという算段。
それもあるが、たとえ死が避けられない場合でも、死そのものに対する意識、あるいは死を迎える意識も変わってきたような気がする。死というものはそれほど深刻なものではない、必ずしも悲劇というわけではない、なにか軽快なもの、ポップなもの、場合によっては楽しみに待つべきもの…でさえあるかもしれない。
「生」の側にあくまで固執すること(死すべき患者を生の側に引き戻すこと)が「癌」(病、死)との闘いであり、それに敗北することは絶対的に避けたいことであり、敗北、降伏は圧倒的である・・・とかいうんじゃなく、少なくとも、果敢に闘うばかりが肯定されるべきではなく、苦しんで苦しんで最後まで苦しく生きるよりは、楽に死を迎えるほうがいい場合だってあるじゃないという意識も確かにあって、むしろ肯定的に捉えられていますな。周りが本人に押しつけるのはよくないと思うけど・・ただ現実には(特に日本では?)周りが勝手に押しつける「尊厳死」も多いようではある。
いや実は、あくまで生に固執する「闘病」的意識こそ、近代のある一瞬に特有の特殊な意識であって、実はその前の時代はずーっと人類にとって「死」はもっと仲良しさんだった気もしないでもないのだが...。

2019年9月19日木曜日

抛物線

ととっととととトととととととととととととととっととト滑らかに抛物線をえがいてとんでいく宇宙の運命線を前にときどき時折に個にとり微分すれば個個にずれずれにずれそれそれに逸れながらすべての動線はある終点をめざしてたいくつに惰性で飛んでいく。つねに一定速度で跛行する紆余曲折しながらもひとつの方向をめざしてしか進まない悪癖めいた宇宙の法則。君の暢気な上目使いをだらしなくうけとめながらこの平和を不幸色で掻き乱してやりたくてたまらない衝動線を紫の爪先に挟んでなぞりながら、このグループみんなのあいだで愛されているひとに関して存在感まったく稀薄で銀髪ながくたらし白い薄葉の服が似合い全体的に透明で青白い雰囲気でなんで愛されているのかというと、それはこのグループの特質が、みんなで整列して前の人の背中にぴったりくっつく。くっついて肥ったひとは胎児型に丸まり痩せたひとはジャックナイフ型に折れピタっと前に重なり背後から重ね餅に重ねられ、気持ち良く半眼を瞑りどんどん重なっていくからだ。そうやってみんながかさむあいだにかれだけは稀薄な幽霊みたいにみんなの体をすり抜けていくことができるのでグループの接着剤として機能しうるのである。かれに優しく髪を撫でられながら一団のカナメとなる位置に鈍りになまった刃の惰眠を貪る君よ。終点がすぐそこに透けてみえる心細さも悲観も幸福の拒絶もただ一緒にいて一緒に心細がってなんて思わないの。接着霊に最も愛されていながらそれに気づかぬ君はかかっ呵々かかっかかかかかかかかかかかかかかっカカとわらっておればいい。かろやかに跛行する霊線を辿りながら

2019年9月15日日曜日

私は影が待てなくなる

私は影が待てなくなる。
こころの繊い夕暮れ土佐堀にうつる光の放射線をながめはしゃいでかしましく雲にかくれているよそさまの影が待てなくなる。
つるつる流れる若いきれいに栗色メッシュに染めた髪の毛いっぽんいっぽんに光の鼠をはしらせ boys きみたちの影が待てなくなる。
婁婁る艶めくほむらほのほの耀として消えなんとする刻いらだたしく喰いちぎりはむこうてゆかむとするをなつかしげにみやる我等が淑女あなたの影が待てなくなる。

私のあずかり知らぬ
勝手に世界はよそで厳密に織りあげられなお織りおり私はつねにゴミ除去され遅れて到着する。
預言は既に過去となる瞬間その隙間より遥かフィルムの瑕として固く硬く消し難く在るだろう。
間抜けな預言者は未来予知するつもりで過去から発散され夢かいまみたのち再度現われるのみ。

逆周りにあらごうて荷馬車牽く馬
パラシュート
風ふくみ貧しい妊娠線ひきちぎらんとゆらがう白い布
蝦蛄のしっぽ
うごめく人のおよびかいくぐり男の口に咥えられうごめく魚の尾
ローヴァー

遅れること と引き延ばすこと の退屈な間隙
視界の端をトコトコ点線たどって走り去るローヴァーがいる。
この中間
とても待ってなんかいらんない
中立地帯
を待てなくて夢みるのだ

宙にうつる
待ちくたびれた夢のなかを魚の浮きぶくろの弛緩してながく虚数ふきしきり
4台のローヴァーが通りかかった。
地下駐車場の黒はカラッポでうつくしい置き石としてふたりの暗黒人の銃による対決の書き割りとなる。
黄緑がかった子はケバケバしい青とローズの光のなかにやってらんねえよって顔して頻りに居場所を誤った。
ともだち家族がぎっしり詰まったビリジアンのミニ。ゾクっぽ~い
そして色わかぬ遂に見えない1台はコートダジュールの猫の彼方に掴み込められ伏してねたんで刻まれる。は
レルヤ
いちばん大切なのが見えない。見えないから色わからない。色はある。色はあるんだ。だって確かにあったのだからあるのだから。待てない先に見えないだけであって
私を決して乗せることのない
私が決して乗ることのない
小鬼の運転する走る止まる壊れる燃えるそのうごきだけが灰白質に目撃され
夢が夢だと分別さす徴として四海の橋を架け駆け賭けぬけていく。

待っても待っても待ち人は背後にいる。影を
待てなくなる私をつらぬいていく

馬の影
たった一頭の馬の
私は影が待てなくなる。
うしろへ

2019年9月13日金曜日

13階の視線

うーん、自己憐憫ととられずにこの話ができるかどうか・・。

学生時代に住んでいた京都から自覚的に住む場所を選び直したとき、出身は兵庫県だけど実質は大阪の辺境の出だったもので、大阪らしい大阪の下町に住みたくてそういう街を探し、うっかり4号棟の13階という物件を抽き当て、地名を見てもなんだかさる歴史上の人物の怨念に関係ありそうな地名で、そんな迷信に気をとられるのは馬鹿げているとはわかっていながら、入居して数年経ってある人生のカタストロフに遭遇。それからまたしばらくあって阪神淡路大震災があり、けっきょくは「その後」の人生を長く身を潜めて生きるみたいな意識で長々とその時期を過ごしてしまいました。
いまから思うと軽い鬱もあったのかなぁ・・摂食障害もやってたし。

時期の変遷を画するのが相棒のパソコンで。最初期はNEC機にBASICで命令して遊んでた頃、MS-DOS、フロッピーディスク、友人や仕事の取引先に勧められてマッキントッシュに趣旨替え。あとはマックひとすじ(アンチWindows)、パソコン通信には手を出さなかったのでマック機のときにインターネットに接続し始め、それからネット付き合いが広がりはじめたところまで・・。
911(英語で読んでくれ)からそういえばもう18年経つのだねぇ・・と一昨日語学の先生と話をしていてその911のときにまさしくNYに住んでいてまさしくあのビルに職場のあったネット友達ほか数人で当時ウェブチャットよりも早かったナントカという仕組みのチャットで刻々現地の様子を知らせてもらいパソコンに張りついてたことを思い出します。
となると2000年代に入ってからはもう回復期か・・それまでは振り返ればホントに沈潜期。なーんも生産的なことしてないし上昇も成長もしてない。普通の人のライフステージでいえば最も生産的であるべき年齢層をそんなふうに過ごしてしまったことはいまからおもえば痛恨の極みでとても他人(ひと)には勧められないけれど、これもまた迷信的にいえば宿命でもあったのでしょうか・・。

その場に住んでいた頃の意識を「13階の視線」「13階の死線」と呼んでました。13階のベランダに立つと川が見下ろされ東向きなので向こうの山が白みはじめ暁どきから日の出が見渡される。わたしはいつここから落ちてもおかしくないしふと落ちたくなる衝動にかられるかもしれない。恐怖であるとともに恍惚でもありました。だからベランダに立つことは怖くてようせんかった。その身代わりとしていろんなもの投げ落としましたな・・。

2019年9月11日水曜日

マイ オウルド シルヴァ フレイム

よそゆき仕度できました
Tさんがお連れくださるというのですものどこへでもまいりますわ。うふふふふふふふ・・・女はわらって帯を解く。
おいおいおいおいそれはよそゆき仕度を解いているのではないのかい
武装解除は攻撃のしるし男はだまって身構える。緑の矢ふりしきる滴りの野原において

広津神社境内ななめに横切り感情の刃先につとふれてから石段をおりていく蝸牛にあいさつをわすれ
眼下におさえる善美堂にめばりをくっきりいれた若侍のゆうれいが透りぬける。
侍の名は○○△△××衛門と記載したところでゆめまぼろしだから瞬時伏せ字にかわり
菊さまの表札を(まだご健在かと)そっと確認してからゆるゆるおりていく蒼谷の砂利道でいつもながれていた。
いつもかすんでいた。
僕の
マイ オウルド シルヴァ フレイム

そこできまって草履をなくしたといいつのるのだ。どうしてくれるのよ草履がないと歩けないじゃないの!どうしてくれるのよ大事な草履なのに?!
え?なくしたのはおれのせいなの?
だってここまでつれてきてから・・・ついてきたのはだれだってんだ?阿呆くさと顔をそむける。
だって草履がないと歩けないじゃないの!歩けない草履がないと歩けない・・・あとは涙とリフレイン 草履がないと・・・草履がないと・・・草履がないと・・・
ここは夢なので同情もしないし実務的な対応もしない。それどころかあまりの阿呆らしさに吐き気をおぼえ・・ここでお助けばあさんでも飛んでこないことには話にもなんにもなりゃしないが
そんな都合のいいもんは天からも地からも勿論かなたからもあらわれず
びっこひく二人三脚ひこひこひきずりながら哀れを全身にした
泣く女

男はひたすら
平身低頭

おぼえているのは 女のひかがみ 男のぼんのくぼ
ふたりの ひょこんとくぼんだ箇所に ひゅんとたましいがすいこまれて たゆたい
つかのま すくせがふれあった。
ぼんのくぼ とろんと伸びる六角形帽子の吸い込まれていく白壁のお堂を向こうに見てからに
黄金色の枯葉の裏山に這い登るくるぶし白足袋はぐじょぐじょ銀鼠によごれてぬれて裾からげ
ふくらはぎ ひかがみ いたいけに伸ばしきり ゆるやかな坂ひとのぼりひとのぼり 大股の男にふーふー追いつきながら喘ぎ喘ぎの合間合間に一齣一齣わたしの罪を数えあげてみせるのだ。嫁入り支度にもってきた乳白硝子の金魚鉢粉々に壊してしまった・おとうさんの写真をいれてた銀の額縁失くしてしまった・大切に窓辺に吊りさげていた薔薇の枯花ぱりぱりに割ってしまった・つるつるに磨いた赤林檎たべてしまった・お気に入りの天竺鼠の毛皮の靴取りあげてしまった・・・わざとじゃないわざとじゃないって幾度も幾度も謝ったじゃないか・・その代わりじゃんけんに勝ったらぴかぴかの緑の靴をくれるって約束だったわ・あたしずっと以前に勝ってたのにいざ頂戴っていうと引換期限はとっくに過ぎているからってくれなかった・・いまごろそんなこと言われたって・・おまけに頂戴頂戴ってその場を動かないあたしを物乞いのように餓鬼のように扱ったわ・秘書があたしを目の仇にして憎々しげに追い出しましょうかというのを止めもしなかった・・そりゃ状況をはたから冷静に公平に見りゃあんたは単に卑しいさもしい性悪女でしかなく・でも俺だけは事情を知っているのだからそれでいいじゃないか・・知ってて言わないのは卑怯よ・あたし悔しくて悔しくて足摺りして悔しがってもあなたはあたしを冷たく見おろすだけ・・見おろしてなんかいないただ気の毒だと思う・・それが見おろしてるっていうのよ恨みつらみ妬み嫉み僻み自己卑下どうせあたしなんか低脳無知の哀れな女だとおもってるわけ・・だけどもう緑の靴はあげられない期限切れだから気の毒だと思うけど・・たったひとそろいの緑の靴よ・それだけそれだけそれだけなのに・・・長々長々長々続く追っかけっこ。
もうそこまでは側溝も疎水も水道橋も通じていない奥山にこれほどまでに踏みこむまでにふたり彷徨い来た末に
わたしがついに根負けして平身低頭するまでに。
あなたは勝ち誇った顔面つきあげさらに大泣きに泣き崩れ
せなかからおおう全身で敗北をあらたにする。

ちろちろ燃ゆる銀のほむら女神の立ちつくすてっぺんにまでいちどもいったことがなかった
ままに もう銀は錆び ほのおもひくく消えかけて
あおぎみても頂上はもうみえない

平身低頭
するほうが勝っている。
という世にもありふれた人の世の法則の卑猥卑俗卑近ぶりにふたりして唖然呆然うちひしがれながらもやっぱり僕は
平身低頭するしかないのだよ。どっちが
勝った負けたしかなかったね。君と僕とのあいだでは

2019年9月8日日曜日

て、インパクトあるタイトルですねぇ・・。
とはいえ最新の生存率データによれば(種類にもよるけどわたしのやったのなんかは)、もはやまったく死病でもなんでもないのですけどね。
そもそも癌って漢字の字面が凶々しく、いかにも死に至る岩の塊って感じ。でも英語(や主な西洋語では)ただの可愛い「カニさん」ですから。ま、しかし英語(や西洋語)ネイティブにとって「蟹」が可愛いかどうかはわからんか。彼らにとって蟹はやっぱり凶々しく長い肢を広げて死病を身体に張りつける存在なのかもしれないし・・。(しかしいつも思うんだけど英語(や西洋語)話者が星座を聞かれて、「蟹座」と答えないといけない人はその語感を気にしたりしないんだろうか?「あなた何座?」「cancer」だなんてね。)
話がずれた。tarahine(ブログ連載中のタイトルは『85歳からダンス』)という連作のテーマは「身体」ですからして病気の話は避けて通れません。
筆者が別のハンドルネームでやってたフェミニズムのサイトで「絶対書いてね」とエールを送られ「絶対書くから」と約束した以上ぜったい書くつもりでいるし、そしてどうせ書くなら当たり前の闘病記だの病気がモチーフの(口当たりの良い)物語だのにはしたくないし。
常々世間にある闘病記だの闘病ドキュメントだの物語の中でギミックとして使われるケース(少女マンガの白血病といえば定番でしたもんね)は言うに及ばず、真面目にテーマやモチーフに織り込んだ物語とかノンフィクションとかでさえ、何を読んでも何を見ても、この病気の語られ方そして読み取られ方が、いったん当事者になってみるとものすごく違和感のあるものなのです。(と、これは多かれ少なかれ当事者になったことのある方ならみんな感じておられると思う)。
描かれる細部がやっぱり微妙に違ってたりずれてたり(物語の鍵になってる部分にそういう間違いがあると目も当てられないし)、また端的に患者はすべて健気に癌と闘う悲劇のヒロインとはかぎらないし(筆者は少なくともちがうし)。・・ただスーザン・ソンタグではないがやはり隠喩としての病という側面はあるかもしれない・・それはまた追い追い書いていきますが。
2つ前のエントリーにある「瘤のある自画像 」という詩を書いたときにはまったく気づいてなかったけどこれはあきらかに事態を預言していたことになるし・・。
で、これはちゃんと言っておかないといけませんが、(これを言うためのエントリーでもあるのですが)、現実の筆者の状態はこれを書いてる時点で初発も再発も無事乗り越えて長期寛解状態が長く続いています。(定義上「完治」とは言えないんです)。まあ立派にサバイブしたものと考えられますので、どうぞご心配なく。
なおtarahineの連作はフィクションの嘘日記で主人公は現実の筆者であって筆者でありませんので全てが筆者の体験とは限りません。念の為

2019年9月1日日曜日

その後のその後

 「局所再発は全身再発の一症状であることも、局所再発のみの場合もあります。後者の場合は手術や、放射線治療により治癒します。3cm 以下の胸壁再発、腋窩リンパ節または内胸リンパ節の再発(鎖骨上リンパ節再発は予後不良)、無再発期間が2年以上の場合は予後が良好なことが多いです。このような人の5年無再発率(新たな局所再発または遠隔再発)はある最近のデ−タによれば25%、10年無再発率は15%である、10年の局所コントロ−ル率は57%です。」----(アメリカの医療文書の翻訳)※南雲吉則・川端英孝氏による。
べつの資料によればIIIB(遠隔転移なくリンパ節への局所再発)で5年生存率35%,10年生存率20%。5年後生きてる確率1/3か。10年間のパスポートを使い切れる確率は2割か。それにしてもこのおなじ文書が「再発乳ガンはしばしば治療に反応しますが、治癒することは稀です」で始まってんだもんな。
 わたしはすでにわたしの晩年期にはいっている。
 なんで85歳かというとお役所の出してる日本人の簡易生命表というデータで見ると女85歳の平均余命がだいたい7.5年ぐらい(じわじわ延びてはいるが)だからだ。
 統計には疎いもんで「平均」とかこういう概念には弱いけど、ま、そんなもんと思っといてまちがいないでしょ、と見通したてる。
 ふつうの85歳でどうでしょうね。ふだんが健康なら、なんとなくここまで生きたんだからあと10年ぐらいは悠々生きられるような感じがある。だけど20年は生きられないんじゃないかって気もしてる。だけどひょっとしたら100歳越えてしまうかも…という気も一方ではあるかもしれない。それは、でもむしろ長生きリスクか。ひょっとしたら来年、再来年ぐらいにでも病気して、ぽっくり逝ってしまえるかも。そういうほうが楽かも…とも思っているかも。
 たぶんわたしもそんな感じ。10年は楽々いきそうだけど20年は生きられないかも。来年再来年にでも(いや明日にでも)また再発・転移が見つかれば、やばいとこだったらそれから1カ月とか1年以内とか3年とか5年とか…。
 とりあえず、今日明日に死ぬことはないだろう(もちろんほかの病気や事故ってこともありうるが)。今週はだいじょぶだろう。といいつつ、新たな日、新たな週を迎えている。ああ、今日も無事。明日も無事そう…。
 いつやってくるのか、確率はわかるようでわからない。自分に起こることはそれかそれでないか二者択一であってシュレジンガーの猫みたいに50%の確率で生きてるなんてありえないもんな。ぜったい当たる占いじゃあるまいし確実にわかるわけはない。遠いようで近い。死の姿を、ごく間近に感じたときと間遠に感じるときがある。その距離感。

PS : これ書いた時点から数値ははるかに改善されてるはずです。念のため。

2019年8月30日金曜日

瘤のある自画像

まずアンバー。
アンバーをダークに溶く
次第にダークに
底辺にはチャコールグレーをすこし毛羽だたせ
黒いシルエットとの境界線はくっきり
うえのほうは光色の黄を刷き
うっすらなでしこ
それから
灰色のまじったみずいろ。
みずいろ
みずいろはだんだん
上方にむかってだんだんインディゴブルーに
深くなる。
(どうしてこんな色に出会えるんだろう)
(どうして・・・)
のスキマに
ふいに鏡面が割りこむ。
白く白いハイライトを点々と置いてゆきながら
ゆれるチャコール
ゆれるアンバー
ゆれる黄
ゆれる水色
そしてインディゴ
そのつどあたらしい
波うつ水面
またふいに消え去る。
「うし」というコトバが
こないだから肩胛骨の内側あたりに
滞留している。
かたく
確実な質量をもち
おもく
輪郭をもって
そこに居住しているが
ちっとも不快ではない。
くくくくくく・・・とふくみわらいがもれそうな諧謔とメランコリーを帯びて
「うし」
「うし」
と自ら発音される
「うし」は
いまにも腿の前面あたりに第2の出張所を
ヒップのえくぼのあたりに第3の出張所をつくって
子分たちを送り出しそうな勢いである。
暴力団的に自動的に描かれるポートレートに
「うし」という瘤が
複数で
不法滞在する。
あちこちで勝手に
「うし」
「うし」と
自ら発声する。
いつか移動する日まで
そしてまたふいに現前する
アンバーと黄のひかりとブルーとは
あおじろく放電する一定の厚みをもった狭めの肩と
くろく繊いくるぶしと
スローハンド早撃ちする恐怖のまなざしをそなえて
ひとをその場に凍らせたあげく
まったく不似合いな優しいコトバをくちにする。
目的語をとらない「愛する」
そういえば
フランス語の動詞の変化はまずこれで学ぶのである。
目的語をとらない「愛する」
日本語にはないコトバ
きのうはもっとのんびりしてて
「ひとはひとをいとおしくおもうものである」
という述懐のうらに
きょうは
「だれからものぞまれないひと」
があって
ひとりでにうごきだす。
かってに移動をはじめる

2019年8月27日火曜日

恋唄

文脈から切り離され
歴史の流れからそこだけ ほわり浮き上がった身体
それとも 肉体?

