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2019年12月22日日曜日

患者第一?

ときどき「医者は患者の命(利益)を最優先する(べきだ)」と信じているひとがいてびっくりすることがある。医者は人間の命を救うことを第一の目標/動機に仕事をしていることを信じているし、そうでない医者は医者失格だとでも思っている。
そうじゃないことは実際に医者と接していればすぐわかる。(もちろん辺境の医者や町医者と専門性の高い医者とではそれぞれありようが異なるだろうけど)。医者はそれぞれの専門によって異なるそれぞれのプロフェッショナリズムの内部に第一の動機も目標も、また矜恃も持っている。「患者の命」とか患者の利益とかはそれじたいを目標とするものではなく、医者が医者としての最善を尽くしたあとから結果的についてくるといったところだろう。(たとえば災害や紛争など究極の条件下にあって目の前の命を救わなければといった切迫した場面にあってさえ、そのとき医者の考えることは「自分に何ができるか」であって「どんな手段を使ってでも(極端にいえば自分の命を投げうってでも)この人を救いたい」ではないだろう。)
もちろん医者が医者という職業を志した最初の動機に「人の命を救いたい」「人に奉仕したい」という心があるだろうことは否定しない。あらゆる「奉仕(サーヴィス)」業の根っこにはそれがあるだろうから。しかし、その動機から職業(プロフェッショナル)として「医師」を選択した時点で、そして「医師」として立派に一人立ちしたときから、その人は、ただただ盲目的に人に奉仕するだけの者ではなく、一人のプロになっていますぜ。
そして、そのことはちっとも悪いことではない。オートバイを作るのがものすごく好きなホンダさんという人がいて、そのひとは消費者の存在なんて意に介さず、ひたすら自分の気に入る良いオートバイを作りたいと念じて製作に励む。そのひとが創造力に優れていて、また運が良ければ、これまで世に阿るようにつくられてきた製品とは格段に異なる画期的な製品が生まれるだろう。消費者はそのひとたちのプロとしての仕事から、自分にとって利益になる部分を都合良くもらってくればいいだけの話である。
オートバイづくりとはちがって医者の仕事は患者の身体という場をフィールドにしているし、医療にかぎらずサーヴィス業というのは消費者それぞれについて商品であるサーヴィスの内容が異なって当然でもあるし、医者と患者が少しずつ接触を重ねつつ、それぞれの要求や利害をすりあわせつつ、少しずつ微調整を繰り返しながら、実際の医療サーヴィスは遂行されていくものなんだろう。
大勢の患者が集まる病院では、一人ひとりの患者の利益を最優先することなど不可能だから、それこそ調整が必要で、どこまで自分の都合を押し通すのか、どこまでの不都合を受け容れるのか、わがままと言われるのを恐れずにどんどん要求したほうがいいみたい。単に病院の都合で不都合を強いられているのに、「これは先生(医者)がわたし/あなた(患者)のことを考えてくれてこのようにしてくれているのよ」「わたし/あなた(患者)には理解できないところもあるけどきっとこれが最善の道なのよ」とかわざわざ医者/病院の都合の良いように考えてあげる(たぶん患者の不安をのぞいてあげるための善意でもあるんだろうけど)ひとなどを見ていると、意地悪なわたしは横から口を挟んで「ちがいますよ」と冷たく言ってやりたくなるのだが(笑)、患者の気持ちを考えるとそんなこと言っちゃいけないんでしょね。どうも患者同士のなぐさめあい、周りの近親者が患者をなだめるために口々に言うことなどは、この種の欺瞞に満ちていて気にくわない。
患者と医者と(また病院と)利害がはっきり対立したり思惑がずれたりすることは当然のことなのであって、医者は「わたしはあなた(患者)のことを第一に考えてるんですよ」などと嘘をつくべきではないし、患者の側も「全幅の信頼」なんて医者に押しつけるべきではないだろう。いまだにびっくりするほどナイーブな人がいて、「先生のおっしゃることにまちがいはないから…」「先生がわたしにとって最善の道を勧めてくださるから…」と信じている患者とか、ろくに説明もせず(インフォームドコンセントをなおざりにして)「君は何も心配しなくていいから」「安心してわたしに任せていればいいから」とのたまう“名医”とかがいるらしい。そんな名医に全幅の信頼とやらを預けてそれが裏切られればなにもかもチャラのように言うひともいるが、そもそもそんな“信頼”があるかのように振る舞うほうがまちがっている。必要なコミュニケーションをせず、お互いに勝手な幻想を抱いてそれぞれが自分の都合の良いように考えているだけの信頼なんてもとから信頼じゃないぜ。
あらかじめ「各々の利害は異なる」という互いの了解があってこそ、きちんとコミュニケーションができる。互いの立場や条件、それぞれの意思を確認し、そのうえで、いろんな調整も関係も契約もできていくわけなんだから。そのコミュニケーションのベースになるのが、誠実であるとか、正直であるとか、互いを思いやることができるとか、そういう人間性への信頼ではないのかね。

2019年11月22日金曜日

トラブルトラヴェル

いつもすでに出発している此処をはなれて目的地はさだかではなく路上にあり迂回し迂路うろしながら通過列車やりすごシナハンおはなしをかたりはじめるには場所を横断しなければならない行かなければならない きつく締めてそこに県境のひろい河がありわたしたちは横切らなければならない よく似たコースを辿っても経験上浅瀬をしっている案内人がいていつものルートではない そのつどあたらしくルーチンワークのように退屈な渡りの儀式 一級河川たて札のむこう岸よその県には県の名を付したぴかぴかの建物がありナントカミュージアムとなづけられて建設中事業主体どこどこ責任者だれそれなに県ぺこ市ぽこ町岐阜蝶カップ事業費数億円開館予定2001年春小春日和見お菓子の看板アイドルが微笑みよく似た計画はあっても其たてものはふるくから其処にある旧聖なんたら会不可能なミッション病院にもとづくものであるからこそユニックなのだと元型がなければ詰まらない時代なのだと謂い だからかんぜんには壊さないむてきの煉瓦の剥がれ落ちる頑強な密閉度の高い風のとおりぬける 霊のはしりぬける魂の滞留する脱け道の分岐する無数の水路が浸みこんでいくその屋に今夜の宿を据えてあとさきは考えぬ たまたま夕食をともにしてどこから来たのかとスタッフに尋ねると吉田とな吉田でわかんない?そんな地名が南紀にあったのかきっとあったのだろうなんせ熊野だもん海のそばだか山の奥だかわかりゃしない下僕を寄越して電報を打たせる気が利かない電話がつうじないからこそ情報記録ぽんぽこりん装置送信そうしているのにチップもないくせにエラソーに水泳ぱんついっちょでどうして小銭が所有できよう一寸貸してよ厭よたとえ1セントだっていやだわいいじゃないかダーリンafter allたった50セントのことだろスマイルが呼んでんよ 待ってんよ出発してんだからたどりつかないといかんのさっして頂戴この旅を やめるわけにはいかないのぞくわけにはいかないかたりはじめる以前に帰途についてはならぬ沙汰やみにどこへかわからぬやみのよむにた闇の読むに似た病みのやまいや舞いしかど あらゆるコードが連関をもって意味のファントム肉体を構成してしまう段階を経ていちど試験管撹拌し混乱イニング裏からふたたび整列しわたしとまったくおなじ遺伝子をもつクローンが(此処にいる)わたしより少し遅れて彼の地で成長していることを知り対手にはひそかにしておもむくことにする ものかげよりガラスごしにうかがえば疾っくに細胞ではないかのじょは英語をあやつり(そりゃそーだ)わたしよりいくらか年下で(それもそーだ)なにかをコーディネートしがちなおふぃすをけんめいにやっているらしい苦手なのにな渉外障碍ひとづきあいは遺伝子に記載されていないのか いやかのじょもほんらいみにあわぬことをけんめいにやっているのだよ賢明にもよなよなよなよ仕事それが目的ではない わたしとかのじょのほかにもうひとり いるはずなのだ いるはずのない このよのものではない 精霊が ひとり そのこどもに遭わなければ 旅は終えられない ひとつのまるはない 一卵性双生児とてそれほど似ているものではないのだから こどもが どちらに似ているのかは本来どうでもいいことなのだが どーでもいいよにみえてじつは どーでもいくない むずかしいむずかる幼児コロコロかーとに載せてひいてやる ひいてもらう ひいてもらうのかひいてやるのかたぶんふたりのどちらが表になるのか裏になるのか双方髪が漆黒ベタ墨色だから並んで立っていると折り重なってひとりにみえる桎梏なさげにうっちゃりノンシャランに擦れ違いざまつぶやくHi!にHow are you doing?をつけくわえ いいからちったぁこんじょすえてけつあげろうごきはじめろ お尻かっちんリセットしてもいちどスタート スロウから徐々に加速せよ てんすうは勘定すなよ特質点のみに集中せよ 持ち駒に ならないカードはいくつある?
再見をきめる ために        離陸せよ
いまは    時の渦の ただなかにある

