2019年5月5日日曜日

とさか

 電気屋の広告塔のてっぺんが禿頭のように波のあいだに隠れるのを横目で見る。それがめじるしで入り込む通りの裏手の露地は、いつも七五三の樟脳の腐った匂いがした。
 表通りには豚の臓物を白味噌で煮込んだ喧噪が覆っていたが、こちらに入ると塀を立てたようにしんと静かだ。
 新喜劇の書割のようなしもたやの並びに、めざす理容院のキャンディー棒が認められる。
 無愛想で無遠慮で無作法で不器用でおまけに不気味でさえある床屋の主人は、わたしが忍び入るなり
「また来たね」
と迷惑そうにリノリウムの床めがけて吐き捨てた。
「ここに来るのは初めてだけど」
と言うと、
「なんでそんなこと確信もって言える? おれにはもって生まれたハンチってものがあって、学士せんせごときに教えて貰わなくたって、既視感覚と現実の間隔の区別くらいつくのさ」
と鼻を叩いてみせる。
 斜向かいの角の三流館で何の映画がかかってたかすぐ思い出した。議論したってはじまらないたぐいの輩だ。
 ふと見ると、店主の飼っているなまいきそうな顔をした九官鳥までが加勢の様相。あのつるんとした毛羽も店主の美髪技術のたまものだろうか。
 ガラスの向こう側でプロデューサ兼エンジニアがヴォリュームを上げたように、外界が俄にうるさくなってきた。子供たちの遊びさわぐ声かと思ったが、すりガラスを通してみても人っ子ひとり見えない。中性子が降り注いでノイズをたてているのだろうか。全身の皮膚がちくちくするような蝿の音。早く、気持ち良く鬚でも剃ってもらいたい。
 店の中のたったひとつの椅子に座ると、外のノイズはしばらくたゆたったあと、すっと消えた。
 わたしはその日、童貞喪失の日のためにと母が誂えてくれた枯葉色のソフトスーツを着込んでいたが、椅子に座らせるなり店主は裁ちばさみを振りかざし、そのスーツの背中の正中線に沿ってジョキジョキジョキと切開するのだ。それから前へまわって前髪をひと房またジョキンと切除。ショックだったがこれも儀式なのだろうかと、わたしは声ひとつあげず虐待に耐えた。
 背中のぱくんと開いたスーツの上に貫頭衣をすっぽり着せ、得意そうにわたしの頭のサイズを目測しながら、店主はとろとろに白いひげそりクリームをといていた。懐かしいおとこの性のにおいがツンと立つ。
 わたしは自分の爪先をぼんやりと見つめながら、ここにさっき通り過ぎた血がまた再びめぐってくるのは、どれくらいの間なんだろうと脈の速度を計っていた。この手が問題なんだ。ごつごつした手先と、大きな足先。どんなにうまく隠したつもりでも、これだけは気づかれてしまう。それがなければ美男だから、うまく装えば女でとおるのに。
「兄ちゃん」
といきなり割り込む。
「戦況はどうかね?」
 相手にしたくない。
「黙ってたってあんたの言うことくらいは想像つくさ。帽子の網の目がうたってくれら。ああ、でもあんたら無口な奴らのご意見など信用しないさ。戦力評価がどだい間違っている。新世界のルンペンプロを安く見積らないことだね」
 つい乗せられた。
「きみはどう思うの?」
「思うことと実際に起こっていることとのあいだには必ず乖離があるさ。そうだろう? それに実際に起こってたってそれが現実とは限らない。そうだろう? 公式発表は盲だし歴史的評価は嘘っぱちだし、そうしている間に流れにまみれて無名戦士も有名ヒーローもどんどこ倒れていく。それを事細かに描写したところで彼らを軽蔑したことにしかならないさ。そうだろう? あんたの質問は馬鹿げているね」
 見事にはめられた。こちらがムッとするだけ得意になる。