好きな人よりも まるで関係ないひとの肉体のいちぶのほうがナマナマしくみえる。
19:45発新快速野洲行待ちの列に並んだ
金髪のにいちゃん(たぶんモンゴロイド)の耳たぶの背面のピアス穴近くに
こびりついたちいさな血のかたまりだ。

対してこちらは
逆光の朝陽にほわりと浮かんだ イマージュだけの白いプラットフォームだ。
恐ろしい視線だけのプラットフォーム
たまに ひらりふわりと気まぐれ風をヴェールにふくませ
必殺微笑み光線を呉れる。
で、すぐまたヴェールは平常顔にたれる。

わたしはプラットフォームにせっせと植栽する。
思惟的な三色すみれだったり
規範のひこばえだったり
麝香鹿の爪
あなたがあやつる
八角形の糸車だったり
アホネタとか馬鹿っ話とか 世間がいう類(たぐい)のぐだぐだだったり
きのう偶然2度も聞こえてしまった
Love Is a Many-Splendored Thing
だったり。

あの血はいつまで液体だったのだろう?
「ちょっとちくっとしますよ」といいながら、例の看護婦さんにあたれば針は全く痛くない。
わたしはまるで液体とおもえない赤黒いbodyがすこしだけ渦をたてながら透明な円筒に吸い込まれていくのを注視している。
・・・あなたのばあい抗***抗体が見つからないんです。90%の人には見つかるのですがあとの10%の人には見つからない。だけど最近、新しい検査方法が保険承認されましてね。それだとあとの10%の人でも見つかる可能性が大きい。まだ実験室レベルのデータしかないので確かなことは言えませんが。あなたの場合もきっと見つかるとおもいます。見つかったらそれがマーカーになるし・・・。
わたしはなんとなくこんなイメージかなとええかげんに聞いている。抗***抗体のこともこれまでの検査法と新しい検査法のちがいも先生は丁寧に図を描いて説明してくれるのだが。
なんだかアルファベットと数字でできた略語をずいぶん覚えたよ。略語をもとの英語に戻せばどうなるかもだいたいは言えるよ。忘れててもぜんぶ手帳にメモしてあるよ。だけどわたしに残るのは抽象でもない具象でもない中途半端に陳(ふる)びてしまったイマージュにすらなっていない記号の断片だけだ。
その断片たちが生きたわたしの肉体を刺し示すわけだ。先生のおっしゃるには・・・
それとも身体を?

あなたのナマの身体を刺す記号が欲しいだけなのか?

金髪のにいちゃん背中まぢかから凝視してても痴漢と間違われる気遣いのない位置に立って
ロス・アラモス色に輝く例のプラットフォームをまたミラージュする。
目前の軟弱産毛そのものの肩(だけど決して悪くはないむしろ好ましい)よりもさらによわよわしい
“紡ぐひと”の肩になっていた
すこしひだりにかたむいていた あなたの肩を抱きたいとおもうのだが。
“紡ぐひと”の手つきになっていた その指の背に
そっと触覚をすべらせてみたいとおもうのだが。

2019年8月23日金曜日

その後(というラベル)

それは「post festum」(祭りの後)でもありますし「aftermath」(厄災の後)でもあります。
後者は特にThe Rolling Stonesのそれというわけではありませんが、前者は木村敏のそれでもありますし、Karl Marxの意図するところもすこし入っています。

いつからか、わたしは「その後」を生きている、ということを意識するようになりました。
意識し始めたのは、阪神淡路大震災後だったかもしれないし、もっと以前、わたしが当時住んでいたおなじ部屋で、ある危機を脱したことを意識した「その後」だったのかもしれません。そもそもが先の戦争の戦後に生まれた世代であり、若者たちが世界的に異議申し立てをしていた祭りのあとにやってきた世代というのもあるかもしれません。
そしてそのあとも、東日本大震災と原子力発電所事故の厄災を経て、その感覚は潮の繰り返し寄せるようにますます強くなっていくようでもあります。

わたしがいつごろからインターネットに接続し始めたか覚えていませんが、初めて自分のウェブページを持った記録は残っていて1996年10月とあります。
jajaという名義でウェブ上で詩を書き始め、その詩を通じて他の詩人の方々ともウェブ上で交流を始めました。
jaja名義でウェブにあげた最初の詩が先の「救命艇」になりますが、これが『ボール箱に砂場』のラストにあたる作品の「続き」みたいになっていて、その時期を脱けた「その後」であることがはっきりわかります。
それが「その後」のわたしのはじまりとなり、その意識はいまでも続いています。
アフターマス 「その後」を画する詩には、このラベルをつけていきたいとおもいます。

その時期、おなじjaja名義で、映画好きのネット先達のお仲間に寄せていただいたり、きっつい洗礼も受けつつ、ものすごく楽しい日々を過ごしていましたね・・。
ほんとに偶然なんですが、この記事を準備している最中、そのネット先達のお一人が亡くなっていたことを知らされました。
直接は(つまりリアルでは)存じ上げない方なのですが、その、なんだか「消える」ようにネット上からいなくなってしまわれたその方のありようなどにも思いを馳せ、あの当時の映画好き仲間たちとのやりとりも思い出し、すこし感傷に浸ったことでした。

当時のネット環境はウェブページつくるにも自分でhtml手打ちするし、ブログはまだなくBBS(掲示板)を雛形だけもらってきて自分で作ったり、ウェブチャットが遅いのでもう少し早いチャットのシステムがあったりなどして、まだまだネットを通じての交流のかたちが定まっていなかったころ。
その後、ブログがぶわーっと流行り、わたしは便利にはちがいないけどいろいろ仕様が決まってるのが少し鬱陶しいなと思いつつ、いっときは8つぐらい運営していました。
その後、Facebookの時代になって、わたしはこれには決定的になじめず、さらにTwitterやInstagramの時代になって、またうまく乗っかっていけず、馴染めないというよりは、この3つのSNS、それぞれの「仕様」に踊らされるのが決定的に鬱陶しいのですよね。自分の気づかないところで仕様に制限され動かされ見させられている・・。とはいえ、アカウントは持っていてそれなりに使ってはいますけど・・。

2019年8月20日火曜日

救命艇

あそこに見えるのは ほら
死刑囚のからだが拘置所から斎場までを辿った
うねくね延びて縺れてつながるたったひと筋の線です。

線は本質的に抽象だから視線に とらえられることはない。だけど

線は分割され
わかたれ壊されカチ割られ毀(こぼ)たれて
惜別する遊離片を撒き散らしながら
なめらかな海岸線となってゆきて延びてゆきます。
どこへ?
ふたたび ここへ

なつかしい死びとたちよ こんにちは
あの視線をさまよっていたころからもう10年になるのに
わたくしはまだここにいます。

ここは鬼の住み処だと出てったあなたの
仰々しい預言はあたらず
洪水はついにやってこなかった。

かわりにわたくしのアルミサッシを揺らしたものは
こちら側からではなく
まったく逆の方向から伝波してきた。
だから
怖れつつそれでもひそかに待ち望んできた
救命艇は来たらず
かわりにひとしずくの水を入れたお椀の舟が
これより出でた。
つねは出ません。あの晩かぎり

擂鉢の
ふちに獅噛みついた人たちの
なんと恐ろしかったことだろう。
中途に脚を絡めとられた人たちの
なんと哀しかったことだろう。
まん中に呑みこまれた人たちの・・・
・・・
・・・
・・・をどれほどかさねても悼みつくせぬ
惜しみつくせぬ
かたりつくせぬ
本質的に見えない点が無数にあります。

そこまで運ぶ長いボートはつくれない。だから
ここより出立してウラジオストクへと伸ばす回路が

はからずも次のわたくしを生まれさせてしまったのです。こんなふうに赤面しながら
媚薬入りの汗と紫の瓶に入った香水とがまじりあった匂いをかぎながら
必要なクスリを飲みながら
吃りながら
こんなふうに
ものごとが決まりきったプロトコルを択びつつ陳腐に終わってまた始まるのも
仮想界が 気の狂うくらい嫉妬しても
怨んでも
怯えても
現実というものはまるで仮想を無視しているからなのか。
眼下の中洲にはふかく埋めたはずのミニーマウスがあたまを覆った泥をかきわけてまた発掘され
わたくしを脅かしつつ
わたくしのなかのこどもの気をまた踊らせる。
13階の視線
13階の支線
無数の死点たちを忘却する罪にまたはじまって

2019年8月12日月曜日

接着霊

死の像が目の前にいきなり現われた。それは、おせんべなどばりばり食いながら一面のガラス張りの窓をへだてて夜の街の光を映画みるようにぼっと眺めてたら、唐突に空一面にでかい目玉をした死に神の顔がぬっと現われガラスにへばりつかんばかりにしてこちらを覗きこんでいたという具合。あたしは怯えた。というより沈黙した。死の現前ってのはかくも圧倒的でひとから言葉を奪うのだなあというとても当り前の感想。次の瞬間、彼はバリバリバリと轟音を立てる戦闘ヘリコプターのかたちを借り、ゆっくりと照準をこちらに合わせて、あたしに向かって砲撃を開始したのだが、なんとガラスいちまい隔ててあたしは無事だったのだ! 連続する砲撃音に確かに部屋は爆撃されてめちゃくちゃに火の海瓦礫の空中に舞い散る修羅場となったのだが、なぜかあたしの身ひとつは無事...。

その事件をピークに死の像は急速にひゅるひゅるひゅるとゴムに引かれていったみたいに遠ざかり、いまは向こうのほうに小さく見える。入れ換わりにこんどは接着霊があたしのそばに寄り添いはじめた。だんだん抜けていく髪の毛とともに。
抜けていくのは抗癌剤のせいというより新しいヘアマニキュアのせいかもしれないけどね。手軽にできるようになったぶんこのところ頻繁にしてるから。

ああ、接着霊ってのがわかんないでしょ。あたしだってついこないだまで知らなかったのだ。

あたしはスパイかそれとも電気調査員みたいな仕事で各家庭をまわっている。その家は、上司の家かそれともモデルルームかそれとも上得意だったのか、わざと変な配線がしてあって、ダミーの配電盤があって、ほんものの配電盤はテーブルの下に隠してあったりする。このテーブルの下のこのリモコンからエアコンを操作するんですよとかなんとか、そこのご主人とおしゃべりしながら調査している。

その家は病院も兼ねていたのか? あたしも手術しないといけないのだが、もうとうの先から妹(現実の妹)も入院していて癌の手術を受けなければならない。しかも病状は深刻で、次の手術が最終手術になるかもしれない(つまりそれで死んでしまうかもしれない)。のに、本人はいたって元気でのんびりそのへんをパジャマで散歩してたりして、いろいろ世間話などしている。スパイのこと電気のこと...しかしよくきいてみると、彼女はこの病院(ホスピスというか癌の末期患者の病院)にいるつもりではなく、前にいた病院(普通の病院)にまだいるつもりのようすで、ああやはりもう混乱していて自分の状況がよくわかってないんやねえ...と可哀想にと憐れむような仕方ないようなあきらめるような見守るような気持ち。あたしも手術があるのでそちらに向かいながらふと見ると、長い後ろ一文字のみつあみの髪の毛が頭のお鉢ごとすぽっと落ちていて、「あれ、これ妹のだ」。抗癌剤で抜けたのか。本人は、変に手で切ったようなどうでもいいショートカットの艶の不自然な固い黒髪でいる(かつらなのか?)。あたしは手術に向かう(歩いていく)彼女を見送りながら、ああ目が覚めたときにまた会えたらいいな。でも生きて会えるのは最後だろうか? あたしが手術の最中にもう彼女は逝ってしまっているだろうか? と哀しいような諦めのようなわずかな希望に縋りつくような気分でいる。

2019年8月8日木曜日

イライラ

色には黒と白と赤しかない。
大気は完全に乾燥してO2濃度が非常に高い。
砂漠の先の
ヒトサシ指の先は
もっとも敏感であるから 燃えないように
根元をコヨリで縛りつけておく。

塩の結晶一粒
ユビサキにただしく置いて
実験は繰り返される。

「瓜たべたいか?」
「茄子くいたいか?」
「それともにくか?」
「だれのにくか?」
塩たぎらせ
死海の先に
答はいつも蒸発する。
たったひとかけらのおまえの肉は
msec.単位で塩
消費する。

次の塩を
かたすみの光の先に
血の塩を

「放棄せよ/しない」
「痙攣せよ/しない」
脈拍は同期しない。
「遊離せよ/したい」
皮膚をいくら観察しても
感触は既にすりかえられて
  とりかえしのつかないそれでも
  実験は繰り返される。

  降らぬ雨の先に
  かたりやまいのただれた舌先に
  なめるのでなく
  いやすのでなく
私はおまえの
だれよりも高い地の先に
そのユビサキを
かみちぎりたいだけだ。

2019年7月30日火曜日

ひとりで死ぬな

確かに衝撃、だった。
そこには俺たちの知らなかった篤彦の生い立ち、家庭環境、家庭の事情、そして篤彦の経験しなければならなかった余りにも苛酷なできごとのかずかず・・がこと細かに書かれていた。
凄まじいDV。肉体的にも精神的にも。
子どもの頃から、父親からも母親からも、それどころか祖母や祖父らからも、殴られ蹴られ責め立てられ、ロクな世話をされずに生きてきている。
ことにキツいのは母親で・・
篤彦の実父を追い出して別の男とくっつき、この男もまた篤彦を虐待し、その後はその男もまた捨てて若い男と駆け落ちし、篤彦の貯金に手をつけて家を出る。その後も金が必要になれば篤彦を呼び出しては、母子の情を質にとって、必要な金を巻き上げその都度裏切り去っていく。
篤彦はこの両親の借金の一部を背負う羽目にもなっているらしい。

ブログには、詳細に覚えているらしい子ども時代の、酷い仕打ちを受けた場面の一齣一齣が克明に記述され、
自分を苛んだ家族や周囲の人びとへの感情が記述され、
現在の自分の状況もリアルタイムで記される。どうやら精神科医にかかっているらしいこともわかった。

篤彦が、いつもおどおどした目をしていたことを思い出した。
いざとなると喧嘩は異様に強かった。何度か目撃したが、あんなに喧嘩慣れしたスマートな闘い方をする奴は初めて見た。まず相手の攻撃を封じ込め急所を突いて戦意を喪失させる。そして自分も相手もあまりダメージを受けない先にうまく終結させる。
それでいて、普段は臆病者を装った。トラブルには巻き込まれないように、おおきな身をいつもちいさく縮めてひっそりと、俺たち二人に隠れるように生きていた。
金魚の糞は・・隠れ蓑だったか。

ブログにはいつもコメントを寄せる常連たちがいて、篤彦を励ましていた。
一方で口汚く罵っていくコメントもあって、そういうのはすぐに削除され、ブロックするのかしばらくは消えるが、また現れる。同一人物かどうかはわからない。たぶん複数。
そういう奴らがどこやらの匿名掲示板で篤彦を名指しで誹謗中傷しているらしいこともわかった。
気になるのは、篤彦がいちいち傷ついていることだ。
自分は社会に迷惑をかけるばっかりのクズなんだからひとりで死ぬ。
自分が死ねばみな満足なんだろう。
みたいな書き込みがあっては、好意のコメントを書く読者らに心配をかけ、しばらく落ち着いてはまた「ひとりで死ぬ」が始まる。

俺はブログの最初の最初から読んで、何度も読んだ。
涙が溢れて溢れて・・たまらなかった。
篤彦、なんでこのこと俺たちに言わなかった?
なんで俺たちに助けを求めなかった?
なぜ?