2019年11月15日金曜日

ヴェルナー・ヘルツォーク氏のアンギラス

先のエントリー「瀧のように落ちる」という詩はtarahineが最初の入院中にみた夢のひとつをモチーフにしたもの。ヴェルナー・ヘルツォークもクラウス・キンスキーもアンギラス(怪獣)も、当時の主治医(執刀医)のイメージ。ははっ(笑)。いや、目はギョロ目だけど白髪長身の素敵な紳士でしたが。(ただやっぱりひと昔前の世代にあたる医者の固定概念があってtarahineを苛つかせるところはあった。再建を「美容の問題」と言われたりね。)
夢のなかでおちのびていく村は、それ以前に旅行した南フランスの片田舎の名もなき村を反映している。ちいさな村でありながら、中世に成立したヨーロッパの町のあらゆる相貌を備えていて、町の中にあらゆる時代が重層し、そこで丁寧に暮らしている人びとのありようが心に残った。広場の中心に立ってたのはもちろんアンギラスなどではなく、何かの石像だったとおもうのだけど・・・なんだったかは思い出せない。
こんなかんじで、旅の思い出も、手術のような激烈な(致命的な)思い出も、映画の記憶も、互いに思いがけない繋がりや重なりを形成しつつ、しずかに積み重なって、やわらかな層をなして、具体的な記憶の細部を喪いながら、なんらかのイマージュをtarahineのなかに刻印していくのである。

2019年11月6日水曜日

夢と絵

その当時の tarahineは、感傷的であること陳腐であること他の女と同様であること、をことのほか憎んでいたので、よく話に聞くように「ばいばいわたしのおっぱい」とか呟きながら手術前に切り取る側の乳房とお別れの儀式をするなんてことは、絶対にぜったいにゼッタイにしたくなかった。(こっそりしていたとしても口が裂けても口外したくなかった。)(・・て、したんかーい!ってツッコミはなしね。)
そのかわり、抑圧された感情や心象が無意識にあらわれたものか、よく夢をみたり、絵を描きたくなったりした。絵を描くと、円や渦巻のモチーフがやたら出てきて、それが穏やかでなく荒々しい色彩や筆致で描かれるのが常であったり、夢のなかでは色とりどりのビーズだったりちいさなお菓子だったりとにかく一粒一粒「ちいさき良きもの」をたくさん入れた箱、袋などがあって、中身をざざーっとこぼされたり、溢れ出させたり、覆されたり、とかしてたかなぁ・・。

2019年10月30日水曜日

初発手術

もちろんtarahineが結婚したわけではない。
初めての(初発のときの)手術の印象を書いたらこんなものが書きあがった。
なんだか「結婚」そのものをごくごく普通に陳腐に記述したものに過ぎないものが出来あがってしまって、tarahine自身は唖然とするばかり。で、現実に結婚したものとさえ思われて「おめでとう」とまで言われる始末。
・・しかし、だとすれば「いやでしょうがない」なんて書くか?
それとも、世間のひとびとはやっぱり「いやでしょうがない」と思いながら「カクゴ」の結婚をするんだろうか?

2019年10月8日火曜日

try

現在(といっても今在るかどうかわからないが1997年4月1日小包を出しに行ったときは確かにあった)中央郵便局のあるところは(信頼できるといわれている)歴史教科書等によれば100年前から由緒ある中央郵便局であるということだが私にいまある記憶によれば30年前ここはたしかに1,000年前からここはこうだったとひとびとのいう果物卸売市場があった。ゆっくり移動撮影して7分25秒かかるほどの間口にドリーすべらせ何か寄生植物の蔓を編んだ籠をせなにオレンジ檸檬ライム西洋梨いちご杏さくらんぼアヴォカドまんごー芭蕉いろんなめずらしい果物の山とつみあげられたうえに美味しそうな白熱電球の美人ライト処々ともるひろい市場をあるきまわる。ここ1週間の滞在で見たことのなかったマンダリンがあるのをみつけへたくそな(現地に行ってからおぼえたばかりの)スペイン語で「どこの産か?」と問うと親爺は「中国産だ」という。小粒のふわっとしっかりした粒揃いに有田を見出していたわたしは重ねて「日本産ではないのか?」と問うと親爺は「ああそのとおりだ。中国の(なかの)日本だ」と答えるのでうつむいて言い訳がましく「わたしは日本人だから」と呟き「2kg頂戴」と籠をさしだす。秤に2kgぴったりのみかん籠に入れてもらい財布をさぐってお金を出そうとすると親爺はすでに市場の仲間たちとべつのおしゃべりに夢中になっていて此処1ヵ月まともな肉の配給がないとか今日はいよいよ塊肉が大量に出るらしいとかハムしか出ないのではないかとか豚のたべられないおまえは気の毒だとかハムを少しずつ削って夕食の貧しいおかずにするのはやりきれないとかひんぴんと受け渡されるハムの語感にぶっとい脚の筋肉ぷりぷり私を蹴ろうとして脹れ漲るのを感じ蹄がしゅわっと目の前とおりすぎるのをあやうく躱して私は出しかかっていたニッケル硬貨2枚引っ込め気づかれぬうちにとそそくさその場を離れる。結果的にただで手に入れたみかん背にコリント通り北へ進むと左手に酸性雨なみだたれる建国英雄の銅像といつもつるつるに磨かれている黒い石の碑があってあらかじめセットされたおざなりの花束とロウソクと泣き女(子供つき)が供えられている。ゆるやかに段をのぼり剣呑な石の喉元に籠のみかんをそのままざらんとあけてひとつかに重ねカンマがわりに手をあわせそれから自分のために3個だけ取り戻しいざりさがると2~3日前から耳について離れない声がまた執濃く囃したてるとられたものはとりかえせトランスポートとらまえるトラックにトライ・・・ざぶん!筒状に空洞になった情報端末に視線をくれ病状の宣告はあと2年の猶予をくれてもうこれいじょう睡れないわやわやといそがしくいごきまわるゆめをいちいちキャッチアップすることなどできぬ何いいだすかわからない渡来人たちのほこりに一人ひとりフォローすることなどできぬぼろぼろに穢されたうつろを抱え疲れ果ててヒジャブの少女をかどわかしてくる純情下劣にうちのめされどうにもならないどうやることもできないひとひとひとのみがわりにfuckfuckfuckをかさね無残な不潔な非人道的なここまで堕ちたくないとだれしもなぜおもうのだろう?生きるためにはどうして墜ちずにいなければ或る水準を保ってきしむ板を渡さねばならぬのだろう?ぎしぎし板をわざにゆるがせ錠をやぶるほどの酒かっくらって紫陽花をかかえたjohnnyは「今晩おれの子供が生まれたから」と嘘をのべて死をもてあそぶありふれたあかぬけないあかぎれたあそびにわたしを誘った。しょぼくれはてた贅沢にもゴールデン(すら)アンバーむさぼりそこがだれか高貴なひとの墓であることはまちがいないのに火の玉の人食い鬼のドルイド幽霊の俗説が圧し倒している天罰覿面ばちかぶりに剥き出しに曝されたごつい石をかさねた遺跡で夜明けを迎えて二人だらだらみかんの小袋を吸いながら春分だったらよかったのにねとなまりきった感覚をなぐさめあいつつかつての英語教師にwish you were hereをふくむ絵はがきを出しに中央郵便局へとまたロケバスを駆っていく。