「うん。まだまだ青いね。このひげそり跡は大好きだよ。あと三時間もすればまた不精ひげになりさがるってやつだ」
 掌でわたしの顎をくるくると撫でまわしてその厚みと温度とを測っている。(わたしがいつも愛人のふぐりをそうするように)
 ふと思い当たった。
「では訊くが」
「よし、それでなくちゃ」
「きみはわが国の建国神話の重要なキャラクターの一人だ。そうだろう? 別にわが国特有のものではなく、どこの文明にも普遍的に見られる人物像だ」
「おいおい、おれに名前を授けてくれようってんじゃないだろうな。大きなお世話だよ。入ってくるとき気がつかなかったかね?」
「店の名前ならもちろん見たさ。ずいぶん長い屋号で忘れてしまったけれど」
「よろしい。何と名付けようと明日は違う名称になっている。メラニー小母さんの壷、逃亡者エヴァンス、どんどん逃げる消失店ってのがキャッチフレーズなんだ」
「だけど床屋には違いない」
「明日はまた商売替えするさ」
 それは知っていた。いつだったか子供の頃によく前を通ったここは、鳥や獣の剥製や音の出そうにないギターや複雑にごてごての抽出の組み合わさった開きそうにみえない箱やこれはガイジンのものだと教えられた奇妙な器物の数々などがはたきの隙間に積み上げられてある古道具屋だった筈だ。あの頃の緑色の看板にどんな記号が書かれていたかはもう忘れてしまった。天狗か天邪鬼かに違いないという思い込みは、たったいま記憶のなかに捏造したものだろうから。
「嘘だよ」
 わたしが少し黙り込んだのを勘違いしたのかちょっと同情するような口ぶりになった。
「今日の床屋は明日も床屋だ。その次の日も、昨日が床屋だったからまた明日も床屋だ。そしてその次の日も、また次の日も。言葉と記憶がある限りそうだ」
 自分を憐れんでいるかのように
「この無限に見える退屈に罠がある。ひょいとつまんだその日には、床屋はいつのまにか温泉マークに変身してるってわけさ。その瞬間を知っているかい? 記憶が消滅するその瞬間に出食わすことって。ふいに目の前の点が霞になるって。恐ろしい経験だ。あんまりたびたびするもんじゃない」
「僕なんかしょっちゅうだよ」
「本を読んでる人種はこれだからきらいさ。その気になってるだけなんだ。現実に毎日毎晩欠かさず横町を曲がらないと、そんな経験するわけないさね」
「毎日歩き続けていると称する人間はこれだからきらいさ。ただ漫然と歩くだけで僕より先に行っているとなんでいえるんだ? 道もろくすっぽ知らないくせに」
 パチパチパチと鋏を立て続けに鳴らした。
「ちょっと元気になってきたね。それでなくっちゃ」
 注意ぶかく切断の長さを測るふりをしながら
「道を知らなくて歩く奴がほんとに土地勘のある奴っていうんだ。アジア人は歩く人種だ。そうだろう。走ることしか能のない毛唐の尻馬にぶらさがっている奴にはわからないこともあるさ」
 指先に残った髪の切れ端をためつすがめつ眺めて、気に入らなかったらしく、えいと小声で背後に投げ捨てた。
 口答えを反芻してみたが、またくだらない突っ込みをされそうだから黙ることにした。
 幸いおやじのほうも、審美観だか数列癖だかの想念にかられているらしく、しばらくわたしを忘れてくれた。