マルは「失敗」したらしい。
他の読者らに混じってブログに励ましのコメントを送り続けていた。
なじんだ頃にメッセージを送り、自分の正体を明かして「一度会いませんか?」と申し出た。すると
なんとブロックされてしまい、コメントもメッセージもできなくなってしまったらしい。
「篤彦、あたしたちには知られたくなかったんだ」
「高校時代、そんなことおくびにも出さなかったでしょ」
「あたしたちだけには知られたくなかったんだ」
「・・それなのに。あたしったら・・なんて無神経なことを」
「余計に篤彦を傷つけることをしちゃったよ・・」
マルはそう言って、また泣いた。
雅之と俺とは顔を見合わせ・・どうしていいかわからなかった。
「どうする?」
「どうするって・・」
「ひとりで死なせるわけにはいかないよなぁ・・」

「そうよ」
「ひとりで死なせちゃだめよ」
それが、とりあえずの結論。

2019年7月26日金曜日

医の善意を疑え

 先般のエントリーは医学的ロゴスがしっかりした倫理で縛られており個々の医師の動機が善意・誠意で支えられていることを最低限の条件として語ったものだけど、もちろん世の中には悪徳医師も欲得医師もいるしそれ以前に医の世界であっても資本主義の論理、金儲けの動機から自由でいられるわけがないのであって・・それはまた別の話。
 もういまさら言っても詮無いことかもしれないが、ひところのピンクリボン運動に当の当事者らに(t...も含めて)冷淡な者が多かったのもその事情。「癌は早期発見・早期治療が大切」とか「乳癌を早期発見するためにマンモグラフィー検診を」とか、100%間違っているとは言えないもののかなりの程度で怪しい(どれくらいの程度正しくてどれくらい怪しいかは諸説あるので決めつけずにおくけど)言説を100%正しいかのように言いたててキャンペーン張るのは、これはどう考えてもマンモグラフィというかなり高価な機械をどんどん売るための宣伝戦略としか見えなかった。ちなみに受けたことない人は知らないだろうけど、あれが平気だという人ももちろんいるだろうけど、あんな心身ともに苦痛を強いる検査はもう二度とまっぴらごめんだねという人も多いはず。世の中にはもっと楽な検査(エコーとか)もお安い検査(エコーとか)もタダの検査(自分で触る)だってあることをもっと周知させたほうがいいんじゃないの。さらにマンモはこれまでは見落とされてきたステージ1未満の癌のタネも見つけてしまい、そんなもん当面放っておいても問題ないかもしれないのに、見つかってしまった以上放っておくというわけにもいかないということで治療の機会が増えてしまう(=医師のお仕事が増える)ことにもなるのではないか。このあたり善意と誠意の医師からは猛反論ありそうな気もするが・・。
 あと、新薬が開発されてから(そのお薬が効く)新しい病気が発見されるというのもよく知られた話で、新しい病気は言い過ぎであっても、これまで放っておかれてたようなちょっとした不具合がいきなり病気としてクローズアップ(ちなみにクロースアップが正しい発音)されて、治療せずにはおかれないような気にさせられてしまう。もちろん新薬をどんどん売るための宣伝キャンペーンなわけです。その病気を放置することによるデメリットと、新薬の副作用などのデメリットの軽重を比較するなんてことは決して勧められず、その病気を退治することが国民的一大事であるようなキャンペーンが張られる・・。(具体的に何のことを言ってるかおわかりだろうか・・)。

2019年7月25日木曜日

医学的ロゴスに抵抗する(承前)

先日見たカナダ映画。主人公はMtFをめざして加療中の少女。つまり男の体をもって生まれたものの心は女で、体も女になるべく治療中。物語の前半は頑張り屋さんの主人公が生き甲斐とするバレエに打ち込みさまざまな困難にぶちあたりつつも前向きな方向で終わるんだろうなと思わせる展開。ところが後半になるにつれ雲行きが怪しくなり遂に訪れたカタストロフでヒロインは思わぬ選択を果たす。たぶん普通の観客が見れば、あああ自暴自棄になっちゃって衝動的に飛んでもないことやらかしちゃったな・・と思いかねない行為に走る。ところが、わたしが見るに、これは、はっきり明晰な意識のもとに選びとられた彼女の選択なのだ。彼女に「(彼女にとっての)最善の道」を示唆し提案する医学的ロゴスに対するみごとな反抗。鮮やかな逸脱であり、飛翔である。一見非合理このうえなく野蛮そのものの行為であるけれど・・。(でも現実には良い子は真似しちゃダメよ。)
       
informed consentの考えかたと実践はまぁ行き渡って久しいと思う。のっけから「ぜんぶ先生(主治医)にお任せします。私たち(患者とその家族)はなんでも先生の言う通りにしますので・・」とやって、その場で患者本人に怒られた(ついでに医師にも諭された)t...の母みたいな人はいまでは少ないだろう。(それでもいまだに現人神みたいに振る舞う医師とかそれに盲目的に従う患者の話は聞かんでもないけど)。しかし患者のことを全人的に思い遣ることのできる完璧に良心的な医師がそれをやるのでさえ、consentの場は医学的ロゴスの支配する場である。ロゴスに習熟し十分な経験と知見のもとにおこなわれる医師の示唆と提案のまえに、患者ができる選択といえば、せいぜい自分のニーズのどこを優先させたいかという程度のことで、実際には治療の主導権とか決定権とかを本当の意味で患者本人が握るのは難しい。
だからといって医学的ロゴスの支配に一方的に服(まつろ)うばかりではイケナイのである。それが正しければ正しいほど・・あらゆる数値や確率やエヴィデンスでもってその合理性を堅牢にすればするほど・・。
ことに精神の病に苦しむ人を見ていれば如実にわかる。医学的ロゴスは人間の身体を管理しやすいもの困った問題を起こしにくいものに改変し収束させていく。「その方が患者本人も生き易いでしょ辛くないでしょ」という善意のもとに。ところが人間の生身の体は入ってくる異物(薬剤)に物言わず抵抗する。いわゆる耐性ができて医学的ロゴスが要求する平衡状態を保つためにだんだん薬剤量は増えていく。結果「薬漬け」という状態ができてしまう。精神の病にかぎらず、普通の人でも生活のあらゆる側面で(ちょっと眠れないとか気分がすぐれないとかちょっと便秘気味とか風邪気味とかいうだけで)薬によるコントロールが習慣化されている米国のような国では、薬漬けの平衡状態を保ってる人が多いんだろうなぁと推測する。いったん薬漬け平衡ができてしまうとその平衡を保つためには薬の量は増えるばかりなのであって、そこから脱却するには、あるときそれこそ英雄的な決心をして、体に理不尽な苦痛を強いることになろうとも減薬だの断薬だのをすることが必要になるのだろう。それは、はっきり医師以上の専門知識で武装して医師に対峙しようというN...(ちなみにアメリカ在住・日米ハーフのアメリカ人)のような姿勢がもっとも望ましいかもしれないけど、本当の意味でここから脱けようとするなら、一見非合理で野蛮な逸脱こそが必要なのかもしれない。
だからといって怪しい代替療法の数々を勧めているわけではないよ。あんなの善意の医師とはまさしく対蹠的な金儲けだけが目的の詐欺商法だからね。そんなのに頼るなんて愚の骨頂ですから・・念の為。
t...に関していえば、キモセラピストの看板掲げている主治医に、彼が前任者に代わって主治医になった瞬間から「私は抗癌剤は嫌だからね。あれだけはぜったいやらないから」(ドラッグか・・。てドラッグなんだけど)とろくな理由も言わずに連呼し(理由は一応あったんだけどこのさい理由は問題ではないと思う)実際にその選択を迫られた場面にあってさえ「んんん・・こういう場合の標準治療はコレなんだけどなぁ・・」とか気弱げに選択肢は示してくれたうえで患者本人の決定を尊重してくれました。
という話を手柄話のように語るとそれはあなたがラッキーだっただけでそれしか選択肢のない厳しいケースだってあるんだからと言われそうな気もするが、とにかくもt...に関していえば抗癌剤なしで初発を生き延び思いがけぬ(生存率がぐっと下がる)再発もやっぱり別の療法で生き延びなんとか10年以上寛解状態がつづいておりますのでどうぞご心配なく。(だれも心配してない?)
           
ところでスマートハウスの一つのアイデアとして(もう実現されているのかもしれないが)、住人がトイレに入ったりお風呂に入ったり睡眠や食事や休息時や活動時やあらゆるときの住人の身体状態を数値でモニタリングしておき、なにか異変があればなんらかの提言をしたり緊急時には救急車を差し向けたりというのがあるらしいけど、それってそれこそ医学的ロゴスによる住人の監視と管理だよね。それってユートピアですか?ディストピアですか? そのおかげで独居老人の孤独死が減るだろうとか語られるけど、既に独居老人であるわたしはぜったい嫌だな。それくらいなら(たまたま誕生日がおなじの)永井荷風のように死にたいと思う。あとには多大な迷惑をかけるだろうけどそれも頑固かつやたらプライドの高い老人の命を賭けた抵抗を表明する野蛮このうえない所業の痕跡・残骸としてご甘受いただくしかあるめえ。(・・てなにイキってんだ? BGV 伊藤大輔『忠次旅日記』のラストが流れていると思いねえ・・)

2019年7月24日水曜日

医学的ロゴスに抵抗する

t... wrote:
こんにちは、t...です。
○○のこと、お約束しておいてずっと放ってあってすみません。
実はあれからすぐ、乳癌の再発が見つかるということがあって、ちょっと心身ともにばたばたしてました。

N... wrote:
うーん、大変ですね。今のところ命に関わる場所ではないとはいえ、不安だと思います。t...さんのことだから、周囲にサポートしてくれる人がいるとは思いますが、そういう時にどうやってサポートするかなんてことも、あらかじめ話し合っておくなんてことも重要かもしれないですね。 
私の年代(先週28歳になりました)だと、まだ周囲にそういう話はないわけですが、ちょっと先になるとありそうなので。

t... wrote:
それにしても、医学的ロゴスのもとに自分の身体を管理されるってのは嫌なもんですね!

N... wrote:
そうそう。
私は、自分の体が十分に××ホルモンを分泌しないから十代の頃からホルモン剤を体に「入れさせられて」きたんですけど、医療に自分の体が曝されるのが嫌で約2年前にホルモン摂取を止めてしまったんですね。 
今のところ大丈夫ですけど、このまま放置していればいずれ必ず「△△症」になるのが分かっているのに、endocrinologistには行きたくないし、ホルモンを摂りたくはない。 
もちろんそれじゃ自分自身が後で苦労するのが分かっているので、ホルモンに代わる薬剤を自分でいろいろ調べて、自分が専門医以上の知識を身に付けた上で医者に行くつもりです。
どんな薬剤を選んでも(ホルモン剤を含めて)、長期的使用による副作用の調査なんて行われていないわけですから、ギャンブルみたいなものだと思いますが。

・・・(後略。あとは用件)

2019年7月23日火曜日

雅之は嘘をつく

雅之が女になろうとしているなんてもちろん嘘だ。
肩幅が狭くて小柄で、茶色っぽい(染めているのかどうかは知らない)ゆるやかにウェーブのかかった髪を長く伸ばしている。
女物のシャツやブラウスやワンピやスカートを好んで身にまとい、それがサマになっている。
だから、背後から女性に間違えられることなんてしょっちゅうある。
前から見ても、顔の輪郭はわりといかつくて鷲鼻気味の鼻にすこし難はあるけど、あどけない二重まぶたの目で大きなヘーゼルにちかい色の瞳をしていて、女の子とみえても不思議ではないアイドル顔である。
コーカサス系とのハーフとも見てみえなくもない見てくれで、知らない人にそう聞かれると「ロシア人の血が1/4混じってるんです」とか嬉しそうに大嘘つくのが常である。
でも、中身はれっきとした男の子。女物を(ファッションで)着るのと女装するのとは大違い。雅之には女装趣味はないし、性自認もはっきり男の子だ。
私が、自分が性別を選び直した経緯を話した小さな講演会で、雅之はなぜかその会場にいて、私を憧れの目で眺めていた。私は、性別をもとの戸籍の男から女に変えた。好きなのは女性で(その当時つきあってたカノジョもいたし)、だからMtFレズビアンというわけね。どうやら雅之は、そういうなんだか「とくべつな」性のありかたに憧れを抱いたらしい。
自堕落にも売春をしてるんじゃないかと、雅之の友人はマジで心配していたけれど、それも嘘ではないかと思う。嘘というよりフィクションね。そういう、現実の自分がぜったいできない冒険を、嘘物語のなかでしているだけ。
そんな大きな嘘だけでなく、こまかい嘘もしょっちゅうつく。
「今日なにしてたの?」
「だれと会ってたの?」
みたいな質問にたいして、実際に自分がそういうふうに実施した事実を話すのではなく、そういうふうにしておく嘘のおはなしを語る。いや、騙る。時と場と相手に応じて。事実はそうではないけどそうしておこう、みたいな感じ?
知ったかぶりもはげしくて、
「〇〇、知ってる?」
みたいな質問にたいして、実際に知ってるかどうかよりも「知ってることにしておくのか、知らないことにしておくのか」の方が重要らしく、しばし考えた末に、前者ならば「知ってる」と答え、後者ならば「知らない」と答える。
知らないかぶりもあって・・
重々知り尽くしていることを、まったく知らないふりして、素っとぼけて質問して、相手に語らせる。
で、聞いて初めて知ったふりして
「へ〜」
とか、感心したふりをしている。
こういうのは虚言癖というのかな?
ちょっと違うような気もする。
雅之なりのコミュニケーションの流儀?
嘘はつくけど、そのことで人を騙したり、窮地に追いやったり、自分に都合の良い状況をつくったりして、自己の利益を謀るわけではない。
他者にたいして悪意ある嘘ではなく、自分のことをこういうふうにしておきたいみたいな嘘? そういうふうにみせておこう、みたいな?
見栄っ張り?
事実とはちと異なるちいさな虚構の世界をつくりあげて、そのなかで生きている。
だから、それが嘘だとばれても、たいして悪びれるわけでもない。
罪のない嘘なので、嘘だとわかった周囲も、べつにそれを追及したりせず、嘘は嘘のままでおいといてやる。「そんなの嘘でしょ!」とか「嘘つき!」とか怒るひとは滅多にいない。
あきらかに(みんなが見抜く)嘘なのに、それが嘘だとわからないひともいるけどね。
正直に生きている人、というか嘘をつく習慣のないひとには、見抜けないのかもしれない。
というか、どうでもいいのかもしれない。
私のような同類には、雅之の嘘はかんたんに見抜けるけどね。
だって私もおんなじことしてるもん・・。
嘘は習慣性だという。でも、それってイケナイことなのかな?
嘘は方便とか、そういう話ではないのだよ。

2019年7月17日水曜日

マルという女

篤彦の最期を語らなければならない。
その前に・・マルという女のこと。
俺たちとマルは同じ高校の同窓生にあたる。俺たちが3年生のとき、新1年生として入学してきた。
元は男子校だったのが共学校になって、とりわけ優秀な女子生徒たちを確保することに成功したらしい。
共学になってからの男女の学力差が大きすぎて困っているともあとで聞いた。
なかでも優秀な新1年生の女子がいて、ひさびさに東大現役合格生が出そうだと、職員室全員色めき立っている。そういう噂が生徒の方まで聞こえてきた。教師らも嬉しそうに語っていたしな。
ところが、入学当初からその抜きん出た学力でたちまち学校中に名を馳せたその新1年生女子。夏休みの始まる前に、今度は別の方面で話題を攫(さら)っていった。
こちらはよろしくない噂で。
いやその噂、火のないところに立った煙などではまったくなく、まるっきりの事実であったこと。俺も雅之もちゃんと実体験させていただいたのだけど・・。
公衆便所
って大昔からある身も蓋もない言い草だよな。それにあまりにマッチョで俺は嫌いだけど、言い得て妙とも言えるからどうしようもない。
超優秀な新1年生を持ち上げるのに懸命だった教師らは、今度は一斉に渋い顔になり、何とか噂を揉み消そうと必死になった。けど、事実は事実であることを多くの男子生徒らが実体験してしまったんだから、しょーがない。
それに、揉み消しようにも揉み消しようのないことを、当の1年生女子が始めてしまったのだ。
彼女は、1学期の中途あたりから、昼休みや放課後に校庭や校内の共通スペースでパフォーマンスをやリ始めたのだ。そして、こちらの活動もたちまちのうちに学校中を席巻した。
本人曰く、中学生の頃からピン芸としてよくやってたという。
ちびまる子ちゃんの主題歌を替え歌にして、ピーヒャラピーヒャラ・・踊るポンポコリン・・と踊りをつけながら、学校内外の時事評論を面白おかしく歌ってみせるのである。
歌詞も巧みならば、歌声も美声ではないがすごい迫力があって、生徒らみんなの目を瞠(みは)らせた。
自虐ネタも多くて、自分の尻軽さを自分で嗤うだけでなく、教師からどんだけ説教を受けたかも抜かりなくネタにした。教師らは、ほかのことでも順繰りにサカナにされるので、渋い顔顔がますます苦虫になったけどな・・。
そこで彼女についたあだ名が「マル子」というわけ。
小さい体で色が白くまるまる太っていて、白いゴム鞠(まり)みたいだったこともあり、いつしか小さく約(つづ)まって「マル」という名に落ち着いた。
そういうわけで、あらゆる方面で学校中の注目を集めたマルだったが、当然というか同性の親しい友達はできなかったようで、またファンは大勢いたけど適切な意味でのボーイフレンドも友人もいなかったようで、なぜだか夏休み以降は、俺と雅之と篤彦の三人と行動を共にすることが多くなっていた。
篤彦は、どうやらマルに手を出さなかった男子生徒の一人だったようだ。
俺たちには知る由もなかったが、マルに説教垂れたりもしていたらしい。
同じような説教を教師らにされても洟もひっかけなかったマルは、篤彦の言うことにだけは神妙におとなしく耳を傾けていたらしい。それはそれは、俺たちには不思議だったけど・・。
つまり、力関係はこうだ。マルは俺と雅之の上に君臨する。俺は雅之を支配し、篤彦は雅之にくっつく金魚の糞。そしてマルは、この三人組の中でいちばん弱い篤彦に、頭が上がらなかったというわけ。篤彦はどちらかといえばマルを迷惑がっていたようでもあったけど。
ね、安定してるでしょ?
そんなわけで、俺たちの最終学年の2学期と3学期は、変な女のマルも入れて3人組+1匹(マルはおかしな獣みたいに俺たちに尾いてきていた)で楽しく過ごした。
でも、卒業してからはバラバラになってしまった。俺は普通の私学の文系大学、雅之は美術系の短大、篤彦は大学に行かず専門学校という選択をしたもんで。
しかも、相変わらず近所に住んでいて家同士(特に母親同士)仲の良い雅之と俺とはそれなりに付き合いは続いたが、篤彦は卒業後誰にも何も言わずどこかに引っ越してしまったらしく、連絡がつかなくなってしまった。
    *
それから2年、マルが最終学年になった頃。
本人曰く、校内では随分おとなしくなって教師らをホッとさせている。その代わり校外に活躍の場を求めていると。さる場所で知り合った年上の男たち数名とバンドを組んでいるのだと。
ある日、そのバンドの初ライブの知らせを受け取り、俺と雅之と二人、いそいそとライブハウスに駆けつけた。
またちびまる子ちゃんの替え歌でもやるのかと思っていたら、そのときは見違えるほど大人っぽくキラキラに化粧して真っ黒のコスチュームをまとったマルは、歌詞があるのかないのかわからない意味不明のコトバを、これまたわけのわからない電子音とちょっと変なビートに乗せて、がなり立てていた。
つまりは、全体としては意味不明の狂騒的な雑音に近い音のパフォーマンス。何が何だかわからなかったが、でもまあ、ともかく、カッコいいことはカッコよかったな。
で、その時のこと。
ライブが終わってからも打ち上げがあるというので図々しくも居座った俺たちを見つけると、マルは開口一番、
「篤彦はどうしたのよ?」と、絡むように言う。
「篤彦よ、なんで篤彦を連れてこなかったのよ?」
俺たちよりも篤彦に会いたかったわけね。
「えーと・・あの、だって、篤彦引っ越したらしくって、所在不明なんだ」
と事実を述べると、
「あんたら、篤彦がどうしてるか知ってるの?」
と、ふたたび絡むように言う。
「いや・・知らないけど・・」
「マルは知ってるの?」と雅之。
「あたしも知らない。でも知ってる。・・知ってるのは、篤彦が書いてるブログだけ」
「ブログ? へえ・・篤彦がブログ書いてんの?」
「そんなことするタイプだとは思わなかったけどな」と雅之。
「篤彦、まずいよ。あれ、決定的にまずい」とマル。
「へええ・・なんで?」
「読んでみるとわかる」
「へえええ・・」
そう言われたって、その時点ではなにがどうなんだか、サッパリわからない。
「あんたら、篤彦のこと、放っといちゃダメよ! ちゃんと見張ってやってよ」
「見張るったって・・居場所もわかんないんだよ?」
「そーゆーマルは、何もしないわけ?」と雅之。(ただしいツッコミである)。
「やれるんならとっくにやってるよ。あたしだって、あたしだって、あたしだって、何にもできないんだから困ってんじゃん・・」
そう言い終わると、一息、息を吸いこんでから、マルは大声で泣きはじめた。
吠えるような泣き声で、傷ついたおおきな獣のように泣いた。
泣いて泣いて泣いて・・いつまでも泣き止まなかった。
店の人も、その席にいたほかの人たちも、びっくりしてしまって、なんとかマルをなだめようとしたが、無駄だった。
長く長く長く・・続くマルの泣き声は、ライブのパフォーマンスそのものよりも、ずっとずっとずっと俺たちの記憶に残ったよ。
酔ってたうえに、なんだかイケナイお薬とかもやっていたのかな?
ふだんからハイテンションなマルが、それに輪をかけてハイテンションだったから、すぐわかったけど・・。

2019年7月14日日曜日

イカレポンチ

よそゆきしたくできましたか?
寒波情報ゾクゾクながし
パープルのルージュ佳くおうつりになる
嘘の香水ふりまき
こん 紺 紺 紺 ゆきがふる らん 藍 藍 藍 あめがふる
17ビートでよろり よろし あなよろし

こんなクレヴァスに突っ込むのも亦
快感!