2019年9月22日日曜日

闘病とは言わんぞ

(これ書いたときから13年経ってますが状況あんまり変わってないですかね?)
いまでも普通の(自分や近親者が癌になったことのない)人たちには「癌=死病」というイメージがあるかもしれないし、もちろん今でも治療困難で間近な死が避けられない癌もたくさんあるけど、たとえば映画になった『阿弥陀堂だより』など南木佳士さん(もともとお医者さん)の小説を読んでたりすると、ひと昔前の医者たちの意識、患者やその周囲の人たちの意識はこうだったのねぇ〜という「明治は遠くなりにけり」的な感慨しか思い浮かばん。思いっきりええかげんにいえば「そんなに深刻にならんでもええのに...」という感じ。
もちろんこのかんの医学的治療的環境の変化はすごく大きい。オールマイティな特効薬とか画期的な治療法とかが発明されたわけではないが、癌もエイズも知らん間に患者がなかなか死ななくなったのは、いくつものいくつものいくつもの新薬や治療法が発明・発見されていて、どれもが「決定打」ではないにせよ、取っ替え引っ替え使ってなんとかコントロールしていくうちに、自然の寿命と等しくなるぐらいになっているという算段。
それもあるが、たとえ死が避けられない場合でも、死そのものに対する意識、あるいは死を迎える意識も変わってきたような気がする。死というものはそれほど深刻なものではない、必ずしも悲劇というわけではない、なにか軽快なもの、ポップなもの、場合によっては楽しみに待つべきもの…でさえあるかもしれない。
「生」の側にあくまで固執すること(死すべき患者を生の側に引き戻すこと)が「癌」(病、死)との闘いであり、それに敗北することは絶対的に避けたいことであり、敗北、降伏は圧倒的である・・・とかいうんじゃなく、少なくとも、果敢に闘うばかりが肯定されるべきではなく、苦しんで苦しんで最後まで苦しく生きるよりは、楽に死を迎えるほうがいい場合だってあるじゃないという意識も確かにあって、むしろ肯定的に捉えられていますな。周りが本人に押しつけるのはよくないと思うけど・・ただ現実には(特に日本では?)周りが勝手に押しつける「尊厳死」も多いようではある。
いや実は、あくまで生に固執する「闘病」的意識こそ、近代のある一瞬に特有の特殊な意識であって、実はその前の時代はずーっと人類にとって「死」はもっと仲良しさんだった気もしないでもないのだが...。

2019年9月13日金曜日

13階の視線

うーん、自己憐憫ととられずにこの話ができるかどうか・・。

学生時代に住んでいた京都から自覚的に住む場所を選び直したとき、出身は兵庫県だけど実質は大阪の辺境の出だったもので、大阪らしい大阪の下町に住みたくてそういう街を探し、うっかり4号棟の13階という物件を抽き当て、地名を見てもなんだかさる歴史上の人物の怨念に関係ありそうな地名で、そんな迷信に気をとられるのは馬鹿げているとはわかっていながら、入居して数年経ってある人生のカタストロフに遭遇。それからまたしばらくあって阪神淡路大震災があり、けっきょくは「その後」の人生を長く身を潜めて生きるみたいな意識で長々とその時期を過ごしてしまいました。
いまから思うと軽い鬱もあったのかなぁ・・摂食障害もやってたし。

時期の変遷を画するのが相棒のパソコンで。最初期はNEC機にBASICで命令して遊んでた頃、MS-DOS、フロッピーディスク、友人や仕事の取引先に勧められてマッキントッシュに趣旨替え。あとはマックひとすじ(アンチWindows)、パソコン通信には手を出さなかったのでマック機のときにインターネットに接続し始め、それからネット付き合いが広がりはじめたところまで・・。
911(英語で読んでくれ)からそういえばもう18年経つのだねぇ・・と一昨日語学の先生と話をしていてその911のときにまさしくNYに住んでいてまさしくあのビルに職場のあったネット友達ほか数人で当時ウェブチャットよりも早かったナントカという仕組みのチャットで刻々現地の様子を知らせてもらいパソコンに張りついてたことを思い出します。
となると2000年代に入ってからはもう回復期か・・それまでは振り返ればホントに沈潜期。なーんも生産的なことしてないし上昇も成長もしてない。普通の人のライフステージでいえば最も生産的であるべき年齢層をそんなふうに過ごしてしまったことはいまからおもえば痛恨の極みでとても他人(ひと)には勧められないけれど、これもまた迷信的にいえば宿命でもあったのでしょうか・・。

その場に住んでいた頃の意識を「13階の視線」「13階の死線」と呼んでました。13階のベランダに立つと川が見下ろされ東向きなので向こうの山が白みはじめ暁どきから日の出が見渡される。わたしはいつここから落ちてもおかしくないしふと落ちたくなる衝動にかられるかもしれない。恐怖であるとともに恍惚でもありました。だからベランダに立つことは怖くてようせんかった。その身代わりとしていろんなもの投げ落としましたな・・。

2019年9月8日日曜日

て、インパクトあるタイトルですねぇ・・。
とはいえ最新の生存率データによれば(種類にもよるけどわたしのやったのなんかは)、もはやまったく死病でもなんでもないのですけどね。
そもそも癌って漢字の字面が凶々しく、いかにも死に至る岩の塊って感じ。でも英語(や主な西洋語では)ただの可愛い「カニさん」ですから。ま、しかし英語(や西洋語)ネイティブにとって「蟹」が可愛いかどうかはわからんか。彼らにとって蟹はやっぱり凶々しく長い肢を広げて死病を身体に張りつける存在なのかもしれないし・・。(しかしいつも思うんだけど英語(や西洋語)話者が星座を聞かれて、「蟹座」と答えないといけない人はその語感を気にしたりしないんだろうか?「あなた何座?」「cancer」だなんてね。)
話がずれた。tarahine(ブログ連載中のタイトルは『85歳からダンス』)という連作のテーマは「身体」ですからして病気の話は避けて通れません。
筆者が別のハンドルネームでやってたフェミニズムのサイトで「絶対書いてね」とエールを送られ「絶対書くから」と約束した以上ぜったい書くつもりでいるし、そしてどうせ書くなら当たり前の闘病記だの病気がモチーフの(口当たりの良い)物語だのにはしたくないし。
常々世間にある闘病記だの闘病ドキュメントだの物語の中でギミックとして使われるケース(少女マンガの白血病といえば定番でしたもんね)は言うに及ばず、真面目にテーマやモチーフに織り込んだ物語とかノンフィクションとかでさえ、何を読んでも何を見ても、この病気の語られ方そして読み取られ方が、いったん当事者になってみるとものすごく違和感のあるものなのです。(と、これは多かれ少なかれ当事者になったことのある方ならみんな感じておられると思う)。
描かれる細部がやっぱり微妙に違ってたりずれてたり(物語の鍵になってる部分にそういう間違いがあると目も当てられないし)、また端的に患者はすべて健気に癌と闘う悲劇のヒロインとはかぎらないし(筆者は少なくともちがうし)。・・ただスーザン・ソンタグではないがやはり隠喩としての病という側面はあるかもしれない・・それはまた追い追い書いていきますが。
2つ前のエントリーにある「瘤のある自画像 」という詩を書いたときにはまったく気づいてなかったけどこれはあきらかに事態を預言していたことになるし・・。
で、これはちゃんと言っておかないといけませんが、(これを言うためのエントリーでもあるのですが)、現実の筆者の状態はこれを書いてる時点で初発も再発も無事乗り越えて長期寛解状態が長く続いています。(定義上「完治」とは言えないんです)。まあ立派にサバイブしたものと考えられますので、どうぞご心配なく。
なおtarahineの連作はフィクションの嘘日記で主人公は現実の筆者であって筆者でありませんので全てが筆者の体験とは限りません。念の為