 鋏を使うリズムに身を任せて、わたしは離れてきた戦場に思いを馳せた。わたしは当事者なのだから、世界の父親を気取る写真家の見るように見るわけにはいかない。しかし韜晦からも特権からも逃げたかった。袖の横を砂嵐が吹き上げていく夜、人間たちには冷酷で豹だの鰐だのに対してだけ家族のような愛着をもって接すると告白したおばさんルーテナントは、わたしを愛してはいるが同じテントの下で寝るわけにはいかないと耳元で聶いて、一途な少年の想いを砕いたものだった。共栄圏の再来を夢み**族との連帯をぶちあげるくだらない女だったが、わたしは勝手にこいびとと決めつけていた。その翌日はまた闘いだ。めくるめく花崗岩の飛礫またつぶて大理石の卓またテーブルうごめく成金矢印に継ぐ矢印戦ペイントに次ぐペイントのまた上塗り。敵も味方も、核兵器に化学兵器に生物兵器に神経戦にありとあらゆる手数足数を持っているのは周知されているから、マンモスコンピュータの情報戦によって相手を弱らせ封じ込めるコア戦争しか方策はなく、しかも可能性もノウハウもついでに憎悪も無限に近くあった。戦闘の担い手はいわばウィルスだから光学顕微鏡で見えるわけはないが、死人は正しい確率で毎日出ていた。素人観察家がどう言おうと闘いはまだ決着がついたわけではなく、明日はまた戦場なのだ。識閾下戦術が眉唾だとはとっくにわかっていたが捕虜の数値を正確に掴むアルゴリズムはまだ確立されておらず、ほんとのところこのわたし自身、敵の側なのか味方の側なのか確信が持てないでいる。
 ふいに鶺鴒の尾羽根を打ち鳴らすようなぴたぴたぴたという聲が聞こえた。「一寸」よりも好きな「鳥渡」というコトバを思い出した。好ましい刺激。すぐに消えたので、店の外の何かか、おやじの鋏の擦れ合う音か、わたしの耳の中で鳴ったのか、特定できなかった。内耳の蝸をめぐる血流を聴きたくて、わたしは目を瞑った。
「オーカイ、兄ちゃん。どんなふうに切ってほしい?」
 九官鳥が嬉しそうに羽根を二~三度ばたばたさせながら繰り返した。
「切ってほしい? 切ってほしい?」
「なに? なんだって? 髪型のこと?」
「ほかに何か切ってほしいものでもあるのかね?」
「もう随分切ったじゃないか。今ごろ訊くなんて」
「これが家元の流儀なんだ」
 わたしはふくれた。
「どうでもいいよ。そもそも髪をどうかしたくてここに来たわけじゃない」
「テーマは喪失だからな」
「そこまで言ってない」
「いずれにせよ、あんたのイメージは、ここを境にドラマチックに転回するんだ。ここに来なくても同じことだがね。髪もひげも鼻毛も、昨日と今日と明日じゃ随分変わっているのさ」
「おとうさん、哲学者だね」
 鼻先で嗤う振りをしたが内心動揺していた。かれの言葉に震えたのではもちろんない。記憶がよみがえったわけでも、ましてや髪のなくなる不安でもなかったが。
 ここにはやっぱり来るべきじゃなかったんだ。どうして来てしまったんだろう?どうして戦闘中のあの戦場をおきざりにしてきてしまったんだろう?休暇なんかいらなかったんだ。あそこではあんなにほしかった休暇なのに。でも取るべきではなかったんだ。
「おおっ、見つけた!」
「今度は何さ」
「ここがあんたの性感帯だね。へへ、そうだろう?」
 決めつけディスクールにはもううんざりだ。
「別にそこだけが感じるわけじゃないよ」
「ここだけとは言ってない。ここもあんたのひとつのクリトリスってだけさ」
「きみの言うところのものに関しては、僕は持っていないほうの性だ」
「普通それを持っているほうの性だと言うんだぜ。知らないわけでもなかろうに」
 何をかいわんや。
「あんたの髪型は神代の昔からちゃあんとおれの頭ん中にあるから安心しなって。敵か味方かを区別するやりかたなど、百万のヴァリエーションがスタイルブックにあらかじめ書かれてある」
 また見透かされたような気分になって脈が波打った。
「見なよマツダランプの燈台だ。うちの店はちゃあんと味方さ。あんただってそのとおり。彼方を気取ることなど所詮できないって」
