2019年11月25日月曜日

覚悟しといてな

病気譚というのは「なんだ大したことないやん」と言われるとちょっとムカつく。それなりの重病と思われて「すごく大変なのね〜」といちいち親身になって聞いてくれると嬉しい。だけどそのまま悪化したり死んでしまったりするのは絶対嫌で、結果「だけど克服できてすごかったね」と言われると鼻が高い。・・という我儘なもので、そういうトラップに嵌らないように書きたいものだけど、どうしても現時点でtarahineが生きている以上、手柄話になってしまうな・・。
癌譚も世の中に溢れているけど、ついこないだテレビでやってたのは、告知からしばらくの魔の鬱期みたいな話。癌の告知を受けた人は誰でもまずどどーんと落ち込み、その事実を受け容れるのに時間がかかる。そのあいだ少なからぬ人たちが鬱になる(軽い鬱であれ本格的なものであれ)という話。まあそうでしょう。つい最近もtarahineの友人の親御さんが癌の告知を受けたんだけど、側(はた)から見ればごくごく軽いもので生存率も高いし、ましてや手術の必要もないかもというぐらいで、聞いたtarahineもその親御さんの子であるtarahineの友人も「そんなん平気やん」とのんびりしたものだったけど、告知された当人の取り乱しようといったら半端なかったらしい。「癌」という言葉の響きがまだやっぱり「死病」なのね。
ついこないだテレビでやってたのはもっと重大なケースで、それはどどーんと落ち込んで当然だと思われたけど、tarahineに限って言えば、癌を初発した当時の普段の精神状態があまり良好とは言えず、少しずつ回復傾向にあったとは言え、その前の「軽い鬱」期の名残をまだ引きずっていたゆえに、癌に気づいたことで逆に「目が覚めた」。こんなことやってる(鬱々と毎日を過ごしている)場合ちゃうで!と思ったのでした。もちろんその当時はマンモグラフィ検診なんてものはなく(あったけど有料で高価で今のように何も自覚症状なくても全員受けに行くべしみたいなキャンペーンもなかったし)、いつの頃からか右胸の乳首近くにちょっと引き攣(つ)れるような感覚(べつに痛いわけではなく皮膚がちょっとつれる感じがするだけ)があり、横になって触ってみるとその乳首の側(そば)の奥のほうに何か触れるものがある。(いわゆる「しこり」というやつだけどそれが何者か自分にできてみて初めて知った)。あれ?これっていわゆる癌ってやつ?とちゃんと気づいたのがそれこそ3か月〜半年ぐらい(正確に覚えてない)も経過したあとで(ずいぶん遅かったんです。つまり「早期発見」の原則には全く反してた。)その日の情景はよく覚えている。夜そこに触れつつやっぱ気になるな〜と思って寝て朝目が覚めてから再びその部分に触れながら「あれ?」と初めて思いが至り、そうだ確かめなきゃと思いついて、起きて洗面所の鏡の前に立ち「エイヤっ」っと声あげながら弾みつけてバンザイした。すると見事に右の乳首の側(そば)の皮膚が引き攣れ、その辺りに触れてみて奥に何者か悪いものが隠されているらしいことがはっきりわかった。・・「うっわー」・・絶句。
そしてちょっと笑ったかな。何よこれ?次の瞬間、tarahineは、なんでこんな運命がわたしに降りかかるのよ?と思い、自分が死ぬのかと思い、声あげて泣きたい気分だったけど、むしろ「あかん、こんなことしてる場合やない。一刻も早く動かねば・・」と目を覚まされた感じの方が大きかったな。鬱々と(つまりはなんもせんと引きこもりがちに)日々を暮らしている暇はないぜって。
その場で鏡みながら鏡の中のもうひとりの自分に「すぐ病院行こ」と語りかけ、以前内分泌系の病気でお世話になったことのある総合病院の診察券を用意する。ネットでその病院のウェブページ見て関連する科のいちばん偉いさんが外来初診に出る曜日をチェックする・・と。
で、病院行って診察受け、後日の一連の検査手順をまず確かめて日時を決める。触診の時点でもう医師には経験値あってほぼわかったらしくハッキリとは言わないもののギョロっと大きな眼でtarahineを見据えながら「覚悟しといてな」と正確にその文言を言い渡した。(「癌」とか「腫瘍」とか「悪性新生物」とかいう言葉をハッキリ言わないのは現行の倫理には反しているのか?)。で、検査ももともと予約が詰まってたところに「知らん顔して入れとくか?」とか看護師さんに冗談のように言いながら割り込み予約で早め早めに設定してくれたらしい。その雰囲気からしてもうtarahineも覚悟を決めていた次第。

