2019年5月10日金曜日

まいにち毎朝, 押し寄せてくる

 ひとがみな、なにかの待合せがあればきちんと約束の時間、約束の場に到着する。なにかの催しや会があれば遅れないように所定の場所に到着する。会社や学校には定時に必ず着いている。ある時間になるとある特定の場所に、そこに関わりのある特定の人々が、ちゃんと集まっている…。そういう事態が、なにか不思議でたまらない気がすることがある。
 自分がその時間になればそこに行っているべきであるということを頭に入れて、間に合うように各種交通機関を使って出かけ、到着する…ということがどうしてこれほど多くの人々に(というかほとんどの人間に)可能だというのが不思議だ。
 わたし自身はよく“抜ける”こともあるが、自分がちゃんと時間通りに行ければなにか奇跡のように思える。よくやったと誉めてやりたい気がする。毎日毎日まちがわないようにその日やるべきことをきちんと実行するなんて、まるで奇跡のようだ!
 記憶は一日ごとに再構築されている。昨日との連続線は毎晩寝るたびにいったん切れて、朝目覚めるときにゆっくりつなぎあわされる。「今日は何をするのだっけかな…?」と記憶をよみがえらせる作業をねぼけた頭のなかでゆっくりめぐらせているのがわかる。
 昨日と同じ自分のようでも少しずつ変わっていて、その不連続面は朝目覚めたときに最も大きくあるような気がする。子どもならば、昨日よりもひとまわり成長している。老人ならば、がくっとあるいは少しだけ昨日よりもなんらかの身体的機能を喪っている。病人や怪我人ならば、昨日より目立ってあるいは少しだけ回復あるいは悪化しているのが、朝の体調で自覚される。肥ったり痩せたり〔筋肉や脂肪がついたりとれたり)体格が変わるときも、毎朝毎朝のペースで更新されていると思う。
 カフカの『変身』が朝目覚めるところで始まっているのももっともだと思う。大島渚だったかが、「学生の自主映画はほとんどが朝目覚めるところから始まっているのですよ」と言ってたような記憶があるが、それももっともだと思う。
 朝目覚めるといきなり昨日との連続線が断ち切られていて、昨日までの自分でない自分になっている。『変身』はある日を境に引きこもりになってしまった孤独な男の寓話と見えなくもないのだが(そんな比喩的な読み方をしないほうが面白いことは面白いが)、昨日とちがう自分、昨日とちがう世界になってしまったら、もうどこへも出られなくなってしまうだろう。(いや「出かけなくてよくなった」といったほうがただしいかもしれない)。
 そこからまた別の連続線が始まり、家族のなかの“異物”(=虫)としての再構築が始まるのだが…。
 アンジェリーナ・ジョリーだかミラ・ジョヴォヴィッチだかが主演したなんだかのゲームを元ネタとしたSF映画で、その場にいる人物らがみんな記憶喪失に陥っていて、誰が悪者か、誰が良い者か、本人たち自身にもわからないというようなシチュエーションがあったと記憶する。
 なんか、それっておかしくない? 記憶喪失に陥る前“悪者”だった者は、記憶喪失に陥っているあいだ、どのような倫理観で行動するのだろう?(映画では、他者への思いやりなども常識的にある“普通に良い奴”の言動様式を取っていたような気がするが…。) で、記憶を取り戻した途端、自分は“卑劣漢”だったことを思い出し、悪人にふさわしい狡猾な心根を取り戻し、卑劣で悪い思考様式に沿って行動するというのだろうか?
 記憶がないあいだの“普通に良い奴”のそいつと、“卑劣漢”のそいつと、どちらがほんもののそいつなのか。
 悪漢になるなら、なるだけの個人史というのがあったはずなのだが、それが一気に襲ってくるか、一気に奪われたときにはどうなるのだろう? 一気に襲ってくるときの恐ろしさはどんなだろう?…それが毎朝繰り返されたら…?
 実際、それは毎朝繰り返されているのだ。それは毎朝、喪われたものへの哀惜ときっと満たされることのない虚しい願望のないまぜになった一瞬の甘い傷みのなかで“今日の自分”を再構築するとき、押し寄せてくるものの恐ろしさである。
 目が覚めたらなにもかもすっかり元どおりで、いちばん幸せなときのわたしであったなら…。しつこいぶつぶつがいっぱい手指にできる前の赤ちゃんみたいなやわらかい肌だったら…。胸とおなかに傷痕ができる前だったら…。老いのしるしも、癌の芽もまだ見当たらない、生まれたてのような肉体だったら…。これからたっぷり学びなにかを究めていく余裕のある若々しい頭脳だったら…。
 恋人が去る前だったら…(失われたものを惜しむ夢はいつも“去った恋人がまた戻ってくる”というかたちをとってあらわれる)。悔やんでも悔やみきれない、惜しがっても二度と戻っては来ない。いくら見ても見果てぬ夢。ぼんやりしているうちに空しい願いはひとつひとつ消去されて、はっきり目覚めたときには、ひどく貧弱な現実がぽんと残されているだけ。何十年間積み重ねた肉体の老い。すり減らした精神の衰弱。どこかで確実に生長している癌。手指は痒いし、部屋は狭いし、お金はないし、そばにいてくれる人もいないしね!
 或る朝目覚めて、(わたしならぬ)虫になっているのと、こんなふうに絶望的な“わたし”がどどっと押し寄せてくるのと、いったいどっちが堪えがたいのだろうか・・・?

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