2019年9月1日日曜日

その後のその後

 「局所再発は全身再発の一症状であることも、局所再発のみの場合もあります。後者の場合は手術や、放射線治療により治癒します。3cm 以下の胸壁再発、腋窩リンパ節または内胸リンパ節の再発(鎖骨上リンパ節再発は予後不良)、無再発期間が2年以上の場合は予後が良好なことが多いです。このような人の5年無再発率(新たな局所再発または遠隔再発)はある最近のデ−タによれば25%、10年無再発率は15%である、10年の局所コントロ−ル率は57%です。」----(アメリカの医療文書の翻訳)※南雲吉則・川端英孝氏による。
べつの資料によればIIIB(遠隔転移なくリンパ節への局所再発)で5年生存率35%,10年生存率20%。5年後生きてる確率1/3か。10年間のパスポートを使い切れる確率は2割か。それにしてもこのおなじ文書が「再発乳ガンはしばしば治療に反応しますが、治癒することは稀です」で始まってんだもんな。
 わたしはすでにわたしの晩年期にはいっている。
 なんで85歳かというとお役所の出してる日本人の簡易生命表というデータで見ると女85歳の平均余命がだいたい7.5年ぐらい(じわじわ延びてはいるが)だからだ。
 統計には疎いもんで「平均」とかこういう概念には弱いけど、ま、そんなもんと思っといてまちがいないでしょ、と見通したてる。
 ふつうの85歳でどうでしょうね。ふだんが健康なら、なんとなくここまで生きたんだからあと10年ぐらいは悠々生きられるような感じがある。だけど20年は生きられないんじゃないかって気もしてる。だけどひょっとしたら100歳越えてしまうかも…という気も一方ではあるかもしれない。それは、でもむしろ長生きリスクか。ひょっとしたら来年、再来年ぐらいにでも病気して、ぽっくり逝ってしまえるかも。そういうほうが楽かも…とも思っているかも。
 たぶんわたしもそんな感じ。10年は楽々いきそうだけど20年は生きられないかも。来年再来年にでも(いや明日にでも)また再発・転移が見つかれば、やばいとこだったらそれから1カ月とか1年以内とか3年とか5年とか…。
 とりあえず、今日明日に死ぬことはないだろう(もちろんほかの病気や事故ってこともありうるが)。今週はだいじょぶだろう。といいつつ、新たな日、新たな週を迎えている。ああ、今日も無事。明日も無事そう…。
 いつやってくるのか、確率はわかるようでわからない。自分に起こることはそれかそれでないか二者択一であってシュレジンガーの猫みたいに50%の確率で生きてるなんてありえないもんな。ぜったい当たる占いじゃあるまいし確実にわかるわけはない。遠いようで近い。死の姿を、ごく間近に感じたときと間遠に感じるときがある。その距離感。

PS : これ書いた時点から数値ははるかに改善されてるはずです。念のため。

2019年8月23日金曜日

その後(というラベル)

それは「post festum」(祭りの後)でもありますし「aftermath」(厄災の後)でもあります。
後者は特にThe Rolling Stonesのそれというわけではありませんが、前者は木村敏のそれでもありますし、Karl Marxの意図するところもすこし入っています。

いつからか、わたしは「その後」を生きている、ということを意識するようになりました。
意識し始めたのは、阪神淡路大震災後だったかもしれないし、もっと以前、わたしが当時住んでいたおなじ部屋で、ある危機を脱したことを意識した「その後」だったのかもしれません。そもそもが先の戦争の戦後に生まれた世代であり、若者たちが世界的に異議申し立てをしていた祭りのあとにやってきた世代というのもあるかもしれません。
そしてそのあとも、東日本大震災と原子力発電所事故の厄災を経て、その感覚は潮の繰り返し寄せるようにますます強くなっていくようでもあります。

わたしがいつごろからインターネットに接続し始めたか覚えていませんが、初めて自分のウェブページを持った記録は残っていて1996年10月とあります。
jajaという名義でウェブ上で詩を書き始め、その詩を通じて他の詩人の方々ともウェブ上で交流を始めました。
jaja名義でウェブにあげた最初の詩が先の「救命艇」になりますが、これが『ボール箱に砂場』のラストにあたる作品の「続き」みたいになっていて、その時期を脱けた「その後」であることがはっきりわかります。
それが「その後」のわたしのはじまりとなり、その意識はいまでも続いています。
アフターマス 「その後」を画する詩には、このラベルをつけていきたいとおもいます。

その時期、おなじjaja名義で、映画好きのネット先達のお仲間に寄せていただいたり、きっつい洗礼も受けつつ、ものすごく楽しい日々を過ごしていましたね・・。
ほんとに偶然なんですが、この記事を準備している最中、そのネット先達のお一人が亡くなっていたことを知らされました。
直接は(つまりリアルでは)存じ上げない方なのですが、その、なんだか「消える」ようにネット上からいなくなってしまわれたその方のありようなどにも思いを馳せ、あの当時の映画好き仲間たちとのやりとりも思い出し、すこし感傷に浸ったことでした。

当時のネット環境はウェブページつくるにも自分でhtml手打ちするし、ブログはまだなくBBS(掲示板)を雛形だけもらってきて自分で作ったり、ウェブチャットが遅いのでもう少し早いチャットのシステムがあったりなどして、まだまだネットを通じての交流のかたちが定まっていなかったころ。
その後、ブログがぶわーっと流行り、わたしは便利にはちがいないけどいろいろ仕様が決まってるのが少し鬱陶しいなと思いつつ、いっときは8つぐらい運営していました。
その後、Facebookの時代になって、わたしはこれには決定的になじめず、さらにTwitterやInstagramの時代になって、またうまく乗っかっていけず、馴染めないというよりは、この3つのSNS、それぞれの「仕様」に踊らされるのが決定的に鬱陶しいのですよね。自分の気づかないところで仕様に制限され動かされ見させられている・・。とはいえ、アカウントは持っていてそれなりに使ってはいますけど・・。

2019年8月12日月曜日

接着霊

死の像が目の前にいきなり現われた。それは、おせんべなどばりばり食いながら一面のガラス張りの窓をへだてて夜の街の光を映画みるようにぼっと眺めてたら、唐突に空一面にでかい目玉をした死に神の顔がぬっと現われガラスにへばりつかんばかりにしてこちらを覗きこんでいたという具合。あたしは怯えた。というより沈黙した。死の現前ってのはかくも圧倒的でひとから言葉を奪うのだなあというとても当り前の感想。次の瞬間、彼はバリバリバリと轟音を立てる戦闘ヘリコプターのかたちを借り、ゆっくりと照準をこちらに合わせて、あたしに向かって砲撃を開始したのだが、なんとガラスいちまい隔ててあたしは無事だったのだ! 連続する砲撃音に確かに部屋は爆撃されてめちゃくちゃに火の海瓦礫の空中に舞い散る修羅場となったのだが、なぜかあたしの身ひとつは無事...。

その事件をピークに死の像は急速にひゅるひゅるひゅるとゴムに引かれていったみたいに遠ざかり、いまは向こうのほうに小さく見える。入れ換わりにこんどは接着霊があたしのそばに寄り添いはじめた。だんだん抜けていく髪の毛とともに。
抜けていくのは抗癌剤のせいというより新しいヘアマニキュアのせいかもしれないけどね。手軽にできるようになったぶんこのところ頻繁にしてるから。

