2019年5月29日水曜日

アクチベータ

 チェックインが済むとクラークの男は私に小さな石鹸のようなものを手渡した。黄色みをおびた白の粉石けんを固めたような物体。「これは部屋の水系をアクティベートするものだ。部屋に入ったらまずこれを井戸に放り込め。それから5分待つと水が使えるようになる。」と言う。部屋に入ってみる。荷物を置き、窓を開け、ぐるりと室内を確かめると、なるほど部屋の隅に円筒形の腰までの高さぐらいの物体が床から生えるように立っているのが見え、これが井戸なのか?覗いてみてもそこは暗闇でかなり奥底の深いようで何も見えない。耳を澄ますと幽かに(かすかに)水の揺蕩う(たゆたう)音がするような気がする。気がするだけで確信がもてない。念のためバスルームの扉をあけ(バスタブがない。シャワーだけ。いまどきはこれが普通。ま、仕方なかろう)、洗面台のカランをひねってみる。何も起こらない。カランを締め直し、部屋にもどって件のアクチベータを井戸に投げ入れる。何秒かたって(かなり深そうだ)ちゃぽーんと響く水音がして確かにそれが井戸なのだとわかる。ベッドに座ってきっかり5分待ち、再びバスルームに入ってカランをひねると、少しためらうように空気がこぼこぼと出てきたあとに水が勢いよく噴き出した。てのひらで受け止めるとこの地にあっては貴重であろう冷たく清冽な水で、試しにコップに汲んでみるとさーっと水泡(みなわ)が消えたあとは塵ひとつ見えない、光に透かしてみてもおかしな色は少しもついていない、透明な美しい水だ。(が、もちろんそのまま生水を飲むわけではない)。
 再び部屋に戻って荷物の整理を済ませベッドに腰をおろして暫しぼんやりする。傍らにかつて付き合っていた女の幻像がいるような気がする。「あなたはそうやっていつも・・・」「あなたは・・・なんだから」。私のこれこれこの言動のこういう点が気に入らないから、ついてはここをこう改善してくれ、と言ってくれればよいものを、一気に「あなたはいつも・・・する」「あなたは(これこれこういう種類の人間)だ」になる。でも言われてみると彼女の言う通りで、確かに私はその種の人間なのだった。他人に対する気遣いに欠けている。言われてみると確かに他人のことなど気遣ったことがない。彼女のほうは気が利き過ぎるほど気が利いて、私がなにか身動きをするとすぐに私の必要とするものが向こうからやって来た。それがいちいち的確なので、初めて知り合った頃は気味悪いほどで、この女は自分の考えていることを悉く読めるのかと疑ったぐらいだ。いちど「不気味なぐらい手際が良い」と口にしたら「馬鹿」と言われた。のちのち世間ではそれが女性によくあるむしろ通常のことで、私自身が他者に対して気が利かなさ過ぎるということを学習した。それにしても(私の基準にしてみれば)かなり極端な学習だったと思うが。
 最後の喧嘩をしたのもこの地への旅だった。いま泊まっている宿よりもランク違いに高級なこの地で一二を争う有名なラグジュアリーホテルだった。ラグジュアリーといってもこの地だからかなりお得なのよ。だとしたらここを選ばなきゃ損じゃない?と言う彼女を憎んだ。着いた途端なにか些細なことで口喧嘩となり、いつものように私は言い負かされ不貞腐れ(ふてくされ)旅の疲れもあってそのまま大きなベッドを独り占めして眠ってしまった。目が覚めるともう夜で、部屋は暗く彼女の姿はなかった。私は煙草に火を点け(当時は吸っていた)暗いままベッドに座っていた。どれくらい待っただろう?わさわさと物音がして部屋のドアが開き、ぱたんと閉まり、彼女が帰ってきた。私に気づくと「あらあら暗いまま!どうして明かりを点けないのよ?」とかなんとか言って、明かりをつけてまわり、最後にベッドの傍に立つと私を見下ろすようにして「夕食、ひとりで食べて来たわ」と言う。そういえば眠りこむ寸前に彼女が「おなかが空いた。ちょっと早いけど晩ご飯に行こう」と言い、わたしが「まだ腹は減ってない」と答えた記憶がある。「どこで食べたんだ?」「この上のレストラン」「ホテルのレストラン?」(私だったらありえない選択)「こんな国では珍しい本格的なフランス料理ですごく美味しかったわよ。美いワインもあったし。」。私が腹を空かせていることはわかっているだろうに、わざとそのまま突っ立っている。「街に出ないか?」「何しに?」「決まってるだろう。オレの晩ご飯」「もう食べたし」「お前は、だろ」。なんで付き合わなきゃいけないのよ?と目が言っていたが、口には出さなかった。そのままたっぷり時間をかけてわたしを見下ろしている。当時の私は(これも今とちがって)昼食であれ夕食であれ独りで食べることには耐えられなかった。それも知り尽くしている彼女は、さああなたに恩を着せるわよとばかり十分に時間をとってわたしを睨め(ねめ)つけた末に「いいわよ。じゃ行きましょ」と言った。