はざまに伸ばせば
目蓋の裏にクッキリ蒼い廃墟を映す目眩のレディに
触れることもあります
ふれ ふれ ふれたい 衝動 やみがたく
もう やみ 闇の中ならこんなにまざまざと
かの楼のシルエットを見ることができる
のに
かの夜
いまはぼんやりのっぺり薄い天井しか見えぬその日
依るべなく
ねじりおとす 捻 地下鉄に降りる階段へ

通路 通 際限なく だだぼれに開きつづけて 開 開 開 開 館!
正気も失せたヒトの腐臭 コリント式に崩折れた カフェ・ジャポネスク
天蓋に貼りつく行列蟻 蟻 蟻 ありく ありく ありく たび
ひねり潰す
いかれぽんちの脳髄を
つぷ つぷ
つぷ
ぽつんと
この
血の球は
現実。

2019年7月13日土曜日

彼女の状況についてのいくつかの判断

みぢかいあした
とまれまれまれにはよしなしづかし
ごかしごかしじゃ日も暮れやせぬ

(失礼しました失礼しました失礼しましたと耳の傍で百万遍吠えたら余計失礼に当たるに相違ない)

けそうして
ゆるゆるはじけむとしてござんすか
なかなかにさよかとはいいづらく
まけまけ

(しぬまでしぬほどしぬばかりにと胸の傍で百万遍つぶやいても却ってええかげんにしねといわれるばかりでございます)

ぴんくりぱんからゆうろぺってしもうたの
さまれまれまれにもえるべのほとり霧ふかくゆうしかなしむてか
ほいほえ

Elle est amoureuse.
Elle est amoureuse.

れいもん
ふみいいみいみいさむいよ
けっちゃくっておちょぞかし
よろしゅうによろしゅうにおちょくられられ
ほんでもほってほりしかったこと

(はづかしいはづかしいはづかしいといくら身を縮めてもこれだけ肉が余っておれば目障りとしかいいようがない)

ちゃんちゃかちょんちょこ
あたしはだれれもんね
死ぬるまへにはめもりいをすべて消去しておかねばなりませぬ

だって恥でしょうおおお
がすうぴぬ
やすうけあい

Elle hésite!

ところよころばしからば
墓碑銘にゃんにゃかにょんにょんとぢし
むにゅみゅのろしとって
ほなこつほっとしたらあきまへんで

(善人のみなさまうつくしいおとこのこたちやさしゅう死てもろてほんまにうれしゅうございました)

2019年7月10日水曜日

ナガサキヤ の

三角のかすてらにね
とおろりチョコレイトをかけるのだよ
たらあり しずくをのこらずなめて
あまいからもつと
辛くてももつと

昔ばんばんじんが
かみやのおんなのこをさらっていった
辻に
わかい白人の娘がやってきて
スパニッシュかと訊くとくびをふって
アルゼンチンとこたえる
ナニワミュージックでおどってるんだってさ
おかねはたくさん呉れるけどねとにほんごで喋り
ぼくはスペイン語がはなせない
ともだち ともだちがほしいのだ
かえりたい けどかえれない
あぶらみのおおい焼鳥ばりばりくいながら

つらくても
たべなきゃいけない
そらのたべもの
むなし
あめのたべもの
ぬれつ
頂戴 ちょうだい ちょおだいよお
たまわりもの
まんな

こんこはもおほしがってがまんできないにゃら
ぺろおりいいかげん時ばかり喰って
さまつひさまりつんつん
快楽が
そんなにうれしいかい
じんじんどちじゃんじゃんずきずきくら
カルナバルながすだけながし
ながれて

だから
からだは
まなざしをなくすのだ
あらぬか

ながれて
はてる処もうしなひ
遊離する
よくよく宙釣りのかっとびきかい

金髪の姐ちゃん中空たまんなってまともにうかばれず
きょういっぱいのせんねんぢごく
おいしいね

2019年7月9日火曜日

台風の夜

でも篤彦はもういない。
いまでは
雅之の耳のなかに響く声だけの存在になっちまった。
・・つまりこの世に生きた生身の存在ではなくなっちまった
ってこと。
その話をする前に。
一度だけ篤彦と一緒の夜を過ごしたことがある。
って誤解を招くよな(笑)。一緒にオールナイトの映画館で朝まで一緒にいたというだけの話。
あの日、台風が近づいてきていたのを気にせず、俺と篤彦と二人で、ある映画館に映画を観に行った。
入れ替え制の最終回の上映に入ろうとして、映画館のスタッフにこう言われた。
「台風が近づいていて、この上映が終わる時間帯には交通機関などが止まる可能性があります。ですので、この回の上映は中止になります。」
そうなのか、それはいいよ。
でも、だとしたら、俺たちの持ってる(金券ショップで調達してきた)前売券が無駄になってしまう。
「ん。じゃあこの前売券、払い戻ししてくれる?」
「・・あの、この前売券は明日までになっておりますので、払い戻しはできません。」
「明日までったって、俺たち高校生だよ? 今日は祝日なので来れたけど、明日だと平日だから来れない。つまり、せっかく買ったのにこの前売券は無駄になる。そういう事情があるんだから払い戻してくれないと」
「・・すみません。規定上払い戻しはできません。」
ちょっと怯えたような眼をした温順しそうな(おとなしそうな)男のスタッフだったが、いくら言っても聞かなかった。
何度かの押し問答の末、俺が「では支配人呼んで来い」と言いかけたのを篤彦が制して
「島ちゃん、もういいよ」
と言った。
篤彦は、こういうとき優しい。
客の立場ではなく店(とか売る側)の立場を理解する。
映画館スタッフが困惑しているのを目にして「もういいよ」と言った。
チェッ! 仕方なく退散した。
何する? 二人でゲーセン行って遊んで時間つぶししているうちに、本当に台風はやってきて、帰りの電車が残らずストップしているのを聞かされた。
「・・うわぁ・・どうする?」
「オールナイトの映画館でも行くか」と篤彦。
「だってさっきのとこだって上映中止だって。どこ行っても同じやないか?」
「大丈夫。俺の知ってるとこなら必ずやってるから」
「どこだよ?それ」
で、台風でも動いている地下鉄を使ってその映画館に行くと、篤彦の言うとおりだった。
顔馴染みらしいモギリのおばちゃんは、台風のなんのとは一言も言わず、俺たちが高校生であることもわかっていながら、普通にチケットを切って通してくれた。
そのときが俺は初めてだったが、あとでときどき行くようになったその映画館は、入れ替え制などとケチくさいことは言わず、一度チケット買って入ったら朝から晩まで、オールナイト明けまでいたって構わない。
あとから聞くと、俺の叔父もしばしば通ったことがあったということだった。韓国映画や中国映画をよくやっていて、ほかの館では観られないものが観られた。
ビル一つがまるごと映画館になっていて、2階の2館がロードショー館。大手がやらないような(というか落ちこぼれてきた)類の映画を封切りでやっていた。1階はロードショー落ちの映画を2本立てでやる二番館。地階は洋ピン中心のピンク映画館だった。すべての館が連日オールナイト。篤彦は中学生の頃からこの館によく来ていて、オールナイトで朝まで居たりして、モギリのおばちゃんらに可愛がられていたらしい。
実はそこに篤彦の特殊な事情があったんだけど・・でもまあ、その台風の夜はそんなことは知らなかった。
どの映画にしようか?と迷った末、封切館の一つに入った。
なんだかひどい映画だったな! B級SFの匂いがぷんぷんするチープなヨーロッパ映画で、美形の(つまり外見のよろしい)人々ほど位が高く支配階級である未来の惑星で、醜形のミュータントらが反乱軍を組織し、その惑星に侵略して悪の限りを尽くす、みたいな。で、そのミュータント軍団には、世界的に有名な醜形女優だったり、侏儒(ミジェット)の俳優だったり、ホンモノの障害者(ということば自体は俺は嫌いだけど)がぞろぞろキャスティングされているのだ。これってPC的に(もちろんpersonal computerではなくてpolitical correctnessのほうな)どうなんだ?? いや、障害者(ということばは嫌いだが)独特の身体的条件を生かした表現自体はいいと思うよ。そういうコンテンポラリーダンスだのアール・ブリュットだの素晴らしいと思いこそすれ文句をつける筋合いなどない。しかし、わざわざ「醜形ミュータントの悪の侵略軍」って設定って、どないやねん??
とは言え、篤彦と俺はゲラゲラ笑いながらその映画を楽しく鑑賞し、外ではびゅーびゅー台風の暴風雨が吹き荒れているのを聞いて、2度目の上映の途中くらいですっかり眠くなって二人して寝てしまって、気がつくともう朝で、台風一過、爽やかな綺麗な青空になっていた。気持ちよく映画館を出て朝の電車で家に帰り、遅刻して学校に行き、授業中はすやすやと居眠りした。

2019年7月8日月曜日

三人組

俺と雅之は幼馴染でご近所さん同士。一緒に電車乗って剣道の道場通ったり、やっぱり一緒に電車乗ってサッカーのクラブチームに通ったりした。母の韓国料理教室の常連である近所のおばちゃんに教えてもらったことだが、俺と雅之はその電車内で美少年コンビとしてひそかに有名だったらしい。(いや俺が「美少年」とか自称したわけじゃないし)。
しかしまあ言われてみれば思い当たる。電車の中で他人(「たにん」と読むな「ひと」と読んでくれ)の迷惑かえりみず(いやすこしは顧みて)じゃれあってた俺たちふたり、大人になってから記憶の映像を遡及的に構成すると、まあ絵になってたんだろうな。
俺は一重まぶたで顎が細く鼻筋がすっと通った典型的な東アジア系(弥生系?渡来民族系?)の顔、雅之は日本人にしては髪の毛も瞳の色も茶色っぽく二重まぶたで目大きく鼻高くハーフじゃないかと言われたりもするぐらい(本人図に乗ってそう言われると「ロシア人の血が1/4入ってるんですと大嘘ついたりしていた)バタ臭い顔(というか縄文顔?)。対照的な二人の美少年(だから自称したわけじゃないって)が、電車の中でほたえあい、大人たちの鑑賞の的になっていたわけだ。
サッカーやめてからは二人ともスポーツはしなくなったが、俺は本が好きでよく読むタイプ、雅之はおバカだけど美術的センスがあってよく絵を描くタイプ。正反対のタイプがよく二人でつるんでいた。俺がたくさん本読んでることを尊敬し、俺が言うことをなんでも信じるので、嘘ついてからかったりホラ話がどこまで通じるか試したり、バカ話に興じるのがおもしろかった。(「あんたたち見てたら漫才みたい」とはのちに知り合ったマルのセリフ。「トリオ漫才」とは言われなくて篤彦はすこし悔しそうな淋しそうな顔をしていた。)
篤彦がこの鉄壁の二人に加わったのはいつ頃だっけか? どちらかといえば小柄な俺たちに対し、篤彦はがっちりと体が大きくこち亀の両さんの少年時代か、みたいな四角い顔。そのくせ意外と気は小さく、三人の中ではリーダー格の俺の顔をいつも窺うようなところがあった。セクシャリティとかではなく男子校のホモソーシャルな関係の中で、篤彦は俺の顔を窺いつつ雅之が好きだったようだ。雅之が入ると篤彦も追って美術部に所属し、大きなどんがらにいかつい顔してニコニコ機嫌よく小柄でハーフっぽい顔した雅之に金魚の糞みたいについて歩くのが傍(はた)から見ていてちと笑える光景だった。
俺はいつしか詩を書くことを覚え、高校生のあいだに一冊の手作り小冊子を編んだ。そして雅之に挿絵を依頼した。「俺のはいいの?」と篤彦。「いい、お前のは下手だもん」と言ったときの悔しそうな顔。「それに、俺の詩の雰囲気と合わないし」と言うと、少しホッとしたような顔をした。編集作業は三人でおこなった。ああでもない、こうでもないと、詩をならびかえたり、レイアウトしてみたり、どんなイラストをつけるか下絵を描いたり、三人であたまつき合わせて何日も過ごしたのがめちゃくちゃ楽しかったな。
できあがると販売に奔走したのはまず篤彦で、ほとんど押し売りのように学校中のクラスメートに売って歩いた。俺と雅之のファンの女子は多かったので(いや、ほんまに客観的に)けっこう売れた。休日には三人でターミナル駅まで出かけていき、座りこんで通行人に売ったりもした。おもに初老以上のおっちゃん、おばちゃんらが「頑張りや〜」と声かけて買ってくれたのがうれしかったな・・。

2019年7月7日日曜日

うらがえしの球

やわらかい。腹のいちばん膨らんだところに細いほそいストローをつきさして深海の
エキスを吸い取る。かたい。管は高純度の
シリカガラスで
精巧につくられていなければなりません。
電解物
自然に風化してるから表面特性とてもわるい。猫の
瞳孔に棲む特殊な菌類が窒素濃度60%以上
湿度11%常温常圧下でガリウム砒素のうえにつくった薄膜を
パックして13分44秒ピールオフ。
生殖にもっとも適した12倍体エイプは
エピタキシャル成長して超微細パターン
腐蝕版に刻む酸化チタン系セラミクスうごく。選択的にふるまう。

ひとの顔はみえない。

太陽風に吹かれてα線がはこんできた
T細胞アルカロイドの毒。1131Hzに同調して
情宣活動をおこなう。A級危険思想のがれるすべはなく
陽子が崩壊するごとにひこうきは
おちる。
靉霪霓霄霎霽靆霆霑霈霾霏雰霹霤靂
げんきにチャーム微粒子のみほせば白亜紀の
羊水マントル亀裂し無辜の鄒鄙鄲鄰
家畜は斃れる。
そこに褶曲収斂して皰皴皹皺いい凶々しき
コンチェルト颪颯颶飄飆2892人乗客船は
しずむ。
まうえから悪意。齣齟齠齦齧齬齪齷齲齶
みんな死んでしまう。
赧赭ああ灼けるテラレッド。アイはアマンは
しんでしまう。
錆びた鉗子がひっぱりだす催奇形遺伝子。

ひとの顔はどこにもみえない。

地球の皮をつるりんちょとめくる角質を
げりげり削ぎおとす麝香鹿の裏革で
たんねんにみがきあげたするする半透過膜
界面活性良好にて剥離層くるりんちょ
うらがえせば
インサイダウト流行遅れの
蝶鮫の象皮病
ブリッジをいれましょう単結晶酸化珪素の
アップサイダウン
NYの表層では
モーニンコンファランス発色剤どっちゃり
黒豚の三枚肉薫煙吟醸かりかりに焼いてね
炭化するまでパラコートわすれないで
手帳にいれてね

さらにさらに
うらがえせば。天体はたんに網膜
あをそこひ希薄な神経叢。ひっくりかえって
なにも聴こえない。

かわいた産屋に
ひとのかおは
無い。

2019年7月6日土曜日

恋するキナコ・純情篇

いまの女優で言えば(ここはあらためて時代に応じて更新されるかもしれないが)土屋太鳳か橋本環奈か。ただ、二人とも短軀で弾けるようなボディの存在感が似ているというだけであって、顔立ちはもっときつくて猫顔で、ことに目が猫目そのもので、昔昔の鈴木杏にそっくりかもしれない。
その猫娘、めちゃ素直で人懐っこく、私のことを「尊敬」してくれているのは犇々と(牛三頭分)伝わる。
あの日、私の右隣にちょこんと陣取り、私の話に真剣に耳を傾けていた。テキは、ホントにまったくどうしようもなく話をすればするほど死ぬほど無知で無教養で、単純な言い回しひとつ知らず、言葉を知らず、世界史や日本史の重要局面を知らず、抽象概念も知らない。それをいちいち解説してやると真剣に聴いている。(明日まで覚えているかどうか、定かではないが・・)。
えーと、すなわち、要点は、彼女は私のことはこのうえなく尊敬できる先輩として慕ってくれてはいるけれど、恋愛対象としてはこれっぽっちも見てくれてないということね。
・・あああ・・私ってばなんて純情でおバカなことを書いてること!

