2019年5月24日金曜日

波が来る

足を踏み出したとたん空気のなかに匂いの霧が分厚くたちこめているのに気づく。それは小さな風となって鼻孔を打ち、このなにやら香辛料と埃の香りがこの街の印象を決定づける。黄白く乾いた道を住居に邪魔されながら折れ曲がり折れ曲がり行くと、溝のならびに沿って粗末な布がけの屋台が建ち並んでいる道に出る。屋台は裸電球を連ねた線でつながっていて、何軒かおきに同じものを商う店が出現するもののどれも異なる食物を売っていながら味付けにはおなじ香辛料を使っているのか同系統の匂いの流れが縞模様をなして旅人の鼻に流れこんで来るのだ。屋台の主らはこのくにでは少数派であるはずの中東系の顔つきをしていていずれもいずれも姿かたちもみすぼらしく難民だかまだ貧しい移民だかの風情である。その子どもらは道ばたに座り込んでなにやら石を使った遊びをしていたり猫と戯れたり道を駆け回ったり。屋台の客らも同じく故郷の味を求めて来るのか同じ顔つきの難民だか移民だかの風情の人々か、あるいは好奇心でこの異民族の屋台を冷やかして歩くこのくにでは多数派であるらしい裕福な風情の人々か、あるいはさまざまな出自の旅人たちか。そういえば朝から何も食っていないことを憶い出し俄に(にわかに)腹が減ってきたので店先を冷やかしてあるくだけでなく何軒かおきにおなじものがあってこの屋台通りでは最も売れ筋であるらしい食べ物を求めることにする。まず匂いを確かめ作り方を確かめ「これは何だ?」と聞くと知らない言語の知らない言葉が返ってきて「・・・?」と鸚鵡返しすると「ちがう・・・だ」とまた言う。「・・・?」とまた鸚鵡返しすると首を振り、私がうまく発音できないのを笑う風だが嫌な笑い方ではなく、こちらも笑ってひとつ求める。どら焼きのような生地を揚げた皮の部分は玉蜀黍(とうきびorとうもろこし)だかなんだか穀物の味しかせず、中身はトマトと肉の組み合わせかと勝手に想像していたら肉気はまったくなく赤はトマトでもなく豆をくたくたに煮たもので赤はもともとの豆が赤いのかそれとも別の赤い材料が入っているのかわからない。先ほどから嗅覚だけで利いていた香辛料が口の中で強烈に弾け、同時に鼻まで逆流した。おいしいともまずいともいえず、ただただ初めて食べた味だった。旅先で初めて食した味は口に合わぬと切り捨てずとにかく食べる主義であるし空腹でもあったし求めたものは最後まで食べる。と、先ほどまで満天青空だったのが俄に(にわかに)灰色の雲が立ちこめ太い破線を描いて雨が落ちて来る。慌てて屋台の隙間の雨除けになる布のあるところに退避し、目の合った店主に「雨だね」と声をかけるとまたもや聞き知らぬ言語で「・・・だ」と言う。彼らの言語で雨を「・・・」と言うのかと問うとそうではない、雨のなかでもこれは特殊な「・・・」なのだと言う。pの音から始まりあいだに発音できないhに似た音が入り最後は曖昧なuに似た母音で終わる言葉だった。繰り返したがまたもや発音できないこちらに対して微笑が返って来ただけだった。
いつのまにか中東系の顔が少なくなり、大勢の人々が縁日の屋台が本宮まで続いているように道の先に皆が目的地としあるいはそこから帰ってくる場所があることに気づき人の流れとともに道なりに歩いていく。脇にスロープのついたコンクリートの階段を上がっていくと本殿ならぬ巨大な白い箱型のショッピングセンターがあらわれ人々はそこに吸い込まれそこから吐き出されていくのであった。買いたいものがあるわけではないのだがそこまで来たのだから本宮に参っておこうと中に入ると中も巨大な倉庫のようでありとあらゆる商品が見本品は別として箱のままで積み上げられ買い物客はカートを押しながら店の中を縦横無尽に歩きまわり箱のままの商品をどんどんカートに放り込んでいくのである。気づくと店員らはアフリカ系ばっかりで買い物客らは若いカップルで来ているコーカサス系がちらほら目に付くほかは見渡す限り東洋系の人々ばっかりでなかでもしゃべっている言葉から(普通話の)中国系が多い。買いっぷりの良いのもその中国系の人々でカートはたちまち商品の箱で満杯になりしかも家族みながその満杯のカートをそれぞれに押しているのである。私だって外からみれば立派な東洋系だがその人たちと同様に見られるのが癪なわけでもないのだが買いものが目的ではないのだということを誇示するようにカートは押さずしかし店内の小道を残らずまわると先ほどの屋台の道よりももっとどっと疲れがやってくる。それにしても屋台のところからして中東系とかここではアフリカ系とかコーカサス系とか東洋系とか民族系なんて虚構であることぐらい心得ているのに、なんだってこんなふうに綺麗に色分けできてしまうのだ?この地では?とりわけ謎なのがアフリカ系の人たちでこの地ならばもっとたくさんいてしかるべきなのに屋台通りではほとんど見かけなかった。この店の中でも客としてはほとんど見かけない。だが、この店の店員という店員、見る限りすべてアフリカ系の人たちなのだった。なんなんだこのくには?そういえば店の品物はなぜか白が多くていかにも白の店、白人の店、白人の趣味の店といわんばかりなのだ。(その割に客に白人は尠い(すくない)が)。よく見ると店のロゴらしいマークのそばに国旗があってそれはどうやら北欧系のくにの国旗なのだ。そのロゴと国旗の麗々しく飾られた店の真ん中にさらに上階に上がるエスカレーターと階段がありここは神殿をなぞらえて階段をどんどん上がっていくと最上階はテラスのようなところに出ていく。そこも真っ白に塗られていて白い大きな船の船首部分の甲板のようなしつらえになっている。遠くに海が見渡せる。ああ、こんなところに海が。海は沖のほうが泡立つような風情で綿を丸めて並べたようにも見える。船の舳先にあたる部分から下を覗き込むと波打ち際が見えたが波は押し寄せてはいず逆にすーっと引いているように見える。私の知っている海とは違うようだと思っていると、もくもくもくと遠くのほうで綿のように見えていた泡立ちがこちらに向けてゆっくりと押し寄せて来ているのが見えた。波が来るのだ。でもあんなに遠くから? 海を知らぬ身で何が正解かわからないまま再び階段を下り買い物客の喧噪を抜け階段を下り屋台の続く道までやってくる。

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