2019年11月22日金曜日

トラブルトラヴェル

いつもすでに出発している此処をはなれて目的地はさだかではなく路上にあり迂回し迂路うろしながら通過列車やりすごシナハンおはなしをかたりはじめるには場所を横断しなければならない行かなければならない きつく締めてそこに県境のひろい河がありわたしたちは横切らなければならない よく似たコースを辿っても経験上浅瀬をしっている案内人がいていつものルートではない そのつどあたらしくルーチンワークのように退屈な渡りの儀式 一級河川たて札のむこう岸よその県には県の名を付したぴかぴかの建物がありナントカミュージアムとなづけられて建設中事業主体どこどこ責任者だれそれなに県ぺこ市ぽこ町岐阜蝶カップ事業費数億円開館予定2001年春小春日和見お菓子の看板アイドルが微笑みよく似た計画はあっても其たてものはふるくから其処にある旧聖なんたら会不可能なミッション病院にもとづくものであるからこそユニックなのだと元型がなければ詰まらない時代なのだと謂い だからかんぜんには壊さないむてきの煉瓦の剥がれ落ちる頑強な密閉度の高い風のとおりぬける 霊のはしりぬける魂の滞留する脱け道の分岐する無数の水路が浸みこんでいくその屋に今夜の宿を据えてあとさきは考えぬ たまたま夕食をともにしてどこから来たのかとスタッフに尋ねると吉田とな吉田でわかんない?そんな地名が南紀にあったのかきっとあったのだろうなんせ熊野だもん海のそばだか山の奥だかわかりゃしない下僕を寄越して電報を打たせる気が利かない電話がつうじないからこそ情報記録ぽんぽこりん装置送信そうしているのにチップもないくせにエラソーに水泳ぱんついっちょでどうして小銭が所有できよう一寸貸してよ厭よたとえ1セントだっていやだわいいじゃないかダーリンafter allたった50セントのことだろスマイルが呼んでんよ 待ってんよ出発してんだからたどりつかないといかんのさっして頂戴この旅を やめるわけにはいかないのぞくわけにはいかないかたりはじめる以前に帰途についてはならぬ沙汰やみにどこへかわからぬやみのよむにた闇の読むに似た病みのやまいや舞いしかど あらゆるコードが連関をもって意味のファントム肉体を構成してしまう段階を経ていちど試験管撹拌し混乱イニング裏からふたたび整列しわたしとまったくおなじ遺伝子をもつクローンが(此処にいる)わたしより少し遅れて彼の地で成長していることを知り対手にはひそかにしておもむくことにする ものかげよりガラスごしにうかがえば疾っくに細胞ではないかのじょは英語をあやつり(そりゃそーだ)わたしよりいくらか年下で(それもそーだ)なにかをコーディネートしがちなおふぃすをけんめいにやっているらしい苦手なのにな渉外障碍ひとづきあいは遺伝子に記載されていないのか いやかのじょもほんらいみにあわぬことをけんめいにやっているのだよ賢明にもよなよなよなよ仕事それが目的ではない わたしとかのじょのほかにもうひとり いるはずなのだ いるはずのない このよのものではない 精霊が ひとり そのこどもに遭わなければ 旅は終えられない ひとつのまるはない 一卵性双生児とてそれほど似ているものではないのだから こどもが どちらに似ているのかは本来どうでもいいことなのだが どーでもいいよにみえてじつは どーでもいくない むずかしいむずかる幼児コロコロかーとに載せてひいてやる ひいてもらう ひいてもらうのかひいてやるのかたぶんふたりのどちらが表になるのか裏になるのか双方髪が漆黒ベタ墨色だから並んで立っていると折り重なってひとりにみえる桎梏なさげにうっちゃりノンシャランに擦れ違いざまつぶやくHi!にHow are you doing?をつけくわえ いいからちったぁこんじょすえてけつあげろうごきはじめろ お尻かっちんリセットしてもいちどスタート スロウから徐々に加速せよ てんすうは勘定すなよ特質点のみに集中せよ 持ち駒に ならないカードはいくつある?
再見をきめる ために        離陸せよ
いまは    時の渦の ただなかにある

