2019年11月15日金曜日

ヴェルナー・ヘルツォーク氏のアンギラス

先のエントリー「瀧のように落ちる」という詩はtarahineが最初の入院中にみた夢のひとつをモチーフにしたもの。ヴェルナー・ヘルツォークもクラウス・キンスキーもアンギラス(怪獣)も、当時の主治医(執刀医)のイメージ。ははっ(笑)。いや、目はギョロ目だけど白髪長身の素敵な紳士でしたが。(ただやっぱりひと昔前の世代にあたる医者の固定概念があってtarahineを苛つかせるところはあった。再建を「美容の問題」と言われたりね。)
夢のなかでおちのびていく村は、それ以前に旅行した南フランスの片田舎の名もなき村を反映している。ちいさな村でありながら、中世に成立したヨーロッパの町のあらゆる相貌を備えていて、町の中にあらゆる時代が重層し、そこで丁寧に暮らしている人びとのありようが心に残った。広場の中心に立ってたのはもちろんアンギラスなどではなく、何かの石像だったとおもうのだけど・・・なんだったかは思い出せない。
こんなかんじで、旅の思い出も、手術のような激烈な(致命的な)思い出も、映画の記憶も、互いに思いがけない繋がりや重なりを形成しつつ、しずかに積み重なって、やわらかな層をなして、具体的な記憶の細部を喪いながら、なんらかのイマージュをtarahineのなかに刻印していくのである。

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