2019年7月5日金曜日

聖愚金曜日

おまえが人生をはかるやりくちは週刊フライデー星占欄に眼ずらしひとりわらいにかっとタナボタ不倫の期待へ胸ときめかすたぐい。
まあまあ感性だからすべてよしとへらへらへ恥じいることだにせず。

アフタファイヴのぶらんこはフラストレーションにふちどられたひたいをかくしてふらりふら。陽光もとよりあらわれず雷すら降ることなく。すくいのめがみは特価1000円駅のまえ被昇天女学館。

このよかぎりの満足をごしょうだいじにすりきれるまでなめながら呆けるフラフープ。
体力だけは万全の構えで容姿知能中流ほどのおつかれヤリガイものほしげによくばりフラッパー負け惜しみに義務と寛容と不公平。

それでも愛はある!
軽蔑と怠惰のおおいなる優しさきりきりささくれだつ道化は低脳な鏡像段階もっともっともっとのぼってあしたはきっと英雄ほめそやされあまやかされ休日ピーカン照り。

まったくほんまにどあつかましいあきれるほどの天下太平
その阿呆んだらが好きなんやけど。

2019年7月4日木曜日

ひろしまや

ふつふつと
なまぬるいのかぬくいのか
うしろあかるい
その温度である。

三和ミュージックのうらてをはいって三軒目
ほんらいならば銭湯なのだが現象はめしやであって。
引戸いちまいへだててうぞうむぞうのうじのせかい

タイルのゆかにもやをしきつめ
生理食塩水のおつゆを張り
陰部がじゅうぶんつかるようにあしをまげて
べっちょりすわります
うわべがだいすきもやしに玉子をいっこおとして
おいしい
うまい
おいしい
うまい
したをぬらす
ぶっかけめし。
みなさんうゑておられた
さすがにひえておられた

    ほとほとあそぶみやこどものこゑ。さいさへはやもてんでんやろうて
    謡。さわぎ。ならし。

けものどものちご
おおきなどんがらして
ずらずら
ゐならびてよわく
さだめてこころよく
おびえて
うえからあしらう乳いろのあかり
さかながくいたい

よしや貌がない。
ひろしまやのおかあちゃんは

とてつもなくやさしい
たなびくゆうれいにごはんをやるほどに。
それでけっこうもうけてるんやろからもんくはなかろと世間はいうのだが。

2019年7月1日月曜日

一千齣のアニー

石灰岩の酷いにおい
海鈴蘭のかすかなにおい
しろい崖下の小舎にはむかしながらのスタイル英国人夫妻が棲んでいて
黴くさい栄耀につつまれた老人と
年歯の離れた背の高い細君プラチナブロンドおとこみたいに刈り上げ幅広の肩を強調するチャコールグレイのペンシルストライプスーツに身を固め

毎朝仔猫の分泌する水臭いミルクをこっぷに一杯のみながら
わたしたち
ねこを飼っていても女王陛下に
お目にかかれるかしらね? と
真剣に案じながら日々を暮している

菩薩の美徳も才能もキャリアも子をおもう母ごころもみんな使い捨て商品。およめさんに不要品の札ぺたんと貼られようやく見つけたのが生まれてこのかた愛されたいおれは愛されたいのだと喚く以外に何もしたことのないぐうたら亭主

ほらまた
すきとおった天使のかけらが降ってくる

二匹の仔猫はあの荒れた海で拾ってきた。
がりがりに痩せて全身つめたい潮水でずぶ濡れになって黒毛に真っしろの斑がはいった牡のほうは息絶えだえだったけど
牝のほうは灰色虎毛すこし肥っていてまだしも元気があった
あのときからあなたあたしにあまえる口実またみつけたわね
ひきずりあげて懐で懸命にあたためたの。
のんきそうな牝猫しらぬふりであなたと遊んでいたわ

とどこおりなく
よどみなく
おもいにふけるひまもなく
その流儀がかっこよくて

それしかできなくなっていた。
92分間の16mmフィルム作品もう雨がざあざあ降っていて
ぼんやりきいろいランプのひかりのなか
並んだあずきいろのシートは
すりへってビロード剥がれおちていた。
緑灰色のすずしい眼。アニー! 黒革のスーツにぴったりしろい膚をつつみ薄い唇よく動いて口腔の大きな闇にダイアモンド一粒。
ゆびさきが昂奮してつめたく痺れていた

絶頂だったのよ。ルージュがあれほどくっきり滑らかに引けた夜はなかったわ
あたしはひこうきが怖いの。でも好きなの
離陸するまえが
ふっと地上をはなれてきけんなそらにはいり
ぐんぐん上昇していくときが。
もう水平飛行にはいってしまうとああここまできちゃったんだなあってうれしいようなほっとするようながっかりするようなきもち
ああここまで
もうここまで
もうひきかえせないところまで。
着陸のときはもういちどドキドキするけど
それも終わっちゃったらもうかなしくてしかたなくて行き先のことがあたまに浮かんできてそこであたしを待ち構えているさまざまな責任を考えて暗澹たる気分になるのよ大袈裟にいえばね。
それはおとこにはじめて抱かれる夜のように

ひこうきが降り立った海には
ずぶ濡れの仔猫が
あたしを待っていたのよ。
酷薄な眼をした若いスイス人プロデューサはわたしの国の皇太子殿下とおなじファーストネーム
あなたの名声をおざなりに誉めてから
復讐の唄を歌うあたしに拍手をくれたわ
びっくりするほど美しくて気まぐれであたしの好みにぴったりの男の子。
そしてあたしの部屋にある時計という時計が
いっせいに遅れはじめた。

とんでとんでもっととんでよ!
吝嗇家
カルヴィンの末裔
宣教師みたいなお説教しないでさ!
たった千齣なの?
あなたがあたしに与えてくれた出番は?

なにもかも言い訳。終わったあとのながいながい屁理屈。

すっかり元気になった牡猫を竹籠に閉じ込めて海岸沿いを走る汽車に乗り込んだの。片方にしか走らない単線。籠のなかで牡猫は黴菌みたいに単性繁殖してちいさなこどもをいっぱい生んだわ同じ毛をして同じ貌のまったくおなじ染色体の。そして生臭いミルクをどんどん出したわあたしの膝はすっかりびしょびしょに汚れて。

なめるような記憶
牝猫の楽観主義もてあまし
むこうの黒い森から若い鹿のこえ。きっと
むすこ夫婦の御幸。
細君の焼く黒い菓子は
すこし酸っばくなりかけた
猫性脂肪生クリームたっぷり挟んで
かすかにあまい乳糖のかおり

2019年6月30日日曜日

叱られて

叱られるたびに かしこくなる
  利口になるごと きたなくなる
かってきままをとがめられ
それはわがままだとさとされて ききわけがよくなる
  おとなしくなるほどに けがれる

花はらら・寛容であり情け深い。また妬むこ・.星つぶぷ・とをしない。高ぶらない誇らない・蝶ひららら・無作法をしない自分の利益を求め・樹みるるる・ない苛立たない恨みをいだ・月よろしげやら・かない。不義を喜ばず真理を喜・鳥ちぴぴぴぴ・ぶ。そしてすべてを忍びすべ・ひとさりゅる・てを信じすべてを望みすべて・たましひよしはかなく・を耐える。

ああいつぴぴぴ*わがままをゆるしてくれない*なりなほほ*のは*ふふふふ*かれがあたしをあいしてくれないせいだ*うぃうぃうぃみもみにみにもにものみれど*あいされたくて*れみそふぁみみふぁそれくんくん*いろんな術を身につけて*まみままままみま*ぼろをまとって
   自分がみえなくなる
あいされたくて
  またはだかになって
  身をひくくひくくひくくかがめて
  だんだん薄よごれてくる

あなたは許さない。妬む。高ぶる、誇る、
身勝手に振舞う、苛立つ、恨む。そして、
耐えることをしない。

らららたんか●かしこさのみを評価され●ひょおいいい●聞き分けのよさだけを誉められ●じじじかなしひひひね●あいされ術を利用されすりきれて●あははああるものかひいな●固有のひかりをうしなった身はそのうち●だなたかしのはまよほね●忘れ去られ見捨てられそんなにもみすぼらし嘘と埃にまみれたのは●さなかににんなぐさむむ●あんた自身のせい●てぃてぃてぃあーしたひの●だと馬鹿にされ

わたしは許さない。妬む。高ぶる、誇る、
身勝手に振舞う、苛立つ、恨む。そして、
何も信じない。

わわあああんかな※社会的訓練ができていない※ふんふんふじじ※ヒステリー性向。いつまでも子供でいられるわけはない※たまくらばかりなりともさ※それじゃ損だよ。もっとかしこくひとより得な人生をえらびなさい※たかひももしてやりせぬ※ぼんやりしてると損だまってすいすいひとをだしぬけば得※ほほほんいひひ※いつも損ばかりしてるからといってすこしはひとから奪ってもゆるされる※うわわあんでもなんでもや※甘えの構造※りんりいんもして※得した奴はすこしばかり気がとがめてそれでも自分の獲物を手放す気は※だんすだんすうすんでききき※さらさらなく※ぱぱぴぴ※すべてが経済原則で量られるとても自由な※とんでとんでりりりりれれれ※資本主義社会。じぶんをとてもたかくみつもって※ながめながながとみつくるもに※経済原則を許容できない人間は

リフレイン◎プリンスチャーミングデヴィ
あなたがいるからあたしは◎みかよみかづきクレセント◎きたない男たちの呼ぶ声に耳をうばわれることなく平安にすごしていられるの◎いざよひデクレセントあれーぐろあれーぐろ◎あのだらしない気のよわい卑屈な小狡い輩たちはあなたの輝かしさに手も足も出ずあたしに近付いてはいけないのだと分かるのだ◎のんノントロッポやさしくやあーさしくエーデューア◎歯がみして口惜しんで妬んで悔やんで己が身の救いがたく卑小なることを思い知るのだわ
おおとおとおとリフレイン◎プリンスチャーミングがやってくるから◎さまさまららりりちちちち◎今日の月にも明日の天気にも季節の風にも◎らりらあらららりりり◎草花にもましてや馬鹿な人間たちの所行にもすこしも心をやらず◎はるはるははあはりんどふぃももも◎肢をながなが伸ばして◎よろしあなよろしてにんじゃくどぅもああ◎あたしは口をつむぎ耳をふたぎ眼を瞑る◎をををうおうお◎ほんとうの神さまはこのとおり公平で◎ぴぴんだぴいあにぴあに◎このように無条件にこんなにもふんだんに◎ぱぱぱぷぷぷぷぷぴぴぴあにしも◎あたしを愛してくれる経済原則を無視して◎フェルマータ◎勿論あなたの得になるように◎つるんるるんるんりーだ◎叱られてもしかられてもきれいでいられるようにおとなにならないように◎コーダコー◎かしこくならないように。

2019年6月29日土曜日

感覚憶

死ねと云いおめおめと生きよと言い
記憶が私をくるしめる

地下鉄の中でなぜふいにしびれて冷たく戦くのかマッチのあたまのように瞬時明晰に燃えてあなたのくたびれかけた皮膚の下にゆたかな水脈を聴いた指先
ひとりの夜の枕になぜありありとよみがえるのか脳幹までふかぶかと吸い込んだあなたのゆっくりとした代謝の匂い

こんなにもなまなましいのに
それがあたしに生きることを許してくれていたのだからそれがもはや記憶というかたちでしか与えられない以上

ちかづくことをゆるしてくれたつつまれて思いきり呼吸することさえ許してくれた夏の汗の匂いとか微香性のコロンとか特殊な腺の匂いとかそのどれでもないほかでもないあなただけに固有の甘い酸っぱいあたしを酔わせる発酵性の匂いそれが届く範囲にひとがちかづくことさえ嫉妬した
においをうけとるのにちょうどいい距離があったいつもゆるされるその間隔がすきだった
あたしはあなたの眼なんか見ちゃあいないの生きていてもいいですか? あたしの指があなたの胸のちかくの血管にくりかえしくりかえし問いただすとあなたの指先はだまって教えてくれたいいよとてもいいよ生きていてもいいんだよ幾度もいくども応えてくれた

だからあなたの忘れっぽさ無関心の沈黙は
あたしを文字どおり黙殺する
とても敏感な指先が知ってしまった
記憶力のよい脳幹近くの粘膜がきまぐれに再現する感覚憶が
あなたの不在をいやおうなくさせるいま
死ねと言いおめおめと
生きよと云い

2019年6月28日金曜日

迷走台風

雷鳴。
稲妻。
ざんざか降り。
特権的にも局所的なる嵐。
あられもなくふれもなくさたもなく
そこにある季節をむだなく洗い押し流す。
繊いほそい繊いとても細い線をつたって
怒りは忍び込み
平安穏健厚顔無恥なリノリウムに滲み達して、
すべてのデータを破壊しすべてのアクセスを断絶しすべてのシステムを混乱せしむ。

終わったよくもおわった!
エンドマークー100万個ぶつけてそんな
平和の終焉をよろこぶ
だったらよかったのに。

どおっと吹き飛んでいく。ばらばらと紙屑が
鉛の屑が腐蝕した珠が無限個ころろ地球の
表面にゆるやかに仕掛けられた傾斜を
つたって

よく電話は通じたものだ。ああこれは凄いよこんな状況で凄いことだよふらふら迷走した
たましいの渦は
恋いしがって離れてなつかしんであきらめて
思い切れずに喚きやっぱり離れてはなれて
離れていく遠ざかっていく
そんなにも可愛いちいさい女の子は
沖縄を今夜半直撃するも
小笠原諸島はすでに暴風雨圏なるも
本土をかすめず
日本国は微動だにせず
そこも領土だったの? ちりぢりに揺れてやぶれて弾けて飛び去ってしまった哀れな
いきものの欲望は?

みえない向こうの闇から聴こえてくる
ひどく単調な
歯ぎしりつーつーつーつーつーつーつーつーなんの意味も感情もなく絶望だけをつたえてつーつーつーつーつーつーつーつーつーつーそれでもつづいているだけでよかったのに
いつ途切れるいつきこえなくなるいつ消滅する耳をすますほどにほそくちいさくよわっておとろえて抑えきれず呼ばわるほどにとおざかる離れてしまう去っていくいってしまう
ついについにつーつーついに途絶える。

終わったよくもおわった!
朝無惨な灰青色の空に鰯雲ひとつふたつ
みっつエンドマーク100万個かぞえて
そんな季節の終焉をよろこぶ

しかし怒りはついになく
恥さらしなリノリウムはのっぺらぽうのままだらしなく
ああ。

2019年6月26日水曜日

さくらん

とてもみじかい夜の
あざとい音楽におびえて
ねんいりにけはいする。
あまりあまりあまりのへだたりを
なんてうたとい!

くちびるはことばによごれてつかれたださくらんぼさくらんぼさくらんぼやまほどくわえあわれなるだえきの匂いふくみねんまくのまずしきかいかんあそび制度にたよりなげなおとこの想像力せんぞがえりのおんなの悪趣味うそからうそへわたす吸引逃れるためのうそうそうそうそうそうそ。

もどかしげにきれ剥ぎとってもさらにぶあつい包皮の擦れ合う ぎしぎし たいえきはこうりゅうなくたいおんはでんどうせずとてつもなくよわよわしげにとりつかれるあいされたいあいしたいあいされないあいされたいあいせないあいしたいあいせないあいされたいあいされないあいしたいあいせないあいされないさえないゆめの とんま。

あかくあかいよるあおみどりの間さくらんぼの二重たいじはでかいあたまくっつけてくすくすわらいをつたえあい六月にとてもいきぐるしくゆあみしてこれがしあわせこれもふしあわせあれはしあわせあれがふしあわせ脆弱なろんしの あつれき むのうなゆびゆびゆびつきあわせてさとりたまえさとらせたまえ冷めたしんこうの まのわるさ。

わかっちゃいるけどとめられないよほどよほどの噴出ざあっとねさくらんぼの堅いかわにぎりぎりくらいついてだめ。はをたてるのは違法。 だめ。ちをながすのは反則。 だめ。あじわうのは禁忌。音楽! ああ死ぬほど死ぬまでおまえはかわいいねなにがあってもなにがなくてもおまえのすばらしさ! はなさない。

2019年6月23日日曜日

ボール箱に砂場

あー
あー あらあら し
 あらあら すね保母のD.C.もん
  手が粗雑な ぶちまけし
 惑
あー

ほないくで

あなたのハコをください。砂をいれて
 にいたしましょう。

さら
 さ
  置く

どんなに重い   口ほどに
ほどなくなが
  ながれ ぬ
  つまらせ
つまり

あなたのハコが欲しいのです。水平に
垂直に切込みをいれて
大小の四角をくみあわせて
 をつくります。

どれだけ
あそべ
 れだけ
たわむ
  だけくりかえ


 よりわ
悩みのない

かたすみの

もういっぽうの かたす
のもうひとつ ふた
の先に埋めようのない
距離がどうして
それは


  がれるのか

でも わ
たしかにきこえる

あなたにも
きこえ
でしょうか

かたすみのしずく
もう一粒
 つの一粒

2019年6月22日土曜日

ボール箱に砂場(というラベル)

『ボール箱に砂場』というのは七木まや名義で出版したわたしの唯一の活字化された作品集です。1冊だけ手元に残したそれをいま読み返すと、詩作を自己セラピーに利用した経緯があからさま過ぎて赤面します。
中学高校時代からそれなりに好きだった詩作の趣味ですが、20代後半のある時期、今から思えば「軽い鬱」だったんでしょうけど、あることをきっかけに精神的ピンチに襲われて、それを救ってくれたのが詩作だったわけです。そのとき、パソコンに向かって、一心に文字を綴り、文字を綴ることが、自分を癒すことになったその情景を、あたかも客観的に映像でも見るように想起することができます。
初めての詩集を出版するにあたり、時期尚早というアドバイスを信頼している人からいただきました。本当の(だっけか?)詩人を目指すなら安易に詩集というかたちで出版物を残すものではない。しばらくは辛抱して書き続けるべきだ。・・みたいなことを言われたと記憶しています。でも、わたしは、結局自費出版というかたちで本にしちゃった。それは、やっぱり、それがそのときのわたしにとって必要だったから、としか言いようがありません。
いちばんピンチのピークで書いた最初の詩を覚えています。そのときの天候と、そのときのパソコンも。そして、最後に、ああ抜けたなぁ・・と思い、安堵して書いた詩のことも。 そのホッとして書いた詩が、いま読み返すと緩すぎて(笑)。ようこんなもん活字にしたなぁと、いまでは恥がましく笑って振り返ることができるのですが・・・。
で、ほんまに、その「通り抜けた」あとで書いた詩のあと、わたしはピタッと書くのをやめてしまいました。 いわばプロの「詩人」となることをそこで放棄してしまったのかもしれません。表現として読者に見せることのできる詩よりも、自分自身を癒すためのものを選択してしまったわけだから。
・・なんて、恥をさらしてしまいましたが、でもまだ、表現として救えるものもあるのではないかと、『ボール箱に砂場』に収めた詩と、気分的にそれにつながるかなと思われるものに、このラベルをつけてアーカイブしていきたいとおもいます。
キナコの夢として書いた「童児神」のモチーフがそこにもあるので、「地母神」が最初のエントリーになりました。当時この詩を読んでくださった方が、宝塚の(もっと具体的には大地真央の)舞台を唄ったものと解釈してくださったのには、書いた本人がびっくりしました。わたしは特に宝塚のファンでも大地真央さんのファンでもないのです。偶然そのイメージが一致したんですね。

2019年6月21日金曜日

地母神

MAOはスタアだから、あなたがいないとレヴューははじまらない。

最初の神話

ほかのおおぜいの神がみを従えてあなたが座るのは舞台のまん中のヴィーナスのそこで生まれたあたたかい海の泡。とてもしあわせそうにさざめく宝石たちがやさしく護る女神のきらめき栄えある台座。
夢は夢でもとびっきりの夢MAOの左手がゆらぐと至上のおんがく神を讃えるはなやかな詩篇。右手にはあくまでかるくあくまでゆったりと妖精たちの舞。共感してざわめく海。あかるく微笑む空。みんなが貴い午後になによりもあなたあなたなのはMAO。
MAOが語るのはこの世にただひとつしかないだれもが記憶にとどめているだからいちばん陳腐ないちばん聖なる物語。とても単純でエレガントな論理。完璧な序破急。まことなる寓意。MAOがあたえてくれるエクスタシーのいまのいまいまがあれば滅びのときなど怖くない。いちどかぎりの至福の時代。これっきりの真実。すみずみまでいっぱいにひろがる上等の快感。
だからわたしはだれであってもだれでなくても赦されているの。のぞみをさまたげるものはなにひとつなくながれをとどめる批判なくこのうえなきグランフィナーレ。