 その地は高低差のある道の入り組んだ街で、あたかも平地に一応の区画割りをしたあと空から大きな親指と人差し指が降りてきて土地をぎゅっとひねりあげたかのようだった。ひとつの道をたどるとそこは曲がりくねり、上ったかと思ったら下っていく。ぐるっとまわるともとの交差点に出る。そこにはあらゆる肌の色の人間がいて、そのなかでもいろんな民族系、ちいさな部族系がいるようだった。ブロークンな英語がどこでも通じたが、それとはべつにこの地の共通語もあるようで、「こんばんは」と「ありがとう」だけはその言葉を覚えて言うようにしたが、どうやらそれもこの地の多数派の言語であるに過ぎないらしく、そうではない耳慣れないアクセントや発音のおしゃべりをあちこちの隅で耳にした。「ありがとう」は何度も聞き何度も口にしたが、どうもそれを口にするタイミングがこの地の習慣と異なっているらしく、「どういたしまして」にあたる言葉を言うべきときに「ありがとう」を言い、逆のときに逆を言っているようではあるが、「どういたしまして」を言うべきときにもけっきょく「ありがとう」を連発してしまい、また変な顔をされるのだった。
 お祭りではない普通の夜だったが、街は明るく喧噪に充ちていて、皆が楽しみ興奮し「踊ろう」「踊ろう」と口々に言っているかのようだった。わたしは歩きまわるだけで愉快でたまらず、あちこちの細道に折れては迷子になり、またもとの交差点に出、また異なる人々の群れに目をやり耳を傾け、すべての路地に足を踏み入れねばおさまらない勢いだったが、彼女が次第に疲れて不平を言ったので、レストランに入ることにした。英語で「東風」という名が添えてあるが土地の言葉で「×××」という名前が大書してあってそれが屋号であるらしい。ウェイトレスにこの店の名はどう読むのだと聞くと「×××」と言い、復唱すると笑っただけでそれが正しい発音なのかどうかわからない。一般的な「東風」というのではなく、どうやら土地に吹く特別な風の名称であるらしい。料理は土地の材料を使って少し中華風のアレンジがしてあるようで、美味かった。土地の酒も美味しかった。連れはもちろんあまり手をつけなかったが私はもりもり飲み食いした。彼女はすぐ帰りたがったが私はそのまま帰りたくなかったので、踊る店を見つけて入って少し踊った。彼女は見ているだけだった。
 ホテルに戻るとフロントクラークの女性に「明日は東風がきついようですから窓をしっかり閉めておやすみください。」と言われ「×××のことか?」と訊くと莞爾(にっこり)笑って「そうです。」と答えた。翌朝、東風は来なかったようで至極平穏な朝を迎えたが、その代わりとでもいうように彼女が消えていた。書き置きもなにもなかった。そしてそのまま私の目の前にふたたび姿を現すことはなかった。
 それからもう20年以上が過ぎている。同じ街の同じ入り組んだ街路なのに猥雑さがかなり薄められ、小綺麗になって世界のどこでも目にするチェーン店もわざわざ目立つように見かけられた。人々の活気も心なしかややトーンダウンした感もあったが、それでも「踊ろう」「踊ろう」と口々に言っているかのようであるのは、変わらないこの地の気質のようにも見えた。広場のあったところに出ると20年前にはなかったガラス張りの筒状のビルが建ちその前に大きな噴水ができていて、夜ともあって色とりどりのイルミネーションがほどこされ、大小さまざまの噴水がリズムにあわせて水のショーを繰り広げるのであった。人々はそれに見入ってのんびり噴水のまわりに座ったり寝そべったりして冷たい水がかかるのをむしろ喜んでいた。20年前に入った「東風」なるレストランは見つからなかった。場所も正確には覚えていなかったが、たぶん新しい店になったんだろう。
 20年前のフロントクラークの女性の言葉を思い出し、このホテルでは尚更であろうと思い窓をしっかり閉めて眠ることにした。白いペンキのところどころ剥げた木製のぼろっちい鎧戸である。
 翌朝、鎧戸の割れ目や隙間から針穴写真機のように入って来る光が美しくその眩(まばゆ)さに目覚めたつもりが、光ではなく音で目が覚めたことに気づく。それは鎧戸をがたがた揺らせ隙間から入り込んでこちらのガラス窓まで激しく打つ風の音だった。窓の傍まで寄ってみると、外を相当な勢いで風が吹いているらしい。風が捲き揚げるのか、砂がざざっと鎧戸にぶつかるような音も聞こえてくる。東風か・・。それにあたる土地のことば「×××」を忘れてしまっていた。風が収まるまでしばらく発てないな。窓も開けられない。隙間から入る光が外の映像やいろんな色の光を映して部屋のなかをダンスするようであるのを、そういえば針穴写真機はもとはカメラ・オブスクラというのだったっけか。カメラというのはいまのイタリア語でも部屋を意味するのだった。などとぼんやり考えながら・・。そのカメラに閉じ込められゆきかう光の戯れのなかにいる我を愉しみながら・・。

0 件のコメント:

コメントを投稿