2019年11月18日月曜日

ちびこちびこ

とんとん一段降りるごとに肩叩かれる。死神に
とんとんとん踊り場をぐるっとまわれば殴られる。待ちかまえていた悪意に
とんとんとんとん急いで降りると足掬(すく)われる。悪戯小鬼に
とんとんとんとんとん
落ちれば5秒とかからない。
落ちるかもしれない と
落ちるに決まってる と
落ちることを知っている と
ああやはり 落ちることはわかっていた と
落下の蓋然性をめぐって
めぐりめぐるうち 知っていることを知らぬふりして
背後からつけてきている死神と
壁に塗りこめられた悪意と
段差に仕込まれている小鬼と
それでも我慢してつきあっていこうとするのは

ぶわぁぁぁっと黄色い土埃の舞い上がる分厚い あなたの匂いのカーテンの
襞につつまれ
心地良く血しぶきのスローモーションに酔い痴れて
ここがここ
ここしかないここ
いまがいま
いましかないいま
を確かめるためと 嘯(うそぶ)きながら
ときどきは不平を洩らしたくもなる。

あたまを撫でてくれ

しつこくしつこく要求したくもなる。
たぶんこの詰問口調があなたをうんざりさせるだろうと
なぜ撫でてくれないのか
しか囁くことのできないわたしを
それでも我慢して やしなっていこうとするのは

2019年11月15日金曜日

ヴェルナー・ヘルツォーク氏のアンギラス

先のエントリー「瀧のように落ちる」という詩はtarahineが最初の入院中にみた夢のひとつをモチーフにしたもの。ヴェルナー・ヘルツォークもクラウス・キンスキーもアンギラス(怪獣)も、当時の主治医(執刀医)のイメージ。ははっ(笑)。いや、目はギョロ目だけど白髪長身の素敵な紳士でしたが。(ただやっぱりひと昔前の世代にあたる医者の固定概念があってtarahineを苛つかせるところはあった。再建を「美容の問題」と言われたりね。)
夢のなかでおちのびていく村は、それ以前に旅行した南フランスの片田舎の名もなき村を反映している。ちいさな村でありながら、中世に成立したヨーロッパの町のあらゆる相貌を備えていて、町の中にあらゆる時代が重層し、そこで丁寧に暮らしている人びとのありようが心に残った。広場の中心に立ってたのはもちろんアンギラスなどではなく、何かの石像だったとおもうのだけど・・・なんだったかは思い出せない。
こんなかんじで、旅の思い出も、手術のような激烈な(致命的な)思い出も、映画の記憶も、互いに思いがけない繋がりや重なりを形成しつつ、しずかに積み重なって、やわらかな層をなして、具体的な記憶の細部を喪いながら、なんらかのイマージュをtarahineのなかに刻印していくのである。

2019年11月14日木曜日

瀧のように落ちる

夜をついで
夜をぬって
夜をぬけて
逃げ落ちていく
無名の黒いタクシーに乗って 無貌の運転手の無言に身をゆだね

ふたり 息をつめて
それぞれの ふところにひみつを いだき
こころもとなく たがいの ひみつを まさぐりあって
なぜ わりなく ふりかえることなく
みつめあうことなく
それぞれの 虚空を 瞠り(みはり)

ネオンの街から くらい街灯のともる細い道にはいり
くねくね 坂をのぼったり おりたり
道沿いに 無音の木の家の 無関心な視線を意識し おびえながら
いくつもの 古い街街をついで にげのびていく

中世の街の広場まで来たところで 水を汲みにいった運転手におきざりにされ
鉄の車体に夜の冷気からさえぎられ護られ ふとあいまの時刻をかぞえながら
静寂(しじま)にくりかえされるエンジン音に耳をすませる

広場の中心に据えられた インスタレーション
「ヴェルナー・ヘルツォーク氏のアンギラス」
怪獣の着ぐるみから すがたをのぞかせる俳優の顔かたち からだつきから それが
クラウス・キンスキー氏演じるものであることが知れる
昼間はここで 生徒らが弁当をひろげ
おのおの 制作に 精を出すのであろう
白い布のしたに それぞれのポーズを刻印して