そして暗転

名残りも惜しくしずかにやすらかにMAOが去ればフェスティバルはおしまい。夢からさめると地の中より這いでくる女たちは一粒ひとつぶ匿名の現実主義者。まずしきはたらき蟻。武器を手にてに敵を抹殺せんとして。
夢みたものはみんな罪。MAOを知っているのはおぼえているのは悪。ただの夢だとわかっていても容赦なき時代の裁きのまえに。
わかっでいるのよわかっていたのよはじめっから。しんじてなんかいないからそれが嘘だとわかっていたからわたしはもはやMAOにはみすてられ。それでも幻想を享楽した以上は執念深く嫉妬ぶかい女たちがわたしを許すはずなく。わたしは名札を貼りつけられ追われて逃げてそれでもみっともなく生きたくて臆面もなく臆病にもごめんなさいごめんなさい傷ついた自分を哀れにおもうMAOへの裏切り。うらみながら侮りながら闘おうとしない卑屈。

ふたたび顕現

海が割れると。
厳かに尊くも畏くも神がみの列は紫の雲のあいだよりしずしずと御降臨。
そんなあほな! あまりの展開に失笑するひまもなく現実主義者たちは猛り狂った浪に呑まれ口ぐちに呪いの言葉を吐きながら滅び去る。彼女らの語る正義は怒りにふるえながらああ道理無き末世よ、頽廃の幻がなぜ私たちを殺すの! こんな馬鹿なことって! あんたたちなんか何の実もない幽霊なのに! 世に害悪をまき散らす悪魔なのに。ただしいのは現実なのに!
現実が夢を滅ぼすべきなのに。
そのとおりですともあんたらはつねにただしい。わたしだってあの楽劇は虚構だとわかっていてそのつもりでたのしんでいたはずなのに。いまめのまえでおこっているできごとはいったいなんなのMAOのみえない影に怯えながら。いつのまにみについた自己防衛なぜだか生き残っている自分の肩を抱きながら。
神さまのとおりみちをさけて身を隠す石柱の陰。まぢかにみる女神たちはこうべを昂然と無表情にゆるく緩いあしどりで。ながく永い儀式の行列の最後尾にはまるまると肥った童児神。あやういはやあしでおとなたちのあとを懸命に追いかけて。やりすごしてそっとついていったの。舞台のはなみちのいちばん端からおとなしい海へひとりひとりまた空へかえっていく神がみの最後の童児神の姿がいまにも消えんとして。いかないで!
走っていってつかまえようとしたの。わたしにただひとつのこされたねがい。

カタストロフ

そのわたしのゆぴをかいくぐってすうっと消滅すべきだったのよ。だってかれはわたしのゆめなのだから。幻想の中の神さまなのだから。わかっていたはずなのだからそれでじゅうぶんだったのだから。
しかしてのひらはかれのしろいやわらかいししむらをとらえて。いきもののあたたかささえかんじたの四肢を愛らしくばたばたさせてMAOの幼児なるさいごのぎせいの童児神。うたぐりぶかいとまどいをとがめるすべすべながれるはだふわふわはずむにく。
でもかれを捉えてどうしようというのか?
虫の良いわたしをMAOはもはやゆるすまい。それがおまえの罰ハッピーエンドのないぶざまなおしばいMAOのいない海辺の廃墟生き易い地獄。石鹸臭いテレヴィ女優に身を堕としMAOは今日もわたしをまっすぐみつめ恐ろしい笑顔をうかべて。わたしわたしはわたしこそMAOのうつくしい赤子になりたかったのに。

2019年6月20日木曜日

うしろすがた ー 夢みるキナコ

いつも君のうしろすがたばかりみてきた。

なにかに夢中な君の
肩がふるえたり あがったりさがったり あたまがうごいたり
君のうしろあたまを 鑑賞しながら
君の感情を一緒になって味わっていた。

一心に作業する君の
背中のたたずまい 腕の動き 手の指の繊細な仕草
安らかに立った足から すこし傾けた頭まで
君の動作にみとれていた。

ダンスする君の
揺れる肩 うねる腰つき めくるめく のびる折れる交叉する 手足
俯く仰向くねじる 首あたまから 振れるたなびく髪 
フロアを踏む跳ねる飛ぶ 足先まで
君のリズムを 一緒になって感じていた。

でも 私が手をのばして触れることは許されない。
さわれない。
禁じられているから
眼だけで たいせつに たいせつに かいなでていた。

一度だけ
おまえを うしろから
つかまえることが できそうだった
一瞬
おまえの はだかの 白い やわらかい ししむらを
私の 両のてのひらに ふかく ふかく つつみこみ
いまにも 抱きあげることが できそうだった
瞬間が

でも
おまえは 私の両の手をすりぬけ
たたたたたたたっと 駆けて
空に跳びあがり
そのまま 中空に ふっと 消えてしまったのだ。
まるで 天の神に 喚ばれた
あがないの ちいさな いきもののように

うしろすがたのままで
そのまんま 永遠に
消えた
あれは

あの瞬間は

おまえの ししむらの 感触は
あんなにも ありありと 私のてのひらに
記憶されているのに

夢から醒めて ひとしきり泣いたよ。私は
ぽろぽろ 涙流して
えんえん 声だして 泣いたよ
それが夢だったのが 悲しくて
それが夢だったのに 安堵して

うつつにもどれば
君のうしろすがたは あいかわらず そこにある。
生きている にんげんとして そこにある。
躍動する ししむらとして そこにある。
でも やはり それは うしろすがたのままで
私の 手の届かないところにある。

前向いて喋ったりすると嘘つくからね、人間は。
なんて話ではない。

君は永遠にうしろすがたの ままだから。

2019年6月19日水曜日

恋するキナコ

たとえば
のぼっていくエスカレータで
おりてくるエスカレータに乗っている
素敵な子をチェックする。
ひとりひとり
 あ、この子いいな。
 この子、綺麗な顔だち。
 洗練されてる!
 この子もステキ
 おお!完璧!
JRから地下鉄まであるくまに
地下鉄から職場まであるくまに
すれちがう顔をいちいちチェックする。
ひとりひとり
 わ、可愛い!
 おお、かっこいい!
 地味に端正
 個性的。
 すっごい 繊細!
 おお!かんぺき
ステキな子にばっかり目がいく
綺麗な顔をさがしてあるく
私の眼の
面食い癖はとまらない

ああ
それでも
 どうしてこの子じゃいけないの?
 この子でもよかったやん
 こっちのほうが客観的には
 ずっとイケてるのに
 なんでこっちのほうを
 好きにならなかったの?
すれちがう子
すれちがう子
やっぱり
あの子
ではない。
あの子とちがう
べつの子 なのだ。

あの子の顔はひとつしかなく
それは 綺麗で素敵で申し分ないけど
たぶん 他の子にくらべて 圧倒的に秀でているとか
たくさんのなかで 客観的にナンバーワンとかではなくて
それでも
ひとつしかない。
あの子だけが
私のファンタジー。
いちばん好きなのは
あの子 だけ
そのファンタジーが生身の人間となって
どこかで生きているのが 奇跡である。
いまも どこかで 生きている。
私の いまが すれちがう
この子ではなく
いま おもわず 目の合った
こちらの子でもなく

2019年6月17日月曜日

デモ隊

その街の旧市街はどの建物も暗い赤紫色の石造りである。立派な建物は立派な石でできた立派な建物で、普通のアパートも同じ種類の石のちょっと安普請な建物で、現代的なショッピングビルなどでさえ外装だけは新しい看板だの電光掲示板だのいろいろごてごて飾り付けてあってもひと皮ひんむいた建物じたいはやっぱり赤紫の石造りなのだ。自然の川だか運河だかに沿って道はゆるやかに曲がり街全体では不定形な網の目状になっていて、たとえば西を指して歩いていたはずがいつのまにか北に向かって歩いているので油断できない。すぐ迷ってしまう。迷いながら歩いていたつもりがまたもや街の真ん中に出て来てしまった日曜日の朝。この地の日曜とあって薬局と一部のパン屋以外の商店はすべて閉まっている。しかたないしのんびり過ごそうと広場のベンチに腰をおろすとあたりに警察官がちらほら見え始め、昔ながらの大きいウォーキートーキーで通信しながらそのあたりを警戒するようす。何事ならんとおもっているとそのうち広場の向こうの道の奥になにやら喧噪が沸き立つように聞こえたかと思ったら最前列に赤っぽい旗が横列にいくつも翻っているの見え初め、それはすぐにデモ隊であることがわかる。デモ隊はシュプレヒコールを叫びつつそれでも全体的にはしずしずと広場に進んでやってくる。遠目には整然と見えたが近づくとそれぞれバラバラで思い思いのプラカードを掲げてその主張するところはさまざまでいろいろ要求はあるらしいのだが反政府デモというところでは一致しているらしい。デモ隊の傍にはあたかも護衛するかのように警官たちがつき一緒にしずしずと行進している。最前列付近は壮年の男たち青年の男たちが固めているのだが、その後ろあたりになってくると老人夫婦とか子ども連れとか普通の市民たちが普通に参加していてある列などは乳母車に幼児を乗せたお母さんたちがかたまって歩いていて、また別の列ではギターを抱えた若者たちが車のうえに集い昔懐かしフォークソング様の歌を歌っていたりで、デモ隊とはいえみなさん楽しげに参加していて、主張するところも労働問題であったり経済問題であったり原発問題であったりなじみのあるところばっかりなので、おっちょこちょいの外国人としても共感を表明する程度のささやかな参加でもできるかなと思われて、例によって頭で妄想しつつ現実に客観的にはニコニコ好意的に眺めていた。そこへ現地の初老の男が赤ら顔で登場して私の傍に立つ。デモ隊を指差しながら私に向かって何やらいろいろわめいている。このくにの言葉は少しは理解できるつもりなのだが男のしゃべる言葉は、このくにのなかでもこの地の訛が激しく入っているせいかまったく理解できない。のだが身振り手振り言葉の調子からデモ隊を激しく罵っていることはわかる。「非国民」みたいなことを言ってるのだろうか?と思っているとその指差す指がいきなり私に向けられ「おまえも移民だろう。ここでなにをしている!」とそこだけが意味を持った言葉として耳に突き刺さってきた。訛があろうとそこだけははっきり解った。私はたんなる旅行者で移民ではないのだが、そこで「私は移民ではない」と言うのもなにか間違っていると思い、とはいってもこの国粋主義者?に反論するほどの言語力はないのでただ不快な顔を示してその場を離れることにする。なんとなくデモ隊と一緒にしかし歩を同じうするのでなくぶらぶら歩いてその先にあるベンチにまた腰をおろした。それにしてもこの長いデモ隊はどこまで続くのか。この旧市街に住んでいる人たちぐらいは全戸参加してるんじゃないかと思うぐらい長々と続いたデモ隊のしっぽが見えかけたかと思ったらつむじ風がビラを捲き揚げるのが見えその風に乗ってくるかのように広東語のngoに似た音が低く低く地面を這いながら。

2019年6月14日金曜日

死ぬな

知っている人で自死してしまった人は数多いけど、特に辛い思い出になっている人は3人いて、ある共通点がある。3人とも、わたしにとって大切な人だったけど、特にわたしに最も近しい人だったというわけではない(そのうちの一人なんて個人的な付き合いすらなかった)こと。かれらはヒーロー/ヒロインとして死んだのではなく、無意味に死んだ(ハッキリ言って無駄死にした)こと。そして、わたしはそんな立場になかったにもかかわらず「どうしてそばにいてあげることができなかったのだろう?」と強く思ってしまったこと。
今でもその悔いがしつこくつきまとう。「そばにいてあげる」ことを想像すること自体、現実には馬鹿げたことであることはわかっている(かれらにはそれぞれその立場にふさわしい人がいた)し、もちろんわたしがそうしたからといって自死を阻止できたかもしれないなどと大それたことを思うわけでもない。それなのに、どうしてそれができなかったのだろうと悔やんでしまう。なにか、かれらがわたしの代わりになってくれたのかもしれない、という後ろめたさもあるのかもしれないけど、そういう投影はむしろ死者たちに対して失礼であろう。ただ、わたしも死ぬときには無意味に死ぬのだろうとは思う。(だから◯くん、死ぬなよ。わたしが知らんまにいなくなってしまわないでくれ・・)

2019年6月12日水曜日

わたしはたわし

オレが一人称オレなのは、わたしという一人称が嫌いだからだ。
わたしは、わたしは、を連呼する女をみると、たわしは、たわしは、に
きこえてくる。
そのうち、たわしあたまの、棒のようなからだつきの女が、みえてくる。
さけぶたわしの、まんなかあたりがどうにもいやらしくて 卑猥でさ。
茶色く ぴんぴんびっしり生えた毛がビーバー(もちろん隠語)を思い出させる。

ああ、でも たわしにまですら至らなくて幼児みたいに自分の下の名を自分の一人称にする女なんて論外だぜ。
どういうわけかそういうのにかぎって意気がってたりするのもいるけどああいうのはオレたちの部族ではない。
部族ではない。
誇り高きオレたちの。

ハルの一人称は、世間的には「わたし」だと思われているだろうが、「た」と「し」のあいだにかろうじて聞こえるか聞こえないかの風情で ちいさな「く」がはさまっている。
だから「わたし」ではなく「私」なのだ。
生まれついての(かどうかは知らんがそう思わせる)エレガンスでさ。なにか優雅で 高貴な カンジでさ あの「私」の発音はハルにしかできない。
ハルが男であったときから知っている。
ハルが男でいてくれたらよかったのにな。
大好きだし。
でも、きっと手は出せなかっただろうな。
オレにだって、手を出していい相手と そうでない相手はわかる。
ハルは、大事だから終始手は出せなかった。きっとこれからもずっと。

わたしわたし、たわしたわし、を連発する女の代表格が ペコだけど
あいつだけはまあ許しておく。
わたしわたしわたしを連発しないといけないほどのひ弱な人格があって
あいつはそれを奪われたらどうなってしまうかわからない。
でも じつは だれも ペコの 「わたし」 になんて 興味ない。
あいつはそれがわかってない。いや薄々わかっていながら、目をつぶっている。
だから、ちょっと、ほっとけないところがあってさ。
ホントはあんなタイプの女は大嫌いなんだけどさ。オレの裏人格みたいで
ほっとけないのさ。
誰とでも寝る女と 誰とも寝ない女
という裏ではないよ。念の為。

2019年6月10日月曜日

三月のあけがた。夢想

ことばが春の夜の風にのり
黒い梅の枝のように
あなたにむかって どんどんのびていく。

と、おもうまもなく
あらあらしい手によって
いともかんたんに振り払われてしまった。

ぱらぱらとむなしく散ったことばは
地に墜ちて
こんどは
下へ下へとどんどんもぐっていく…

せつない重み

2019年6月9日日曜日

ボール箱の隅に白墨で書いたサヨナラが
君の手に届くまでの長い長い猶予期間を

ボール箱の隅に白墨で書いたサヨナラが君の手に届けられるまでの長い長い猶予期間を
発送済ボール箱のなかにかくれ棲んで砂場つくって遊びながら
カナリア獲る猫の手肢を隠匿するためのサインを偽造しながら
君に聞こえぬように何度もつぶやく je ne vous aime pas をねんいりに蔽い隠しながら

せっかち配達人にああもっと遅くもっと遅れてよと囁きながら
め立つようにと大きく太く斜めに書きつけておいた白墨の字が
もしかしてなにかの拍子にすれてこすれて消えてしまってくれないものかと希いながら

君のことをまるで知らないのにだって好きなんだもんとはいい気なもんだ!鉢植えする
ひ弱なひこばえにさらさらの砂をまぶし水気を与えて塊をいくつもこねこね団子にして
かこった砦にモビルスーツの人形と家を配しクリスマスローズをあしらいツリーをたて
1年と1ヵ月ぶりにめでたく恋唄パート2の残滓かきまぜながら

あのときよりもっと大量の薬をからだに容れる羽目になりひきかえにぽろぽろ欠落する
穴・孔・洞・瘢痕・腫脹のたぐいはあのときよりさらにでかく無数にぼこぼこに空いて
その袖にすら未だふれることかなわぬ君の繊い腕ならすっとくぐりぬけてしまいそうな
おめず臆しておびえるうちにかえってかぜに剥がされつくして無くなってしまいそうな
おもいおもい物質的条件を呪いながら避けたくて避けられぬさかづきにおののきながら

箱にはいってから君へのサプライズこしらえるドロナワに自分であきれてわらいながら
砂場に造った庭をどのように説明すれば喜んでもらえるのやら
口の中で繰り返し繰り返し君へのささやかなプレゼンテーションのリハーサルしながら

なけなしのながらながらがなくなればみじかい猶予もおしまいになるのをおそれながら
証拠物件の死体のありかの輪郭ふちどるように白いチョークで
かならず書きつけておかねば許されぬサヨナラの文字をわざと荒っぽく書きつけながら
そこがただしいアドレスかどうかも知らず君の居場所を宛先に
わたしわたしわたしのぜんぶを時計とともにとじこめて封印し
けっきょく言えることといったらこれでぜんぶ「これでぜんぶ」がぜんぶと知りながら

そのあとはせめて配送路を運ばれるあいだじゅう熱心にわらっていようとつとめている

だから
本当に届くか届かないのか覚束ないけどきっと迂回しながらも

サヨナラの痕跡がいよいよ君の目に届いたときには思い出してほしい。一瞬でいいから
ぼくの名前を        こんな署名が  あったことを
そのあとはこのこっけいなそまつなひつぎは笑いとばしてご面倒でもすぐに折り畳んで
焼却炉になげこんであとかたなく焼尽してくれていいのだから

2019年6月7日金曜日

るおるお

るおるおと啼くものがいる
るおるおと啼くものはどこにいる
るおるおと啼くもののありかをしらず
  肉は悲し すべての書は読まれたり
と つぶやく声がある

2019年6月6日木曜日

せつな・い

虚空をやぶって
 音 が発せられる。
意味は津波のように あとから襲ってきて風景をなめつくす。
意味のやってくるまえの ほんのわずかな空隙 その刹那
不安にふるえる ことばが
いちばんうつくしい。

2019年6月5日水曜日

いきしに

かかえこ
 みにあえ
 なく失敗
 放出にも
 しくじる
 手のひら
 にぬれた
 感情がい
 ちまいべ
 っとり貼
 りついて
 いる審判
 の笛がピ
 ッと鳴り
 hold の
 宣告

  先刻承知
  保持して
  いてはボ
  ールゲー
  ムはなり
  たたない

にからだ
の湿気が
糊のよう
に作用し
てここを
脱け出す
ことがで
きない。

   ああうるさい
   発生源が近い

もしなにも
ながれのなかにはいっていなければ
くりかえすまい

いきしなに捨てていけばいい
そのていどの

ゴミ

ホコリ とて
僅かに なければ
澄明として
輝くこ ともあ

まい   が

きみにかくしたひとすじの
犀のつの
にはいった罅
もしくは
なだらかにおくれるひとたびの
逢魔
ひとむらの大砲
じゃとてたかがゲームじゃいきしにわけるといってげんじつのいきしに
かかわるわけでなし
ただ やわらかい沃土に
いたいたしげな いくせんすじもの
かすり瑕をつける

