2019年5月25日土曜日

内辺

昔から在る繊維系の卸売市場の広い敷地がありそれを周囲から突き刺そうとするかのように鋭く図々しく割り込んでくる新しい(といってもそれほどピカピカに新しいわけではない)ショッピング系のビルがいくつかありそのあまった隙間を体裁だけ公園にしたものだからその公園はずいぶん変なかたちをしている。あまって突き出たところに言い訳みたいに何かの碑が立っていたり(現地の字で書いてあるので読めない。いや一字一字発音することはかろうじてできるが意味が分からない。)現代彫刻が突き刺してあったりする。管理事務所かそれとも何か小さな博物館でもあるのかと疑った立派なガラス張りの建物は単にトイレがあって地下の自転車置き場につながるだけの建物であった。三つの地下鉄駅からちょうど等間隔ぐらいの距離にありどこに行くのもどこから来るのも不便。というか、わざわざこの公園を目指して来る人はあまりいないと思われ一つの地下鉄駅から別の地下鉄駅へ歩いて移動しようという人なのかここを突っ切るのが一番近道とばかりに通り道にしている。それでも帰宅時間にあたるであろうこの時間帯にそれほどの集団移動はなくサラリーマン風OL風が三三五五急ぎ足で通り抜けていくのみ。のんびりしているのは近所の住民たちか犬とか幼児とか荷物とかあるいは杖だけとか連れて公園の変なかたちの内辺に沿ってつつましくしつらえられたベンチにもっとひっそりぽつぽつ座っている。そんな公園もそれが唯一の美点なのか(あるいは欠陥なのか)開発の残滓の地の歪みの名残なのだろうおもしろい高低差があってそれが斜面だったり段差だったりするもんだからスケボー少年たちの格好の餌食である。この地のスケボー少年たちはみんな白い顔をしていて端正な顔だちの子も素朴な顔の子もいればおしゃれな子もそうでない子もいるが全体的に上品で育ち良さげに見える。現地の言葉で遠慮なく声かけあいながら滑っているのがまるで鳥の歌のように聞こえて心地良い。
ああ、いいな。夕暮れのこういう気分がいいな。その頃はその国のことばをほとんど解さなかったわたしの耳に少年たちがほたえる(「ほえたてる」の誤植ではない自動詞「ほたえる」)声はメロディとしてごくごく近しいのに意味は殆ど分節せず気分だけはすこしわかって心地よくてたまらない。わたしはわたしも付近住民なんですという顔しておんなじようにひっそり気配を殺してベンチに座り急ぎ足で通り抜ける帰宅民らを横目で流しながらスケボー少年たちをぼんやりうっとり眺めているのだった。

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