ああ、接着霊ってのがわかんないでしょ。あたしだってついこないだまで知らなかったのだ。

あたしはスパイかそれとも電気調査員みたいな仕事で各家庭をまわっている。その家は、上司の家かそれともモデルルームかそれとも上得意だったのか、わざと変な配線がしてあって、ダミーの配電盤があって、ほんものの配電盤はテーブルの下に隠してあったりする。このテーブルの下のこのリモコンからエアコンを操作するんですよとかなんとか、そこのご主人とおしゃべりしながら調査している。

その家は病院も兼ねていたのか? あたしも手術しないといけないのだが、もうとうの先から妹(現実の妹)も入院していて癌の手術を受けなければならない。しかも病状は深刻で、次の手術が最終手術になるかもしれない(つまりそれで死んでしまうかもしれない)。のに、本人はいたって元気でのんびりそのへんをパジャマで散歩してたりして、いろいろ世間話などしている。スパイのこと電気のこと...しかしよくきいてみると、彼女はこの病院(ホスピスというか癌の末期患者の病院)にいるつもりではなく、前にいた病院(普通の病院)にまだいるつもりのようすで、ああやはりもう混乱していて自分の状況がよくわかってないんやねえ...と可哀想にと憐れむような仕方ないようなあきらめるような見守るような気持ち。あたしも手術があるのでそちらに向かいながらふと見ると、長い後ろ一文字のみつあみの髪の毛が頭のお鉢ごとすぽっと落ちていて、「あれ、これ妹のだ」。抗癌剤で抜けたのか。本人は、変に手で切ったようなどうでもいいショートカットの艶の不自然な固い黒髪でいる(かつらなのか?)。あたしは手術に向かう(歩いていく)彼女を見送りながら、ああ目が覚めたときにまた会えたらいいな。でも生きて会えるのは最後だろうか? あたしが手術の最中にもう彼女は逝ってしまっているだろうか? と哀しいような諦めのようなわずかな希望に縋りつくような気分でいる。

2019年7月6日土曜日

恋するキナコ・純情篇

いまの女優で言えば(ここはあらためて時代に応じて更新されるかもしれないが)土屋太鳳か橋本環奈か。ただ、二人とも短軀で弾けるようなボディの存在感が似ているというだけであって、顔立ちはもっときつくて猫顔で、ことに目が猫目そのもので、昔昔の鈴木杏にそっくりかもしれない。
その猫娘、めちゃ素直で人懐っこく、私のことを「尊敬」してくれているのは犇々と(牛三頭分)伝わる。
あの日、私の右隣にちょこんと陣取り、私の話に真剣に耳を傾けていた。テキは、ホントにまったくどうしようもなく話をすればするほど死ぬほど無知で無教養で、単純な言い回しひとつ知らず、言葉を知らず、世界史や日本史の重要局面を知らず、抽象概念も知らない。それをいちいち解説してやると真剣に聴いている。(明日まで覚えているかどうか、定かではないが・・)。
えーと、すなわち、要点は、彼女は私のことはこのうえなく尊敬できる先輩として慕ってくれてはいるけれど、恋愛対象としてはこれっぽっちも見てくれてないということね。
・・あああ・・私ってばなんて純情でおバカなことを書いてること!

2019年6月17日月曜日

デモ隊

その街の旧市街はどの建物も暗い赤紫色の石造りである。立派な建物は立派な石でできた立派な建物で、普通のアパートも同じ種類の石のちょっと安普請な建物で、現代的なショッピングビルなどでさえ外装だけは新しい看板だの電光掲示板だのいろいろごてごて飾り付けてあってもひと皮ひんむいた建物じたいはやっぱり赤紫の石造りなのだ。自然の川だか運河だかに沿って道はゆるやかに曲がり街全体では不定形な網の目状になっていて、たとえば西を指して歩いていたはずがいつのまにか北に向かって歩いているので油断できない。すぐ迷ってしまう。迷いながら歩いていたつもりがまたもや街の真ん中に出て来てしまった日曜日の朝。この地の日曜とあって薬局と一部のパン屋以外の商店はすべて閉まっている。しかたないしのんびり過ごそうと広場のベンチに腰をおろすとあたりに警察官がちらほら見え始め、昔ながらの大きいウォーキートーキーで通信しながらそのあたりを警戒するようす。何事ならんとおもっているとそのうち広場の向こうの道の奥になにやら喧噪が沸き立つように聞こえたかと思ったら最前列に赤っぽい旗が横列にいくつも翻っているの見え初め、それはすぐにデモ隊であることがわかる。デモ隊はシュプレヒコールを叫びつつそれでも全体的にはしずしずと広場に進んでやってくる。遠目には整然と見えたが近づくとそれぞれバラバラで思い思いのプラカードを掲げてその主張するところはさまざまでいろいろ要求はあるらしいのだが反政府デモというところでは一致しているらしい。デモ隊の傍にはあたかも護衛するかのように警官たちがつき一緒にしずしずと行進している。最前列付近は壮年の男たち青年の男たちが固めているのだが、その後ろあたりになってくると老人夫婦とか子ども連れとか普通の市民たちが普通に参加していてある列などは乳母車に幼児を乗せたお母さんたちがかたまって歩いていて、また別の列ではギターを抱えた若者たちが車のうえに集い昔懐かしフォークソング様の歌を歌っていたりで、デモ隊とはいえみなさん楽しげに参加していて、主張するところも労働問題であったり経済問題であったり原発問題であったりなじみのあるところばっかりなので、おっちょこちょいの外国人としても共感を表明する程度のささやかな参加でもできるかなと思われて、例によって頭で妄想しつつ現実に客観的にはニコニコ好意的に眺めていた。そこへ現地の初老の男が赤ら顔で登場して私の傍に立つ。デモ隊を指差しながら私に向かって何やらいろいろわめいている。このくにの言葉は少しは理解できるつもりなのだが男のしゃべる言葉は、このくにのなかでもこの地の訛が激しく入っているせいかまったく理解できない。のだが身振り手振り言葉の調子からデモ隊を激しく罵っていることはわかる。「非国民」みたいなことを言ってるのだろうか?と思っているとその指差す指がいきなり私に向けられ「おまえも移民だろう。ここでなにをしている!」とそこだけが意味を持った言葉として耳に突き刺さってきた。訛があろうとそこだけははっきり解った。私はたんなる旅行者で移民ではないのだが、そこで「私は移民ではない」と言うのもなにか間違っていると思い、とはいってもこの国粋主義者?に反論するほどの言語力はないのでただ不快な顔を示してその場を離れることにする。なんとなくデモ隊と一緒にしかし歩を同じうするのでなくぶらぶら歩いてその先にあるベンチにまた腰をおろした。それにしてもこの長いデモ隊はどこまで続くのか。この旧市街に住んでいる人たちぐらいは全戸参加してるんじゃないかと思うぐらい長々と続いたデモ隊のしっぽが見えかけたかと思ったらつむじ風がビラを捲き揚げるのが見えその風に乗ってくるかのように広東語のngoに似た音が低く低く地面を這いながら。