ダストシュートをつかって一気に堕ちれば
敵をあざむくことができようと
先師 ともども 説得しようとするのだが
かのじょが 肯んじない
怖いから というより 死ぬかもしれない その蓋然性のゆえに
ねむりにおちたまま その夢のままに めざめることがない なんていや
と 彼女は ことばは合理的に 態度は おさなごのように
頑なに その術を採るのを いやがるのである
仕方がない。 いいでしょう
そのまま 車で降りましょう 立体駐車場の外郭をつたって
下の スクランブル交差点まで おりれば
はるか 西に みわたせるでしょう 入り陽が
そこで 待ち構えて いましょう 味方が

あなたがたの味方が 敵が
いつのまに できたのか
ふたり あやうさに ためいきして
てわたされた 武器をためつすがめつ 一眼のキャメラである
これでshoot せよというのだ
操作すら知らぬのに

てきせつな言葉が捜せなくなったのなら さっさとそこで全面降伏すべきなのだ
わかっていながら だれも口にしない
わずかに 未来に のぞみをつなぎ 破滅のときを 一縷あと一縷と わずかずつ先延ばしにしていく

そこをなんとか きりぬけ
ふたたび 黒いタクシーと落ち合って
夜を 徹して おちのびていく

西へ
北へ
また西へ
西へ
赤黒い 火山の火が ともる地へ
灰色の地を割いて 白い沫をたてながら 巨大な瀑布が おちる地へ
瀧の ながれおちる 表面の透明を ゆっくり斜め上から下へとクレーンにのって移動するキャメラに捉え
せめかかる 光の弾々に
ふたり ふたたび せつなさに
身をよせあう

瀧のように落ちかかる彼女の 肩

2019年11月10日日曜日

fragments

わたしたちは厳密な全体ではない

かたまりかけた豆腐のひとすくいを ふわっとテーブルのうえに盛りつけたように
部分部分がゆるやかにあわさって ようようひとつの全体として機能してはいるが
あちこちの部品やつなぎめが ほろほろ綻びかけたころあいをみはからって
遊離剤をくわえてばらばらにし
つながりをかるくたもちながらも
それぞれのパーツが自由に漿水のなかを ぷかぷかうかぶ諸島連合にしたところで
わるくなったところを取り除いて あたらしいものを補ったり
つなぎめを補強したり
部分部分を刷毛できれいにおそうじして 生気を注射したり
そのように全体をリフレッシュしてから
ふたたび凝固剤をくわえてかるくかため
うまくつながらないピースは 鋏で切ったり捨てたり
また新たな白紙のピースを補ったり
接着剤で接合したり
そうしてふたたび ひとつのものとして
ゆるくあわさった全体として
機能するなにものか にする。

そんなふうなものとして わたしたちは生きていける。

取り除かれた部分への郷愁もなく惜別もなく
あたらしいものへの感慨もなく歓迎もなく
ジグソーパズルほどにも 厳密でなく
粗忽な鋏で エイヤッと ピース切るええかげんさほどが
ゆるやかに たえず揺れうごいている やわらかさをたもつにふさわしい。

夜中
分解され排泄される部分部分が 大量の細かく薄いかけらになって
ところどころきらきら 記憶の反射光を呼び覚ましながら
さらさらと排気孔へと 流れ落ちてゆくのが聴こえる。
朝方
あたらしく挿入された部分部分が 真白い無関心の顔して
それぞれの場所に ぐつ悪げにおさまり
だんだん馴れて環境に応じて
赤く青くとりどりに だんだらに染まっていくのが 見わたせる。
夜明け
一旋ふと吹く感情のつむじ風に 呼吸器が一寸ふたがれ
ちいさな咳をして ふたたび常のように流れはじめる
血流の音に
みじかい永遠の
そのまた一瞬一瞬を微分した
ごくごく微細な断面のいたみを 思いやる。
それは
なんら 意味ある図形を 描いていない
にもかかわらず/だからこそ
如何ようにも 読みくだせる
抽象的なfigureである。
純にsignifiantな
第一の模様

とりわけ明るい眸をもつ解読者が必要だが
解読されると寿命がちぢむとでもいうのだろうか
野蛮人たる魂は
最も単純な構造をもつ 写真機のまなざしさえ 嫌がって拒むのではあるが。

それでもただに捨てられるばかりの断片を サンプルとしてわずかに謂集し
だましだまし撮影した無数の断片図像を 表層像として定着させ
できあがった無数の膜の断片を ひとつながりのなにものかとして再構築し
細長いテープに編集して リールに巻き取っていく。