かなしいのびあがり
とめどのない
やすらへ
わすらひ
ながくて
ごめん

おおい!
もうもう くりかえす
おおいかくす
免責事項
おねげえします
みになってがんがえてみ
がんがん がん みて

さいしょうげんここでかくしんしたことがあらう
さいだいげんここでかくしんすることがあらう
ここにかくれていないすべてがあらわになる
かぎり
でも
ただしくてごめん
あわ
ただしくてごめん
          いきし てますか?
         へろへろ
        あいし てますか?
       なりふり で
      どこま で ふり
     ゆくの ですか?
    つづけるの ですか?
   やめる のですか?
  いかにして
  ひとは
   ほらほら
         はらほろひれ

よしんばしょうどうこときれてもなにもじゅうじゅうきずおふじこなんてあるわけない/にもかかわらずそれそこそのときにかぎってじゅうだいじこ/にじゅうだいじこ/にじゅうだいのじどうじこ?じどうしゃじこ?にじゅうさんじゅうにこときれていくじどうしょうどうのかずかず/ぶちぎれるハタチの児童の二十台のたまつき自己/事後の事故/しじゅうだいはしじゅうからその二倍ぢごくふたつぶんてんごくはんぶんけちけちするなば損害あらかじめヘッジしておくがよろし/しかしくわねどへっぽごさむらいじぇにはなくとも精神だし惜しみはしないのさそんなにきずおふのがいやか

生きしな に
息しな い
はずかし くない
はずかしく ない?
ほんたうに?
行きしなに
拾っていってよ

とりあえず徴は所詮とりあえずと知れり
それでも空白をうずめるために強迫的に
つぐことば世知にたけた世辞 世事にう
とい世知辛 市場サイアクのシンクロニ
シティ
                    まちなかで
           じゅうしょうでしぬのがいやか
           きずしょっていきるのがいやか
           不可能な身体になっていきるのは
           ふがのうか
           ふがいなか なかなか

ほら円のある竜巻/ふちのある空/きりとられた窓枠/うつりこんでしまった傷痕/削りとられた和解のふしぶし/すりきられたほまれのかずかず/なによせもない逢瀬/おしとられた無理きり/かわいそうな
かわいそうなあのこ!もてあますアマテラス/アマリリス/アイリス/アリス/リリス/イヴ/スピカ/カペラ/ヴェガ/えりざ/かみざ/蟹座/かすりざ/ほとけのざ/座椅子/ざいすいす/在スイス

イタリーとの国境をわたる/さんろくの/からす/三六の/ガラス/独身者の/大鴉/でんせんをわたる/てだれの/てぶれの/ひょうめんをつたふ/三界に/転生する/てんかいする/はんてんする/反る/帰る/換える/孵る/てごめの




えりしなにとってくるからとめんどくさそうに
  よばせてこわせてさかさづるのだ
いくさきからかえりのことなんか
  かんがえていてはだめ
まだわたしたちはかえりとに
  ついていない
     のだから

よんど
ころなくなきなきかえるみちすがらまだいきさ
きすらみえていないといふに

2019年6月4日火曜日

김치ではない

自分が在日コリアンの詩人とか紹介されると地元に凄すぎる大先輩がいるので俺ごときがそんなふうに名告るのはおこがましいけど、でも、ま、俺の生活のその他の部分がクズ過ぎるんで自分に誇りが持てる部分といえばそこだけしかないわけで、むしろ積極的にそう名乗ることにしている。含みは詩人なんかではとても食えませんので生活をたてる手段は別にあるんです。
そのクズな俺のたつきは・・雅之がどこやらでバラしちまったみたいだけど。
もちろんセックスワークに誇りを持ってるプロの人たちが多いことは承知しているしセックスワーカーが一律人間のクズだとか言いたいわけではない。だけどこの人類史上最も古い職業といわれるこの商売はバスマットのように人に踏みつけられ蔑まれてナンボのところも確かにあって(だからこそ崇高さを帯びるという逆転もまた確かにある。俺はもちろん古代の巫女のようには語れないが・・)クズはクズでしかないことを心得たうえでの稼業ではないかと思っている。もちろんこの世界でキャリアアップしていく気はなく(出世して?めでたく女衒になったらもっとクズだ)自分が商品価値のあるうちにせいぜい稼げるだけ稼ぐ。いまは貯金のためにそうしている。あるていど金がたまればすっぱり足洗って気立ての良い女の子と結婚して正業について身を固めるつもりだ。それまでのモラトリアム。もちろん楽ではないけど金稼ぐ手段だと割り切れば、ね。
しかし俺は、そうやって人間のクズに落ちぶれて風俗やってる自分をどこか他人事(「たにんごと」と読むな「ひとごと」と読んでくれ)として冷静に眺めている自分がいて、そのお陰で自分を保ってられる(つもりでいる)けど、雅之は弱すぎるだろう。もし俺があいつをこの世界に引きずりこんでしまったとすれば、取り返しのつかないことをしてしまったな。あいつには冷静に自分を眺める視点なんて持ちようがないだろ。馬鹿だから。このまんま際限なく堕ちていってしまわないかと心配でたまらない。
俺の長姉は(ちなみに長姉の下に次姉がいて俺は末っ子の長男にあたる)古い日本映画の大ファンで、雅之みたいな馬鹿がいやしくも京大出身で美男の名優とおんなじ名前なんて許せん・・と常々言っている。あいつの両親はそういう意味でつけたんじゃないらしいが。
ある日の馬鹿会話。
俺が(なんかの話の流れで)民団の建物の正面に嫌がらせのように警察署があるのはあれはホントに嫌がらせであって俺たちが何か悪いこと企んでないかと常に監視しているのだ・・という誰でも知ってる有名な話(重言か)をしていると、雅之
「ミンダンてなに?」
小学校のガキの頃からつるんでる友達のくせしてそんなことも知らんのか。
「在日コリアンはミンダン系とソーレン系に分かれるのだよ」
「へーなんで?」
「くに本体が二つに分かれてるからに決まってるだろ」
「へー・・で、島ちゃんはどっちなの?」
「さっきから話題に出ているミンダンである。」
「そうなの。それって北か南かどっちなの?」
「教えてやらん。お前みたいな物知らずは手がつけられない。宿題にするから調べて来い」
わざと意地悪な言い方するとテヘヘと笑った。これだから・・。
俺はといえば、件の民団のやってる韓国語講座に5年も通ってなかなか上達しないナサケナイ日本語ネイティブだ。
家族で本国の親戚を訪ねたり本国から親戚が訪ねてきたりするときは俺以上に韓国語がまったくダメな両親に代わって通訳を務めないといけないのだが笑ってしまうほど不備すぎて、親戚の側からも家族の側からも責めたてられ呆れられる。えーと、それって俺の罪なんですかぁ〜?
くにとの心理的絆はずいぶん薄くなってきている。韓流が話題になりK-POPのアイドルがテレビやなんやに出てきても特に自分とのつながりは感じないし。J-POPもK-POPも似たようなもんやん。(俺自身は洋楽でもっと遡って大昔のブルースやブルースロックが好き)。二人の姉も母も韓流ドラマや韓国映画よりも日本のドラマや映画の方が好きみたいだし。(まったく毛嫌いしているわけではなくそこそこ見ているのだが自分の国だからと特別な思い入れはないようだ)。
但し家族一同、困ったことにスポーツでは断然韓国を応援する。
俺もいまどきの面白い韓国映画、在日コリアン監督の映画に関してはたぶん日本人の普通の子らとそれらとの関係とあんまり変わりないだろうと思う。特に自分がこうだからどうということはない。
趙方豪(「ほうごう」とか読むな「ばんほう」と正しく読んでくれ)といえばそりゃ『ガキ帝国』の優しさすら帯びた兇暴さは申し分ないけど『三月のライオン』の繊細さの方がどちらかといえば好きだとか・・。
ちなみに方豪は、小さい頃から俺が実の親父よりなついてた叔父と同年代で面差しもどこか通うところがあって昔から俺のアイドル。
女優ならばエロい役を演じるときの李美淑이미숙がいいな。・・って古いよな。もちろん同時代ではなく後追いで発見している。実は韓国映画は昔のの方が好き。
俺が日本人の普通の子たち相手にくにネタを話すときは小ネタばっかりで・・
たとえば、在日の青年はちょっと政治的な発言したり活動したりすると3人の尾行がつく。って話も叔父から仕入れた。叔父はちょうど光州事件のあった頃、日本の国立大学で大学生をやっていて同じ大学の在日の学生がスパイ容疑をかけられ韓国当局に拘留されて酷い拷問を受けている事件の解放活動に加わっていた。
叔父が言うには、そんなふうに活動する在日の学生には一人につき3人の尾行がついていたと。一人は日本の公安警察、一人は韓国の諜報機関(悪名高きKCIA?)、いま一人はもちろん朝鮮の諜報機関。うーん、しかしそれって効率的なのか? でも実際にそれで引っ張られる学生もいたらしいし彼らの情報収集力はそれはそれは半端なく優れたものであったらしい。
叔父の世代だと朴正煕박정희だの全斗煥전두환だの口にするだに忌まわしくそれが今となってはパクの娘がなんでこんなにも票を集めてるんだ?といまどきの本国人を信じられないという口勿だがかつて学生も知識人も軒並み左翼であった時代に北朝鮮が地上の楽園とか崇め奉られ若い世代がどんどん帰国していったその後の裏切られ感はハンパなかろう。
総てこの叔父に教えてもらったことだが俺の祖の地にあたる済州島の事件にしても光州事件にしても最近知った神戸朝鮮人学校事件にしても理不尽で悲惨な話はいっぱいある。語られるべき話はいっぱいあって、もちろん悲惨ばかりではなく美しい話、愛すべき話、面白おかしい話、エロい話もグロい話も、祖国はゆたかな物語の群れに満たされている。深いふかい物語の霊のようなものが半島のそこかしこに宝石の鉱脈のように埋もれ隠されている。しかしそれを語るのは俺の任にあまる。それらを語るには自分はまだちっぽけすぎる。
だからとりあえず短い言葉を綴ることから始める。
それも日本語で。
某氏の映画タイトルではないが「あんにょんキムチ」な自分を自分のまま語るところから始めるか・・といったところか。
そうそうそれで思い出したけど俺は松江哲明サン(知り合いではないが)と違ってキムチは大好きだ。母が(「オモニが」とかは恥ずかしくて言えない。「ハルモニ」は言うかも?)漬けたキムチを美味しく毎食のように食べて大きくなったがこの母が漬けたキムチが、日本を訪ねてきた親戚一同の女性陣に物議を醸したことがある。もちろん市販の「キムチの素」なんか一切使っていない、近所の日本人主婦たちを自宅に招んで韓国料理教室まで開いている母が万全を期して渾身で漬け込んだ自慢のキムチである。親戚のなかでも歳の若い女性陣にはおおむね好評だったが年嵩の女性陣は「これは김치ではない기무치だ」と言い張るのだ。ローマ字で綴ると「kimchiではなくkimuchiだ」つまり本国の本物の김치ではなく日本式の偽物のキムチだというわけ。母にしてみれば内心煮えくり返るような思いであったに相違ないがそこは儒教式長幼の序が支配する席で無言のまま頭を下げるしかなかった。俺の舌には韓国で食べるキムチと母が漬けるキムチのどこが違ってんだかわからないけどな。単に俺の舌音痴のせいかもしれないが、また単に親戚のハルモニらのイビリ(順位を思い知らせるための上位から下位への牝鶏のツツキ・・ってホントにそんなのがあるのかどうか知らないが)という可能性もある。
   *
ついこないだのゴールデンウィーク。初めて一人で祖国を訪ねた。一人で行くのも初めてだったしいつも済州島の親戚の家に直行するので実はソウルに行くのも初めてだった。連休中の友達との約束が反故になって唐突に思いつき折良く比較的安めの(といっても連休中だから割高ではあったろうけど)航空チケットも手に入った。今回はソウルの空気だけ吸って来ようと思った。
旅先ではいつもそうするようにあてずっぽに街を歩きまわり街の中心部を流れる小さな川のそばが気持ちよさそうだったのでずーっと辿ってキリのいいとこまで行きまた対岸をずーっと戻ってきた。この川端は地元の人たちにとっても憩いの場になっているらしく何人かで滞留している人たちがいたり一人でぼうっと座っている人がいたり俺みたいにぶらぶら散歩している人がいたり川岸の壁面に絵や書が描いてあったりオブジェがあったりところどころでアートや写真の展覧会をやってたり・・。あとで地図をみて清渓川というのだと知った。
この街には街の真ん中に清い渓があるわけだ。
いつかのような渓谷ではないからハヤブサは飛んでなかったけど名前を知らない小鳥たちがせせらぎをちょんちょん渡っていたな・・。
(もちろん「ちょんちょん」がオチではない。俺の上の世代だとゾゾっとするだろか?俺はなにも・・)

2019年6月3日月曜日

いつかまた移動をはじめる日まで




…ではないものを
のみこむ

…ではないものをのみこんだやさきに
ささと
ささや
ささやか
ささくれ


くれだつ
…てのものが
ある

ささやかれ
かれ
かれ なる


の身体
を のみこむ



飲み込んだ瞬間を覚えている。記憶というより記銘というべきか。
それはJLG氏がみずから監督した映画のなかで黒い衣装に身をつつみ
みずうみのそばで如何にも映画的な道化師然として身軽な跳躍をみせていた、
その動きに反応してあてさきのないaimerのゆくえにmisfitな想いがあられもなくみそびれていくのを自覚したみぎりだったのかもしれない。

みずいろ

そのまえに
まずアンバー。
アンバーをダークに溶く
次第にダークに
底辺にはチャコールグレーをすこし毛羽だたせ
黒いシルエットとの境界線はくっきり
うえのほうは光色の黄を刷き
うっすらなでしこ
それから
灰色のまじったみずいろ。
みずいろ
みずいろはだんだん
上方にむかってだんだんインディゴブルーに
深くなる。

そのスキマに
ふいに鏡面が割りこむ。
白く白いハイライトを点々と置いてゆきながら
ゆれるチャコール
ゆれるアンバー
ゆれる黄
ゆれる水色
そしてインディゴ
そのつどあたらしい
波うつ水面
またふいに消え去る。

「うし」というコトバがこないだから肩胛骨の内側あたりに滞留している。
かたく確実な質量をもちおもく輪郭をもってそこに居住しているが
ちっとも不快ではない。
くくくくくく・・・とふくみわらいがもれそうな諧謔とメランコリーを帯びて
「うし」
「うし」
と自ら発音される
「うし」は
いまにも腿の前面あたりに第2の出張所を
ヒップのえくぼのあたりに第3の出張所をつくって
子分たちを送り出しそうな勢いである。
暴力団的に自動的に描かれるポートレートに「うし」という瘤が複数で不法滞在する。
あちこちで勝手に
「うし」
「うし」と
自ら発声する。
いつか移動する日まで
そしてまたふいに現前する
アンバーと黄のひかりとブルーとは
あおじろく放電する一定の厚みをもった狭めの肩と
くろく繊いくるぶしと
スローハンド早撃ちする恐怖のまなざしをそなえて
ひとをその場に凍らせたあげく
まったく不似合いな優しいコトバをくちにする。
目的語をとらない「愛する」
そういえば
フランス語の動詞の変化はまずこれで学ぶのである。
目的語をとらない「愛する」
日本語にはないコトバ
きのうはもっとのんびりしてて
「ひとはひとをいとおしくおもうものである」
という述懐のうらに
きょうは
「だれからものぞまれないひと」
があって
ひとりでにうごきだす。
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2019年6月2日日曜日