2019年6月14日金曜日

死ぬな

知っている人で自死してしまった人は数多いけど、特に辛い思い出になっている人は3人いて、ある共通点がある。3人とも、わたしにとって大切な人だったけど、特にわたしに最も近しい人だったというわけではない(そのうちの一人なんて個人的な付き合いすらなかった)こと。かれらはヒーロー/ヒロインとして死んだのではなく、無意味に死んだ(ハッキリ言って無駄死にした)こと。そして、わたしはそんな立場になかったにもかかわらず「どうしてそばにいてあげることができなかったのだろう?」と強く思ってしまったこと。
今でもその悔いがしつこくつきまとう。「そばにいてあげる」ことを想像すること自体、現実には馬鹿げたことであることはわかっている(かれらにはそれぞれその立場にふさわしい人がいた)し、もちろんわたしがそうしたからといって自死を阻止できたかもしれないなどと大それたことを思うわけでもない。それなのに、どうしてそれができなかったのだろうと悔やんでしまう。なにか、かれらがわたしの代わりになってくれたのかもしれない、という後ろめたさもあるのかもしれないけど、そういう投影はむしろ死者たちに対して失礼であろう。ただ、わたしも死ぬときには無意味に死ぬのだろうとは思う。(だから◯くん、死ぬなよ。わたしが知らんまにいなくなってしまわないでくれ・・)

2019年5月29日水曜日

アクチベータ

 チェックインが済むとクラークの男は私に小さな石鹸のようなものを手渡した。黄色みをおびた白の粉石けんを固めたような物体。「これは部屋の水系をアクティベートするものだ。部屋に入ったらまずこれを井戸に放り込め。それから5分待つと水が使えるようになる。」と言う。部屋に入ってみる。荷物を置き、窓を開け、ぐるりと室内を確かめると、なるほど部屋の隅に円筒形の腰までの高さぐらいの物体が床から生えるように立っているのが見え、これが井戸なのか?覗いてみてもそこは暗闇でかなり奥底の深いようで何も見えない。耳を澄ますと幽かに(かすかに)水の揺蕩う(たゆたう)音がするような気がする。気がするだけで確信がもてない。念のためバスルームの扉をあけ(バスタブがない。シャワーだけ。いまどきはこれが普通。ま、仕方なかろう)、洗面台のカランをひねってみる。何も起こらない。カランを締め直し、部屋にもどって件のアクチベータを井戸に投げ入れる。何秒かたって(かなり深そうだ)ちゃぽーんと響く水音がして確かにそれが井戸なのだとわかる。ベッドに座ってきっかり5分待ち、再びバスルームに入ってカランをひねると、少しためらうように空気がこぼこぼと出てきたあとに水が勢いよく噴き出した。てのひらで受け止めるとこの地にあっては貴重であろう冷たく清冽な水で、試しにコップに汲んでみるとさーっと水泡(みなわ)が消えたあとは塵ひとつ見えない、光に透かしてみてもおかしな色は少しもついていない、透明な美しい水だ。(が、もちろんそのまま生水を飲むわけではない)。
 再び部屋に戻って荷物の整理を済ませベッドに腰をおろして暫しぼんやりする。傍らにかつて付き合っていた女の幻像がいるような気がする。「あなたはそうやっていつも・・・」「あなたは・・・なんだから」。私のこれこれこの言動のこういう点が気に入らないから、ついてはここをこう改善してくれ、と言ってくれればよいものを、一気に「あなたはいつも・・・する」「あなたは(これこれこういう種類の人間)だ」になる。でも言われてみると彼女の言う通りで、確かに私はその種の人間なのだった。他人に対する気遣いに欠けている。言われてみると確かに他人のことなど気遣ったことがない。彼女のほうは気が利き過ぎるほど気が利いて、私がなにか身動きをするとすぐに私の必要とするものが向こうからやって来た。それがいちいち的確なので、初めて知り合った頃は気味悪いほどで、この女は自分の考えていることを悉く読めるのかと疑ったぐらいだ。いちど「不気味なぐらい手際が良い」と口にしたら「馬鹿」と言われた。のちのち世間ではそれが女性によくあるむしろ通常のことで、私自身が他者に対して気が利かなさ過ぎるということを学習した。それにしても(私の基準にしてみれば)かなり極端な学習だったと思うが。
 最後の喧嘩をしたのもこの地への旅だった。いま泊まっている宿よりもランク違いに高級なこの地で一二を争う有名なラグジュアリーホテルだった。ラグジュアリーといってもこの地だからかなりお得なのよ。だとしたらここを選ばなきゃ損じゃない?と言う彼女を憎んだ。着いた途端なにか些細なことで口喧嘩となり、いつものように私は言い負かされ不貞腐れ(ふてくされ)旅の疲れもあってそのまま大きなベッドを独り占めして眠ってしまった。目が覚めるともう夜で、部屋は暗く彼女の姿はなかった。私は煙草に火を点け(当時は吸っていた)暗いままベッドに座っていた。どれくらい待っただろう?わさわさと物音がして部屋のドアが開き、ぱたんと閉まり、彼女が帰ってきた。私に気づくと「あらあら暗いまま!どうして明かりを点けないのよ?」とかなんとか言って、明かりをつけてまわり、最後にベッドの傍に立つと私を見下ろすようにして「夕食、ひとりで食べて来たわ」と言う。そういえば眠りこむ寸前に彼女が「おなかが空いた。ちょっと早いけど晩ご飯に行こう」と言い、わたしが「まだ腹は減ってない」と答えた記憶がある。「どこで食べたんだ?」「この上のレストラン」「ホテルのレストラン?」(私だったらありえない選択)「こんな国では珍しい本格的なフランス料理ですごく美味しかったわよ。美いワインもあったし。」。私が腹を空かせていることはわかっているだろうに、わざとそのまま突っ立っている。「街に出ないか?」「何しに?」「決まってるだろう。オレの晩ご飯」「もう食べたし」「お前は、だろ」。なんで付き合わなきゃいけないのよ?と目が言っていたが、口には出さなかった。そのままたっぷり時間をかけてわたしを見下ろしている。当時の私は(これも今とちがって)昼食であれ夕食であれ独りで食べることには耐えられなかった。それも知り尽くしている彼女は、さああなたに恩を着せるわよとばかり十分に時間をとってわたしを睨め(ねめ)つけた末に「いいわよ。じゃ行きましょ」と言った。
 その地は高低差のある道の入り組んだ街で、あたかも平地に一応の区画割りをしたあと空から大きな親指と人差し指が降りてきて土地をぎゅっとひねりあげたかのようだった。ひとつの道をたどるとそこは曲がりくねり、上ったかと思ったら下っていく。ぐるっとまわるともとの交差点に出る。そこにはあらゆる肌の色の人間がいて、そのなかでもいろんな民族系、ちいさな部族系がいるようだった。ブロークンな英語がどこでも通じたが、それとはべつにこの地の共通語もあるようで、「こんばんは」と「ありがとう」だけはその言葉を覚えて言うようにしたが、どうやらそれもこの地の多数派の言語であるに過ぎないらしく、そうではない耳慣れないアクセントや発音のおしゃべりをあちこちの隅で耳にした。「ありがとう」は何度も聞き何度も口にしたが、どうもそれを口にするタイミングがこの地の習慣と異なっているらしく、「どういたしまして」にあたる言葉を言うべきときに「ありがとう」を言い、逆のときに逆を言っているようではあるが、「どういたしまして」を言うべきときにもけっきょく「ありがとう」を連発してしまい、また変な顔をされるのだった。
 お祭りではない普通の夜だったが、街は明るく喧噪に充ちていて、皆が楽しみ興奮し「踊ろう」「踊ろう」と口々に言っているかのようだった。わたしは歩きまわるだけで愉快でたまらず、あちこちの細道に折れては迷子になり、またもとの交差点に出、また異なる人々の群れに目をやり耳を傾け、すべての路地に足を踏み入れねばおさまらない勢いだったが、彼女が次第に疲れて不平を言ったので、レストランに入ることにした。英語で「東風」という名が添えてあるが土地の言葉で「×××」という名前が大書してあってそれが屋号であるらしい。ウェイトレスにこの店の名はどう読むのだと聞くと「×××」と言い、復唱すると笑っただけでそれが正しい発音なのかどうかわからない。一般的な「東風」というのではなく、どうやら土地に吹く特別な風の名称であるらしい。料理は土地の材料を使って少し中華風のアレンジがしてあるようで、美味かった。土地の酒も美味しかった。連れはもちろんあまり手をつけなかったが私はもりもり飲み食いした。彼女はすぐ帰りたがったが私はそのまま帰りたくなかったので、踊る店を見つけて入って少し踊った。彼女は見ているだけだった。
 ホテルに戻るとフロントクラークの女性に「明日は東風がきついようですから窓をしっかり閉めておやすみください。」と言われ「×××のことか?」と訊くと莞爾(にっこり)笑って「そうです。」と答えた。翌朝、東風は来なかったようで至極平穏な朝を迎えたが、その代わりとでもいうように彼女が消えていた。書き置きもなにもなかった。そしてそのまま私の目の前にふたたび姿を現すことはなかった。
 それからもう20年以上が過ぎている。同じ街の同じ入り組んだ街路なのに猥雑さがかなり薄められ、小綺麗になって世界のどこでも目にするチェーン店もわざわざ目立つように見かけられた。人々の活気も心なしかややトーンダウンした感もあったが、それでも「踊ろう」「踊ろう」と口々に言っているかのようであるのは、変わらないこの地の気質のようにも見えた。広場のあったところに出ると20年前にはなかったガラス張りの筒状のビルが建ちその前に大きな噴水ができていて、夜ともあって色とりどりのイルミネーションがほどこされ、大小さまざまの噴水がリズムにあわせて水のショーを繰り広げるのであった。人々はそれに見入ってのんびり噴水のまわりに座ったり寝そべったりして冷たい水がかかるのをむしろ喜んでいた。20年前に入った「東風」なるレストランは見つからなかった。場所も正確には覚えていなかったが、たぶん新しい店になったんだろう。
 20年前のフロントクラークの女性の言葉を思い出し、このホテルでは尚更であろうと思い窓をしっかり閉めて眠ることにした。白いペンキのところどころ剥げた木製のぼろっちい鎧戸である。
 翌朝、鎧戸の割れ目や隙間から針穴写真機のように入って来る光が美しくその眩(まばゆ)さに目覚めたつもりが、光ではなく音で目が覚めたことに気づく。それは鎧戸をがたがた揺らせ隙間から入り込んでこちらのガラス窓まで激しく打つ風の音だった。窓の傍まで寄ってみると、外を相当な勢いで風が吹いているらしい。風が捲き揚げるのか、砂がざざっと鎧戸にぶつかるような音も聞こえてくる。東風か・・。それにあたる土地のことば「×××」を忘れてしまっていた。風が収まるまでしばらく発てないな。窓も開けられない。隙間から入る光が外の映像やいろんな色の光を映して部屋のなかをダンスするようであるのを、そういえば針穴写真機はもとはカメラ・オブスクラというのだったっけか。カメラというのはいまのイタリア語でも部屋を意味するのだった。などとぼんやり考えながら・・。そのカメラに閉じ込められゆきかう光の戯れのなかにいる我を愉しみながら・・。