さてさて お立ち会い!
どのようなおはなしがみえまするか
わたしたちのささやかな60年を わずか60分のフィルムにしたてあげて
何も語るな
何も読み取るな
ただ瞳を 曝してさえいればよろしい
というのは あまりに傲慢な 監督の態度である。

とりわけ暗い心室をもつ鑑定者が必要だが
鑑定されると かぎりある生命が果てしなく延びるとでもいうのだろうか
文明人たる魂は
最も簡単な操作が可能な映写機の介入さえ よろこんで いちいち だらしなく
身をゆだねるのではあるが。

そりゃ 豆腐よりは
暗闇のなかを一閃 はしりぬける光の波動として
histoireに銘記されるほうがかっこいい。
だけど
わたしたちのほとんどは それほど 重要では ない。
豆腐の蓋然性と
光の蓋然性と
誰もがふたつながら 持ちながら
光のほうは 日々無駄に流産し
ながしつづけているケースがほとんどである。
そりゃ かっこよさが
すべてでは ないけどさ。

 (そこに多声コーラスが入って)
 それでも だれしも
 めちゃくちゃに こんぐりがえった ノイズの 糸玉となって
 宇宙の複眼の 多重露光の いくつかのショットぐらいには
 互いに 捉えあって いるのである
 そして かる がるしい 糸玉どうしが
 もっとかるがるしく
 たぶん かっこよくなくてもいい
 それが しあわせ などとつぶやきながら
 もつれあい こすれあっているのであろう
 そりゃ しあわせだって
 すべてでは ないけどさ。

ふと とった 他人(ひと)の手の あたたかさが
ひとにぎりの つかのまの 妄想へとさそう
Tout とうとつに
ばか笑いしたくなるような

2019年11月9日土曜日

ヘリコプター

「手術」そのものは「戦争」「戦闘」のようなイメージで夢に出てくることが多くて、何かの映画であったように、ガラス張りになった高層ビルの高層階にいると、大きな戦闘ヘリコプターが下からゆっくり浮揚して来て外の中空に現れ、ビルの中にいる人(tarahineたち)と目が合うや、バリバリバリ・・と物凄い音を立てて銃撃して来たり・・(当然ガラスは全て破られ壊されこちらの階は火や炎や煙や爆風や爆音で大混乱に陥るのだけどなぜかtarahineはそれを受けながら生きて全体を眺めていたり・・)。
あとこれは全身麻酔で意識がなかったからありえないんだけど、あとから考えると手術の光景を夢で再現していたのかしらというイメージもあって、(まあ普通に考えれば何度も受けた部分麻酔による手術室の記憶とか、テレビや映画の手術シーンのイメージをつなぎ合わせて作ったものなんだろうけど)、やはり大きな戦闘ヘリコプターが隊を連ねて飛んできて、tarahineの大事にしている庭園の上空にやって来る。ちょうど4機のヘリがtarahineの頭上に輪を成して滞空していて、照明光を放ちながら轟々と音を立ててローターを回転させ、下を威嚇している・・。と、やおら爆撃が始まる。真下にいる者たちはそれこそひとたまりもないはずなのに、夢のなかでは別の場所にあった(藤棚みたいなところをステージとして舞台セットのように建っていた)ガラス張りの温室が、パリーンッと乾いた(むしろ玲瓏な)音を立てて、砕け散るのだ。そして一頻り爆撃が終わると4機のヘリコプターは悠々と空を引き上げていく・・。

2019年11月6日水曜日

夢と絵

その当時の tarahineは、感傷的であること陳腐であること他の女と同様であること、をことのほか憎んでいたので、よく話に聞くように「ばいばいわたしのおっぱい」とか呟きながら手術前に切り取る側の乳房とお別れの儀式をするなんてことは、絶対にぜったいにゼッタイにしたくなかった。(こっそりしていたとしても口が裂けても口外したくなかった。)(・・て、したんかーい!ってツッコミはなしね。)
そのかわり、抑圧された感情や心象が無意識にあらわれたものか、よく夢をみたり、絵を描きたくなったりした。絵を描くと、円や渦巻のモチーフがやたら出てきて、それが穏やかでなく荒々しい色彩や筆致で描かれるのが常であったり、夢のなかでは色とりどりのビーズだったりちいさなお菓子だったりとにかく一粒一粒「ちいさき良きもの」をたくさん入れた箱、袋などがあって、中身をざざーっとこぼされたり、溢れ出させたり、覆されたり、とかしてたかなぁ・・。