2019年5月5日日曜日

ハアト

 脱走兵は、再現癖から逃げ出すことができない。オリジナルは信用してないからセコハンの、再現の再現のまた再現のさらに再現。デジタル音は劣化しないがアナログ音は三回目以降は目に見えて耳に聴こえて曖昧化していく。
 べつだん気にしているわけではないが。
 一週間ばかり、4分20秒のあのチューンだけを繰り返し繰り返し再生している。
 古墳あとにちがいないこんもり丘のやわらかくくびれたところから、浪速王朝の別嬪王女さまが寝かされていたに違いない自分の穴に帰った。まいにち愛人を狩ってくる御猟場の音合わせのざわめきが快い。カッターナイフのように細身を斜めにして萎びた街の空気をスカッ
スカッと切りながら、舞踊のあしどりトロット気狂いあるき急ぎ去って行くかの女の、顎の線と鼻筋しか残らなかった。
 今日の乾電池もたっぷり収穫された。これで一週間は大丈夫。布団がわりの古新聞など読まなくたってもう長いこと休戦していることはわかっていたので、脅えたふりして虚勢を張らずとも愛の行為に夢中になることができる。
 カチッとも音のしない光信号による指揮者の合図で、トランスに入るとまもなく、陽のあたる方角に優しいさんざめきが聴こえ、がらがらと竹の引戸を開けてニンフォマニアの妹がやってくる。いつものこけし模様の風呂敷包みとダンボール箱を抱え。さっさとかれの寝ているそばに座り込み、華奢な指先をあぶなっかしく走らせ箱の中から本日のクスリを取り出す。一本一本セロファン紙を破って、犬の皇子の巻にふと目を止め、糸のように縮れてゆるやかに巻いた体を怠惰に伸ばしてそれを再生した。ロンド・カプリチオ。
 おまえって奴はいつもそうなんだ。勝手にあがりこんで勝手におれのものに手を出して自分だけ楽しんだまま行っちまう。
 妹が振り向くのを知っている。媚びて微笑って(そんなことないよ。お兄ちゃんの傍にいたいから来るんだって。)それがかの女にいちばんよく似合う甘ったれ声は、軍服の左ポケットの中だけで聴こえる。
 偏愛する巻が終わるのを待たず、次のフレーズが始まるのを知っている。風呂敷を解いて、両親が詰め込んでくれたお芋やら缶詰やらお弁当の残り物やらソースのたっぷりかかった冷えたお好み焼きやら冷凍してタッパに詰めた人参入りカレーやら竹の子ごはんのおにぎりやら柿やら葡萄やらプリンやら・・・メニューはいつも決まっているのだ。お腹が空いていようといまいと。しかしいつも飢えている。ゆっくり演じられるスプーン一口ひとくちの変奏曲をがつがつむさぼり。はじめから軽く変敗している。発酵は巧みに抑制されている。
 その間を縫ってチックの呟きオペレッタ。ハイドロちっくに親鶏とのかけあいになりながら、だんだんこもりきる。(あたしって結構・・・結構・・・結構)しかり。しかり。(ウソ。ホント。ながいこと低能な女の子には悩みなんてないと思ってたでしょ? あたしって馬鹿だけど四文字熟語あまり知らないけど結構カンの良いヒトなんだ。あたし泣いてたんだから。うるうる怨んでたんだから。)否。否。否センチメンタルになるな。(あたしって結構・・・・アレなんだ。)然り。
 抜け落ちた黒髪の打楽器の音ながく延び、注射針は先で割れる。(いつも夢みてた。ぼおっとしてた。)お乳といわずミルク吸う口元めもと。おまえになめられて、おれはどんどん赤ん坊になる。(あッそうなんだ。)
 胸がつかえてげっぷする間もなくタンタンのフィルムが快い。妊娠もしてないのに(想像妊娠さえしてないのに)妊娠中毒症で脚がむくんでさ。(もう歩けない。)漫画の吹替えに聞き入っているうちに。可哀想だけどそろそろ時間だ。おまえを解剖しなければいけない。(いやっ。うそお!冗談)あばら骨を一本いっぽんハサミで伐り取り、ぴくぴく温かい心臓を掴み出す。大豆蛋白ばかり食ってるくせにこの見事に弾力ある不随意筋肉組織はどうだ。(あたし原型が見えるたべものはだめなの。お魚もお肉も野菜も果物もナマっぽい匂いがしてペケ。あたしが食べるのはケーキとハンバーグとジュースとアイスクリームだけ)文化も自然もへったくれもなくコーンスターチとレシチン人工甘味料グルタミン酸ソーダどっちゃりのテリヤキソースの香りのする妹のリンパ球よ。つらくて顔を見られないから、こうして後ろから抱き締めるよ。ほら触れただけでもういきそうだ。(うん)汗の匂い分泌物の匂い腺の匂い(ビタミン剤の匂い)。内臓の匂い(未消化のうんこの匂い)。ツンと鼻先にきて涙が出そうな血と胆汁と腐った廃棄物の匂い(鉄分の多い健康な新鮮動脈血)。この金ッ気を味わうためには、杜松の実で口臭を消さなければならない。余剰物ばかりがまわりに溢れる透明な反復運動。
 それでやっと思い出した。この妹には尻尾がある。
 尻尾ごと、啜り泣いている。
 音節は一つまたひとつとデクレシェンドする。眉がない。瞳がない。頬がない。鼻がない。唇がない。舌がない。(でも何処かしらに口はある。)顔が無い。重い髪の毛はだんだん軽くなる。ウドンゲみたいにふわふわ浮き上がる。しまいに刈り上げになる。つるつるのハゲになる。濃厚なエキスのある複数のクライマックス。
  幾百のレプリカ。レプリカの愛人。妹のレプリカ。またレプリカレプリカ再現するたびに薄くなっていく。強いメチルに声を殺し。涙を流す軍国少年の顔は初めっから見えていない。

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