マルは大馬鹿だ。

 ひと(他者)に対しては容赦ないくせに自分に対しては最大限の気遣いを要求する。ひとは自分を崇めるべき讃えるべき誰よりも大切に扱うべき。自分はfragileでvulnerableなオルゴールなんだから。マルはいつもマルにかしづく男たちに囲まれてそのなかで女王然として気ままに尊大に振舞っている。
 しかし私は知っている。私はマルよりもその母親と早く知り合っているがマルが毛嫌いし一見正反対に見えるその母親と一点、母娘で非常に似ているところがあってそれは自己評価が極端に低いこと。二人とも「自分が嫌い」なのだ。母親の方は愚痴ばかり言いつつ夫のDV(主に精神的な)から逃れられないでいてむしろその被害者であることに自分の存在意義を見出しているしマルのニンフォマニアだって各方面に迷惑かけ倒し本人も傷つくだけの(蛸が一本いっぽん自分の足を食うに似て・・って自然の蛸はそんなことしないだろうが比喩でよくいわれるように)魂をみずからすこしずつ喰らって喰らって損なっていくような、あの性癖は肉食系と呼ばれる女子のそれとは同一ではない。だって肉食系女子なら自分の食指の動くところ上手に狩をして自分好みの男(とは限らないが)と上手に遊んで上手に捨てて誰にも迷惑かけず自分の旺盛な食欲を首尾良く満たしてしまいだろう。マルはそうではない。マルが連れてる(連れられている?)男はその都度その都度バラバラでマルにはタイプというものがない。つまり来る者来る者拒まず求められたら誰にでも尾いて(ついて)いく。それが何かとトラブルを引き起こし周囲の迷惑の種になる。上手に遊ぶどころか知らん間に他人(ひと)の男を盗る結果になってたりで泥棒猫とか罵られているところに居合わせたことがあるがあれはワザと盗ろうとして盗っているわけではなく(もしそのつもりならもっと巧くやるはずだ)マルの方がうまく(というより拙劣に)遊ばれただけなのだ。いつもはあれだけ強気で辛辣で女王様キャラのくせに(というよりその女王様キャラのままで)男の要求のいうがまま、なすがままになる。マルはそうやって自分を少しずつ削っていく。マルは自分を崇めさせ同時に自分を踏みつけにさせる。東大狙えるほど賢いくせしてその一点についてはマルは大馬鹿だ。
   *
 マルがヴォーカルを務めるバンドのライブを聴きにひとりで出かけた夜。演奏が終わって私の姿を認めたマルは「ハルっ!」(←キナコではないほうの私のニックネームね)と叫ぶやあのまんまるのからだで鞠のようにまっすぐ私めがけて飛んできてドッヂボールのように私の胸にドスンと収まり私をぎゅっと抱きしめた。それから熱いくちづけ・・オイオイ・・私はいいんだけど(いやよくはないけど)マルは女好きではないのではなかった?ひとしきり周りの注目を浴びヒューとか口笛吹かれたり呆れられたり囃し立てられたりしたあと・・私の目を上目づかいに捉え直して「うふふふふふふふふふ・・」と含み笑いするマルの目は化猫みたいにあやしく光っていた。入江たか子かチェシャ猫か狡さと愛らしさと邪(よこしま)と妖しをふくんだ猫目。含み笑いをずっとずっと続けるばかりであとは言葉が出ない。いやたぶん言葉を綴ることのできない状態。ドアへの狭い階段を降りるといつもガンジャのぷんと臭うクラブ。なにをやってんだか知らないがなにかやってることだけは見当ついた。
 ヴォーカルというよりヴォイスパフォーマンス。意味のない、メロディではない12音階に沿わない突飛な音を声帯や口腔や唇やからだのその他の部分を駆使していろいろたてる。背後にテクノっぽいリズムと音楽はあるもののそれに合わせるでもなく完全に外れるわけではなく音は言葉としては分節しないが耳の端々に意味のカケラを落としていくときもありマルが言うには日本の古典とか誰かの詩とかをやってたりすることもあるそうな。いつもあとの3人(ギター・ドラム・シンセ)は入念にリハーサルしているそうだが自分は最後の最後に(女神降臨よろしく)加わるだけでホントの即興性を保つためにいつもその場かぎりでやるのだと言っていた。
  *
 シンセ(というよりパソコンはじめあらゆる電子機器)担当の子がカナダからの留学生で結構なアウトドア派でお気に入りの渓谷があるというので新緑の頃その子とマルと私ともう一人いたっけな?誰だっけ?そうだ在日韓国人の詩人の男の子との4人でハイキングに行ったことがあった。なんでそんなメンバーになったか記憶がない。
「この子は在日韓国人でバイ(セクシャル)」とマルが紹介すると
「なんでそれくっつけて言うかな〜」と忌々しそうにその子。
「ごめん。で、詩人」
と言われると姿勢を正して
「〇〇です。よろしく」と初対面の二人に手を差し出した。
 いまどきその若さで詩人を誇らしく名乗るところに好感が持てた。
「では国籍もセクシャリティもバラバラな4人のアーティスト御一行様ということで・・」と私。
 5月の渓谷は本当に素晴らしくてまぶしくニュアンスある光と風と
山の木々も緑。渓流も緑。この素晴らしい風景は筆で書きつくすことができない。
 カナダ人がなぜ自分はこの渓谷が好きでよく訪れるのか美点を数々挙げたなかに
「僕の好きなfalconも飛んでいるし・・」
「falconてなんだ?」と在日韓国人。
「・・鷹、かな?」と私がフランス語の知識を引っ張ってきて言うと
「鷹はhawkでしょ?ホークスは鷹だもんね」とホークスファン(かどうか知らんけどプロ野球ファンではあるらしい?)韓国人。
 目の高さに渓谷を行き交うその鳥が確かに猛禽類であることを確かめながら私が
「あ、そうか。・・じゃ小型の鷹?」と言うと
マルが「隼(はやぶさ)」と正解を言った。
(・・東大受験生に負けた)。
 あんときは廃線のトンネルの中で4人でやった即興パフォーマンスがいちばんのハイライトだったな。
 トンネルの中だから音響がものすごく響いて快い。
 廃線のレール、大小の礫、石ころ、木ぎれ、金属片、手持ちのあらゆる持ちものを駆使して打ったり叩いたりぶつけたりこすったり思い思いの音をたて、その音を背景に4人のひとの声を重ねる。メロディや歌詞のある音楽ではなくマルがいつもやるような声のパフォーマンス。声量のあるマルに対抗して男3人が負けじと声をたてる。(え?私も男?)
 いい感じになってきたところでマルが私に命令する。
「ハル、踊って」
(そうだった)
(もちろんですとも!)
 私は立ち上がり、即興で舞う。
 そのときの衣装(そんな予定じゃなかったので単なる普段着の白シャツに墨黒のタイパンツ)にあわせて白の紙に薄墨で書を書いていくようなイメージ。
 白い紙が宙を舞う。流れるようにたゆたうように襞をつくりながらしなやかに胡金銓の映画内を吹く風に吹かれるように自由に気ままに・・。紙を追って、たっぷり墨を含んだ筆が舞う。紙と筆は中空を追いつ追われつトンネルの天井を指して光のある入り口を指して走り揮う。中空でなん戟(げき)かずつ切り結び追っては躱し(かわし)追っては躱しをくりかえしたあとついにわずかに筆が紙を捉える。すっとすれちがう。やわらかく接触する。するるるとこすれあう。紙を捉えた筆は巻きつかれながらもこの機をのがさずずんと筆圧を加えトンネルの側壁に紙をつなぎとめる。おしとめる。最初はたっぷりと水を含んだ墨色つづいてランダムにやってくる側、勒、努、趯、策、掠、啄、磔・・墨は伸び、かすれ、筆は割れ、虚空をめがける。テクストはアルチュール・ランボーかロラン・バルト・・かな?(もちろん踊ってる最中は夢中でそんなもん考える暇はないけど)。
 音にあわせ、音にずれ、おくれ、あそび、走り、跳び、あかるい五月の光のなかでそこだけは薄暗くひんやりするトンネルの空気をかきわけて私は踊った。
 やがて。
 ふう〜っとみんなの空気が収まりセッションが終わったあと。
 カナダ人が感に堪えたようにあらためてふうぅーーっと大きな息をついた。
「よかったなあ!・・すごくよかった!」
「こんなことならビデオに撮っとけばよかった・・」
 それを聞いてマルは最後にまた大きな声でカラカラカラ・・と笑った。(マルはたぶんそういう記録なんて信じていない。なにごとも即興が最上。いまが最高。2回目よりも初回だと信じる子だから)。
 あれは・・なんという至福のときだったろう。
 あの刻は もう二度と再現できないな。
 夜まで火を焚いて渓流の音を背に酒盛りしてほたえあった。帰るときはみんな上機嫌でかならずもういちどやろうねと誓い合ったけどその後ふたたびやるチャンスはないまま。



2019年6月1日土曜日

ペコの貌(かお)

顔に怪我したときの補償額は女性と男性で違うと聞いた。
それって差別だよね、と思う一方、それだけ女性では顔が人生を決めてしまう現実があるんだからしょーがないよねとも思う。
なんでわたしはこんなにもじぶんの顔が気になるのだろう?
わたしが女だから?
顔が良いと幸せ。
顔が悪いと不幸せ。
顔が良い人は幼い頃からみんなに可愛がられ恋愛も結婚も就職も社会関係も全部うまくいくし挫折もないから素直におおらかに育って性格も良いでしょ。
顔が悪い人は幼い頃からみんなに邪慳にされ何かと逆境に遭い性格もひねくれて人生ますます悪循環に陥るでしょ。
だからわたしははじめっから人生を諦めてるの。
わたしの顔では一生結婚なんかできない。幸せなんて望めない。
たまたま就職はできたからいまの会社にしがみつくしかない。
よっぽどブスなんだとお思いでしょう?
それどころか。
わたしの顔は怪物だ。
(・・いそいで注釈しておくと顔にアザがあったり傷があったり先天異常があったりする人たちの社会的活動はすごく大切だと思うしがんばってほしいと思う。でもそういう人たちの顔をいろんなメディア通じて見てみてもわたしには「怪物」とは思えない。むしろ綺麗だと思える人もいる。わたしの顔の怪物性はまたちがうカテゴリーなの。活動とかではどうにもならないたぐいの・・。)
(・・じぶんの顔に不満なら整形すればええやんという人もいるけど整形で調整できる程度の方々も羨ましい。目をちょっといじれば鼻をちょっといじれば理想の顔になれるんでしょ? 一重まぶたがずーっとコンプレックスだった中学生も高校か大学生になってプチ整形でもすればすぐなおるんだからこれほど簡単なことないじゃない?わたしの顔はひとつ一つのパーツがどうとかではなくむしろパーツの一つひとつはたとえば二重まぶたでそれなりに許せてもそれを収めるべき全体がもうダメだからダメなの。もう整形のしようがないの。)
わたしの顔の怪物はね。
たとえばゴヤのサトゥルヌスとかフランシス・ベーコンとかのたぐいね。
わたしの顔はほっとくとどんどん端へ端へとながれていく。どんどん輪郭が崩れる。際限なく広がっていってカオスになる。ニンゲンを逸脱してニンゲンの顔でなくなる。幽霊になりそして怪物の顔になる。
とくに夜。一人で部屋にいると自分の顔が端っこから融けてながれて中心が歪んで捩れてベーコンみたいな顔になっていくのがまざまざとわかる。
だから毎朝起きるとまずじぶんの両頰をぽんぽんと叩いて確認する。まだ固形物かしらん?融け落ちてデブリになってないかしらん?
おそるおそる鏡を見てニンゲンの顔に見えるか確認する。
ああよかった。まだニンゲンだ。
でも醜い。
ああ醜い。
醜いけどとりあえずニンゲンだ。
で、ホッとする。
でも鏡を見るのはほんのチラッと。あまりに醜くて正視できないから。社会人として化粧はしないといけないので最低限の化粧はするけど鏡を見ずにする。じぶんの顔を確認できない状態で化粧するわけだからひどい出来だろうとは思うけどそれしかしようがない。
なんでわたしはこれほど顔に取り憑かれているのだろう?
こんな変な妄執に取り憑かれていることを多くのわたしの知人友人らは知らない。そんなこと会社で口に出したりしないから普通の人と思われている。
思いあまって訪ねたセラピストは「醜貌恐怖」という言葉を口にした。女性のセラピストだったけどいろいろしゃべっているうちになぜだか突然怒り出した。確かにその女(ひと)は美人とは言い難いお顔の方だったけどべつにごくごくふつうの顔した女性だ。正確な文言は覚えてないけどこんな感じのことを言った。貴女は(わたしのことね)私(セラピストさん)に比べるとずっとずっと美人だ。私なんて外見に関してはコンプレックスのかたまりで不細工のせいで昔から随分損をしてきた。貴女なんかそんな風に損したことなんてないでしょ?心当たりある?ないでしょ?そんな貴女が自分を醜いと言い張るのはおかしい。決定的におかしい。おかしいだけではない、ホントに不細工な私みたいな女をないがしろにしている。美人なくせに自分は醜いのだと言い張る人たちはそうすることで自分よりも醜い幾多の女をないがしろにしたいだけなのだ。ただただ人を踏みつけにして自己防衛したいだけなのだ・・(みたいなことを怒りながら言ってた。)
ちょと呆気にとられてしまって・・
まーったく心当たりないんで・・
ええと、不美人だと心も歪むという典型の方ではありません?
わたし、わたしは自分よりもご面相の悪い人をないがしろにするつもりなどありません!
というか、そういうことが問題ではないの。じぶんの顔が怪物であることを問題にしているのであってほかの人のことなどなーんも考えていないの。比較の問題ではないの。なんでそれをわかってくれないのか・・。
べつの友達はこういう実験をしてくれた。女性の肖像写真を10枚用意する。ある一枚とべつの一枚を比べる。美人は右へ不美人は左へ。この検証を繰り返して右から左へと美人から不美人の順に並べる。で、あんたの顔の写真を出してごらん。(携帯で簡単に撮れるし。)あんたはこの人と比べて美人?不美人?いちばん右のいちばん美人よりは確かに劣るわよね。でもいちばん左のいちばん不美人よりは明らかにマシよ。自分の顔がこの美人の10段階のどの辺に入るか検証してごらん。で、一人ではできないわたしの代わりに検証してくれて、わたしの顔は真ん中より少し右寄り、つまり相対的に美人側に入ると判明した。ホラあんた美人じゃん。何が不満なん?なんでそんなにじぶんの顔が醜いなんて思い込んでるの?
そう言われるとなにも言い返せないんだけど・・。
でもやっぱり「怪物」という概念はまたちがうと思うんだけど・・。
だって客観的美人でも怪物顔っているでしょ?
おお!恐ろしい話を始めた。
たとえば(めちゃ古い例だけど)原節子ってとんでもなく美人だけど同時に怪物ではない?
おやおや貴女は自分と原節子を同列にお扱いになる?
いえいえいえいえいえいえ・・とーんでもない。いや、ただ、世間で言うブスとか不美人とかとわたしの怪物はちがうと言いたいだけで・・。
そんなにも自分がとくべつだと言いたいだけ?
じぶんのエキセントリックを売りにしたいだけ?
・・そうなるともうあとは責められるだけ。
・・何にも言い返せないけど悔しさがこみあげる。
けっきょくわたしの悩みは誰にもわかってもらえなくてそれっきりになる。
優しい人はむしろそのことに触れない。
わたしの醜貌恐怖を知ってる人はわたしの周りに数人いるけどべつにもう特にそのことを話題にすることはない。
めんどくさいから触れないだけか思いやりで触れないのかどちらかわかんないけど・・。まー後者と信じておこう。
わたしは毎日機嫌よく会社に出勤し12年間クビににもならず目立たないふつうのOLをこなし休みの日は大好きなアイドルのコンサートやイベントなどを見に行き休暇が取れればアイドル追っかけて日本各地・香港台湾北京まで行き少し長めの休みが取れたらニューヨークかロンドンに飛んで本場のミュージカルを見る。
優雅でしょ?自宅通勤でそれなりの会社のそれなりのOLとして鬱陶しい人間関係や理不尽な扱いに耐えつつ働き続けてきたからこそできることなんだけど。
そんな生活に満足している。
貯金なんて一切ないし一人暮らしの女性の貧困にいつ陥るやもしれないあやうさは常に常にわたしを脅かすけど・・
アイドルだけを心のたよりとしていっぱいいっぱいファンタジーに耽り現実の男の人とおつきあいなんてしないしお見合い話も受けない。
だってみんなわたしの本当の姿が見えていない。
いや見えていてわたしに本当のことを言わない。
わたしが
怪物だってことを。

2019年5月31日金曜日

恋するExOL

だれがキナコだって?(笑)
笑っちゃう。
それに私、あんなこと言わない。
「文化度の高いセックスは生殖とは無縁」なんて!当たり前っちゃ当たり前だし逆さ読みしたらどこかの国のどこかの頭の悪い超右翼女性議員と似たり寄ったりの発想になっちゃうやん?
「サド先生をお読みにならなくっちゃ」なんて論外!そんな変な口調、ぜんぶマサユキの創作だからね!
私のことあんまり知らないくせにイメージだけで語るんだから・・(笑)。
身長180以上のMtFレズビアンてのはホントだけどそんなひと世の中にゴマンといるでしょ。(まぁ50,000人はいないかもしれない、日本には。でも世界を見ればどうでしょ?)
身長は悩みでもあるしそうでもない。MtFで身長の高いのが悩みというとそのように勘ぐられるかもしれないけど(そういうひともいるかもしれないけど)FになったんだからFらしく可愛らしい身長の低い女の子に憧れるなんて気持ちは皆無。
ただ背が高いことは(特にMだったときには)なにかと羨ましがられるけどそんなにいいことばっかりでもないぞと思う。あらゆる(日本の)扉は頭を低くしてくぐるように入らないといけないし、それでもよく頭をぶつけるし、電車に乗ると吊り輪がざざーッと顔や上半身にぶつかってきて鬱陶しいことこのうえないし、カプセルホテルではカプセルに身が収まらないし、椅子やテーブルや台所の流しなど日本人の(特に女性の)体格に合わせて作られた家具什器はのこらず使いにくいし。小さい頃から続けてきたフィギュアスケートを思春期に身長がぐんぐん伸び始めて諦めなければならなかったのはいちばんショックだったけど、まあそのあとダンスに転向したしけっきょくはFになるという選択をしたんだからそれはそれでよしとしよう。ダンスはバレエの素養などを必要としないたぐいのコンテンポラリーダンスで身長(というかこのちょっと特殊な体型)を生かせるし、フィギュアやってた頃の癖は微妙に生かせるところも邪魔になるところもある。
で「得恋したばかり」ってお願いだからそれだけは言わないでほしいんだけど・・(涙)
だってまだ片想いなんだもん。たぶん両想いにはなりそうにない片恋なんだもん。相手はどうやらヘテロ。私によく懐いてくれてるけどきっとそれだけだし・・。それにこの夏が終わったらたぶんもう逢えないし・・。
でもなんだかウキウキふわふわしていることだけは確かなの。片想いでもなんでもやっぱり恋は愉しいの!
こんなにわかりやすいヒトメボレはないんじゃないと自分で自分を揶揄したくらいカンペキなcoup de foudre。あの子が先生に紹介されて「〇〇でーす!」と名乗ってぴょこんとお辞儀をしたときにその弾けるような笑顔とパンチのある短躯にひと目で魅入られた。一緒に踊るうちにそのしなやかながら力強さのある活き活き弾むからだの動きに魅せられた。おしゃべりすると(いまどきの女子高生の標準かもしれないが)ちょっとお馬鹿で物知らずでそれでいて好奇心旺盛でどこまでも無邪気なところに見惚れた。初対面の私の髪に遠慮なく触れ引っ張りまでしてウィッグじゃないことを確かめてから「うわぁ・・綺麗な銀色ですねえ!これってなにかイメージしてます?『エリザベート』のときのタカラヅカの〇〇さんみたいですねぇ」などと言う。うれしくてニタニタ笑っているとこんどは私の腕時計を見つけシャツのカフスをめくりまでして遠慮なくさわりながら「へ〜いまどき腕時計してるなんてめずらしい。カッコいいですね〜!これってどこかのブランドの高〜い時計なんですかぁ?」などと聞く。おもわず調子に乗って腕からはずしてさわらせてあげる。挙句の果てには「〇〇さん(私の本名)笑うと目尻が垂れてすっごく優しい目になるのねぇ!その笑顔がとってもステキ!」(いや客観的に見れば元おっさんが女子高生になつかれてニヤけてるだけなんですけど・・)。「それになんだかすごくノーブルな感じ!どこか外国の王子さまみた〜い!」「王子さまって・・私オンナなんですけど」「ええっ!ああっそうでしたよね?」ちょっと大袈裟を装った微妙な反応。私の低い声や大きな手から元オトコだったのはバレてたのかもしれないし或いはあくまでタカラヅカの男役みたいな女性だと思ってたのかもしれないし・・。
・・って私、なに書いてんだ。
はい、のちのちの展開はまたのちのちご報告します。
ってやっぱりぜったい無理なの。その後いろいろおしゃべりしてみてもやっぱりヘテロであることは間違いなさそうだしきっとカレシもいるんだろうし。この子には私みたいなもExオッさんレズビアン(略すとExOL?)よりも同年代の爽やか系もしくはイケメンくんのカレシがふさわしい。顔あわせるたびにかの女のあたらしい表情に気づいて何度も惚れ直しては恋心のつのる私に引き換え、かの女のほうでは私のことを「ちょっと特殊な性別らしいけどまあまカッコよくて気やすくて寛大な先輩」ぐらいにしかみてくれてないのは態度や言葉の端々からわかるし・・。
ああっ!なんてなんてなんてなんてありふれてて陳腐で凡庸で通俗的でダメダメダメなの?
これじゃーまだしも「サド先生を・・」のほうがマシだったかしら?
で、こんな尻切れトンボで終わりなわけ?
だから「煙たがられる」てか?
はいそうでございますぅ〜(笑)
片想い中のキナコはこれが絶望的な恋であるとわかっていても舞いあがって舞いあがってしょうがないのでございますぅ〜!(笑)