2019年5月25日土曜日

内辺

昔から在る繊維系の卸売市場の広い敷地がありそれを周囲から突き刺そうとするかのように鋭く図々しく割り込んでくる新しい(といってもそれほどピカピカに新しいわけではない)ショッピング系のビルがいくつかありそのあまった隙間を体裁だけ公園にしたものだからその公園はずいぶん変なかたちをしている。あまって突き出たところに言い訳みたいに何かの碑が立っていたり(現地の字で書いてあるので読めない。いや一字一字発音することはかろうじてできるが意味が分からない。)現代彫刻が突き刺してあったりする。管理事務所かそれとも何か小さな博物館でもあるのかと疑った立派なガラス張りの建物は単にトイレがあって地下の自転車置き場につながるだけの建物であった。三つの地下鉄駅からちょうど等間隔ぐらいの距離にありどこに行くのもどこから来るのも不便。というか、わざわざこの公園を目指して来る人はあまりいないと思われ一つの地下鉄駅から別の地下鉄駅へ歩いて移動しようという人なのかここを突っ切るのが一番近道とばかりに通り道にしている。それでも帰宅時間にあたるであろうこの時間帯にそれほどの集団移動はなくサラリーマン風OL風が三三五五急ぎ足で通り抜けていくのみ。のんびりしているのは近所の住民たちか犬とか幼児とか荷物とかあるいは杖だけとか連れて公園の変なかたちの内辺に沿ってつつましくしつらえられたベンチにもっとひっそりぽつぽつ座っている。そんな公園もそれが唯一の美点なのか(あるいは欠陥なのか)開発の残滓の地の歪みの名残なのだろうおもしろい高低差があってそれが斜面だったり段差だったりするもんだからスケボー少年たちの格好の餌食である。この地のスケボー少年たちはみんな白い顔をしていて端正な顔だちの子も素朴な顔の子もいればおしゃれな子もそうでない子もいるが全体的に上品で育ち良さげに見える。現地の言葉で遠慮なく声かけあいながら滑っているのがまるで鳥の歌のように聞こえて心地良い。
ああ、いいな。夕暮れのこういう気分がいいな。その頃はその国のことばをほとんど解さなかったわたしの耳に少年たちがほたえる(「ほえたてる」の誤植ではない自動詞「ほたえる」)声はメロディとしてごくごく近しいのに意味は殆ど分節せず気分だけはすこしわかって心地よくてたまらない。わたしはわたしも付近住民なんですという顔しておんなじようにひっそり気配を殺してベンチに座り急ぎ足で通り抜ける帰宅民らを横目で流しながらスケボー少年たちをぼんやりうっとり眺めているのだった。