 否やっぱり理解されてない。ほっとした。
 とともに、やるせない侮蔑が胸に溢れかえった。なんでこんな低脳を相手にしてんだろ?僕にはやるべきことがあるはずなのに。行くべきところがあるはずなのに。
 かるい焦燥感そして倦怠感。ちょっと元気になった九官鳥は、カタログの名付けられたスタイルを次々にまくしたてていた。再現しようにも、そんなものに興味のないわたしが覚えきれない、口当りの良い横文字の、エスカレートするごとに長ったらしくなりまたシンプルに収束するネーミングの増殖。
「こら調子に乗るな!あほ」
 店主が鳥籠を睨みつけて鳥を脅した。
 鳥は餌をくれる主人の言いつけに素直に従った。
 また鋏の音だけになった。
 それからバリカンのグわーという音になった。ガーがジーになりまたガーになる。
 また鋏。
 剃刀。
 鋏。
 バリカン。
「ところで、うちは化合物半導体どころかレーザーメスもあるんですぜ。なんなら切除手術もいたしますがね」
「折角だけど、僕の癌の部分はちょうどうまい具合いに敵の戦闘ガンがくり抜いてくれたよ」
「そりゃラッキーだったね」
「宝くじなみさ」
 また鋏。
 そして剃刀。
 さっき鶺鴒かと聞いた音が、また執拗に耳を撃ってきた。小さな音だけど耳元でしつこくしつこく聞かされると、メガトン爆発をウォークマンで聞いたみたいな気分になる。
 黙っているとわたしの顔に白粉をはたき、眉を描き、瞼を染め、唇を塗りつぶし、爪まで丁寧に整えてくれた。
 最後に、おやじは油でセットしたちょび髭をこすりながら、黙って鏡を見るようにわたしを促した。
「もうできたの?」
「仕上げの早さが売りさ」
 わたしの貫頭衣を取り去り、勿体つけて鏡の覆いをさっと引き剥した。
 わたしは三歳の頃のわたしに戻って、うっとりと鏡の中の披露を見つめた。
「これなんていうスタイルなの?」
「俗称モヒカン。通称サンシャイン。尊称アデレーダ。卑称は発音不能。ただしい名前は秘密とされている。王様の髪型だぜ」
 それから店主は、店の奥から腕一杯の羽根飾りを抱えて来て、一つひとつ由来を確かめながらわたしの頭に挿していった。赤道直下の赤や橙や緑や黄や紫。ささやかな満艦飾だが、これが平時における王様の普通の装飾なのだそうだ。
「戦場に出るときはどうするの?」
「あんたはもう戦場には帰らない。そうだろう? もう戦闘員としての資格を剥奪されたのだから」
 ああそうだったのか。
 なつかしい認識。
 悲しくはなかったが、四肢から一気に気が抜けるのを感じた。
「僕は、死んだの?」
「そうは言ってない。俗信に依れば、あんた自身にとってあんたはいつまでも生きている。死んだ瞬間など自分にゃ見えないもんな」
「僕の恋人と、僕の愛人と。それから・・・おかあちゃんはどこにいるの?」
「おれに訊くことじゃないな。外へ出て誰かに教えてもらいな」
 入っていったときとはうって変わって満面の愛想をたたえ、ガラス戸をわざわざ開けてくれてわたしを送り出しながら、店主はまた蛇足を加えた。
「兄ちゃん。おれの理想のマッチョスタイルを知ってるかい? アフリカの三波ハルオと呼ばれている例の鶏の歌手だよ。あんたみたいな可愛い少年兵には、思いっきりの愛をこめてワザをかけるのさ」
 露地に一歩足を踏み出したわたしは、その瞬間からもうあぶくの合間におぼれて、唄の最後のフレーズを聴くことは遂にできなかった。

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