2019年5月24日金曜日

波が来る

足を踏み出したとたん空気のなかに匂いの霧が分厚くたちこめているのに気づく。それは小さな風となって鼻孔を打ち、このなにやら香辛料と埃の香りがこの街の印象を決定づける。黄白く乾いた道を住居に邪魔されながら折れ曲がり折れ曲がり行くと、溝のならびに沿って粗末な布がけの屋台が建ち並んでいる道に出る。屋台は裸電球を連ねた線でつながっていて、何軒かおきに同じものを商う店が出現するもののどれも異なる食物を売っていながら味付けにはおなじ香辛料を使っているのか同系統の匂いの流れが縞模様をなして旅人の鼻に流れこんで来るのだ。屋台の主らはこのくにでは少数派であるはずの中東系の顔つきをしていていずれもいずれも姿かたちもみすぼらしく難民だかまだ貧しい移民だかの風情である。その子どもらは道ばたに座り込んでなにやら石を使った遊びをしていたり猫と戯れたり道を駆け回ったり。屋台の客らも同じく故郷の味を求めて来るのか同じ顔つきの難民だか移民だかの風情の人々か、あるいは好奇心でこの異民族の屋台を冷やかして歩くこのくにでは多数派であるらしい裕福な風情の人々か、あるいはさまざまな出自の旅人たちか。そういえば朝から何も食っていないことを憶い出し俄に(にわかに)腹が減ってきたので店先を冷やかしてあるくだけでなく何軒かおきにおなじものがあってこの屋台通りでは最も売れ筋であるらしい食べ物を求めることにする。まず匂いを確かめ作り方を確かめ「これは何だ?」と聞くと知らない言語の知らない言葉が返ってきて「・・・?」と鸚鵡返しすると「ちがう・・・だ」とまた言う。「・・・?」とまた鸚鵡返しすると首を振り、私がうまく発音できないのを笑う風だが嫌な笑い方ではなく、こちらも笑ってひとつ求める。どら焼きのような生地を揚げた皮の部分は玉蜀黍(とうきびorとうもろこし)だかなんだか穀物の味しかせず、中身はトマトと肉の組み合わせかと勝手に想像していたら肉気はまったくなく赤はトマトでもなく豆をくたくたに煮たもので赤はもともとの豆が赤いのかそれとも別の赤い材料が入っているのかわからない。先ほどから嗅覚だけで利いていた香辛料が口の中で強烈に弾け、同時に鼻まで逆流した。おいしいともまずいともいえず、ただただ初めて食べた味だった。旅先で初めて食した味は口に合わぬと切り捨てずとにかく食べる主義であるし空腹でもあったし求めたものは最後まで食べる。と、先ほどまで満天青空だったのが俄に(にわかに)灰色の雲が立ちこめ太い破線を描いて雨が落ちて来る。慌てて屋台の隙間の雨除けになる布のあるところに退避し、目の合った店主に「雨だね」と声をかけるとまたもや聞き知らぬ言語で「・・・だ」と言う。彼らの言語で雨を「・・・」と言うのかと問うとそうではない、雨のなかでもこれは特殊な「・・・」なのだと言う。pの音から始まりあいだに発音できないhに似た音が入り最後は曖昧なuに似た母音で終わる言葉だった。繰り返したがまたもや発音できないこちらに対して微笑が返って来ただけだった。
いつのまにか中東系の顔が少なくなり、大勢の人々が縁日の屋台が本宮まで続いているように道の先に皆が目的地としあるいはそこから帰ってくる場所があることに気づき人の流れとともに道なりに歩いていく。脇にスロープのついたコンクリートの階段を上がっていくと本殿ならぬ巨大な白い箱型のショッピングセンターがあらわれ人々はそこに吸い込まれそこから吐き出されていくのであった。買いたいものがあるわけではないのだがそこまで来たのだから本宮に参っておこうと中に入ると中も巨大な倉庫のようでありとあらゆる商品が見本品は別として箱のままで積み上げられ買い物客はカートを押しながら店の中を縦横無尽に歩きまわり箱のままの商品をどんどんカートに放り込んでいくのである。気づくと店員らはアフリカ系ばっかりで買い物客らは若いカップルで来ているコーカサス系がちらほら目に付くほかは見渡す限り東洋系の人々ばっかりでなかでもしゃべっている言葉から(普通話の)中国系が多い。買いっぷりの良いのもその中国系の人々でカートはたちまち商品の箱で満杯になりしかも家族みながその満杯のカートをそれぞれに押しているのである。私だって外からみれば立派な東洋系だがその人たちと同様に見られるのが癪なわけでもないのだが買いものが目的ではないのだということを誇示するようにカートは押さずしかし店内の小道を残らずまわると先ほどの屋台の道よりももっとどっと疲れがやってくる。それにしても屋台のところからして中東系とかここではアフリカ系とかコーカサス系とか東洋系とか民族系なんて虚構であることぐらい心得ているのに、なんだってこんなふうに綺麗に色分けできてしまうのだ?この地では?とりわけ謎なのがアフリカ系の人たちでこの地ならばもっとたくさんいてしかるべきなのに屋台通りではほとんど見かけなかった。この店の中でも客としてはほとんど見かけない。だが、この店の店員という店員、見る限りすべてアフリカ系の人たちなのだった。なんなんだこのくには?そういえば店の品物はなぜか白が多くていかにも白の店、白人の店、白人の趣味の店といわんばかりなのだ。(その割に客に白人は尠い(すくない)が)。よく見ると店のロゴらしいマークのそばに国旗があってそれはどうやら北欧系のくにの国旗なのだ。そのロゴと国旗の麗々しく飾られた店の真ん中にさらに上階に上がるエスカレーターと階段がありここは神殿をなぞらえて階段をどんどん上がっていくと最上階はテラスのようなところに出ていく。そこも真っ白に塗られていて白い大きな船の船首部分の甲板のようなしつらえになっている。遠くに海が見渡せる。ああ、こんなところに海が。海は沖のほうが泡立つような風情で綿を丸めて並べたようにも見える。船の舳先にあたる部分から下を覗き込むと波打ち際が見えたが波は押し寄せてはいず逆にすーっと引いているように見える。私の知っている海とは違うようだと思っていると、もくもくもくと遠くのほうで綿のように見えていた泡立ちがこちらに向けてゆっくりと押し寄せて来ているのが見えた。波が来るのだ。でもあんなに遠くから? 海を知らぬ身で何が正解かわからないまま再び階段を下り買い物客の喧噪を抜け階段を下り屋台の続く道までやってくる。

2019年5月23日木曜日

リプレイ

美術館に来てみたら美術館は閉まっていた。はじめ閉まっているともわからなかった。後日開館日に再訪してみてそこが入り口だとわかった開口部は閉館日にはぴったり閉ざされて単なるのっぺりした塀となり普段はそこが入り口なのだということすらわからない。おかげで閉館であることを知らずどこが入り口なのかしらん?と探す当方はぐるり四方ではなく建物のかたちの都合で変形五角形となった周囲をぐるり一周めぐって矢張り塀しかなく腑に落ちずに二周目を回り終え三周目に入った直後ようやく角っこの柱の上に美術館の印があってその下に小さな金属プレートがあるのに気づきそこに開館日が記されてあって本日はそれに当たらない旨を漸く理解する。
なんでちゃんと調べてから来ないかな。どっと疲れてふいと息をつきあらためて美術館の建物を見上げるとてっぺんに金の馬がいて晩い(おそい)午後の陽差しにだるそうに光っていた。金ぴかに光って私を見降ろすような位置にいてもべつに私を馬鹿にするでもなく澄ましているのでもなくただただただただそこに居た。
わざわざここまで出向いた徒労感をなんとしよう? でも美術館の表側にはそれほど広くもないが悪くない公園がゆったりと広がっていて水辺までつづく段差のそちこちに若い子たちが思い思いに集っているのだった。少し歩いてベンチに腰をおろしスケートボードに興じる子らの一群れ(ひとむれ)を見るともなしに見ていると彼らはいまどきラジカセを使ってラジカセから音楽を流しながらしかしその音楽に合わせるわけでもなく上手い子も下手な子も思い思いに愉しげに滑っているのだった。いちばん小さい子で9〜10歳ぐらい大きい子で16〜17歳ぐらいといったところか。しかしあんたらいつの時代の子どもやねん?ヨーロッパの若者はアメリカより10年単位で遅れるんかい?(周回遅れかそれとも周回遅れの先端か?)。それとも、もしやしてその一群(いちぐん)そっくりタイムスリップでもして来たんかい?
と思った矢先ラジカセからふいに私も知っている英国の流行歌が流れる。それがたしか4〜5年前の歌。また幾重にも折り重なったタイムラグにくらくらくる。私がいっときしつこくしつこくリプレイしていたその曲は若き黒人ミュージシャンの歌のくせして麻薬性あるヨナ抜きメジャーの旋律を持っていて、ある女性の名前に直結しその女性の名前を聞きたいだけの動機でしつこくしつこくリプレイしていたその歌が、なぜかここでもしつこくリプレイされあたまのなかで流れるメロディと共鳴してスケボーする彼らの動きを目で追いながら私の感情もいったい今の今にあるのかかつてのあのときのかつてを繰り返し繰り返しリプレイしているのかわからないままスケボー少年らの同じルートを何度もなんども繰り返し滑る動きとともにいったりきたりしながらすこしずつの差異をくわえながらやはりリプレイを繰り返すのだった。
んな感慨に耽りつつもはや立つ気がしなくなって快く重たいお尻を石のベンチにかるくめり込ませながらみるといつのまにか空の色・空気の色が薄暮にうつろうとしている。夕食にはまだ早い。もうすこしこのリプレイを眺めていようか。(だってリプレイには麻薬とおなじく習慣性があり快くて快くて快くてなかなか抜け出せない。・・って重言か)。
なにかかるいお酒が飲みたいな。いやむしろ強めのショットか・・。
わたしはもううごきたくないんでだれかもってきてくれ。
と日本語でつぶやいてもこの無邪気そうな顔たち稚い体躯たちのなかにそれがわかりそうな子はひとりもいそうにない。