2019年5月18日土曜日

佐野和宏の指

「マーサーユーキー」
「マーサーユーキー…」
 いつもの間延びした呼び方で篤彦の呼んでる声が聞こえる。
 声の糸に引っ張りあげられるようにとろとろと夢から目が覚めてみると、呼んでいるのは島ちゃんだった。

「マサユキ」と、みじかく呼ぶ島ちゃんの声。
「ああ…」
「よく寝てたね」
「うん」
「また夢見てたの?」
「うん」
「いつもの夢?」
「うん」

 ちょうど映画と映画のあいだの休憩時間で、『荒野の決闘』の主題歌が流れていた。
 『黄色いリボン』のあとはいつもこれ。で、そのあとはいきなりマカロニウエスタンになって『夕陽のガンマン』。
 映画産業華やかなりし頃は、この映画館もいつも満員の客を呑み込んでいたのだろう。そのときにかかっていたのが西部劇なのかもしれない。あるいは単に現在の支配人だかオーナーだかの趣味なのかもしれない。ここはいつも西部劇のテーマ曲がかかっている。
 天井が高くてスクリーンが大きくて、館内のどこの席からでもゆったりと映画を見ることのできる、とても良くできた映画館。
 いまはピンク映画専門館だ。

  Oh my darling, oh my darling,
  Oh my darling Clementine....
  You are lost and gone forever,
  Dreadful sorry, Clementine.

 西部劇の主題歌にしてはなんて甘い歌。でも映画好きではないひとには、ただの男男した「雪山讃歌」に聴こえるのだろう。
 この歌を聞きながら寝入ると、決まって床屋の夢を見る。
 男とセックスするときも、決まってこの夢を思い出す。
 夢のなかに分厚い靄のように漂って推移していくあらゆる音が、耳のなかにつぎつぎと聴こえてくる。

 ちきちきちきちき…と、小鳥が嘴をたたく声
 床屋のおやじが鋏を叩く音。
 ぴたぴたぴたぴた…と、小鳥が尾羽をたたく音
 床屋のおやじが頬をたたく音。
 バリカンのグわーという音。
 ガーがジーになりまたガーになる。
 そして殺人者たちが大仰に登場し、白い布を大きくはためかせる。鏡を割る。
 鏡の前で明日の死人たちが、怯えるほどに強がってみせて、胴震いしながら敵を威嚇する。
 そしてそれが、すぐ映画の決闘シーンに直結する。
 ばきゅん!ばきゅん!ばきゅん!
 どすん!うがー!ばたん!
 歴史的な事実ではごくわずかの持続時間しかなかったOK牧場の決闘が、映画では何倍もの長さに引き延ばされたと、なにかの記事で読んだかな。

 サラリーマン風ハゲオヤジと一戦終えて席に戻ってくると、スクリーンのうえでは佐野和宏が派手な発射音を響かせながらピストルを振り回している。
 西部劇ではなく、明らかに香港ノワールをパクったガン・アクション。ジョン・ウーばりのスローモーション。
 でも演出なんてどうでもいい。オレがピンク館に足繁く通うのは、佐野和宏に会うためでもある。
 この突出した映画俳優は、相手が男だって女だってかまわず、そうすることが当然のようにあっさりと、暴力的にしかも優しく、相手のからだを奪ってみせる。ファックする。
 佐野が画面に登場するとオレはおもわずためいきをついてしまう。
 隣に誰が座ってようが(もちろん島ちゃんであろうが)つぶやかずにはいられない。
「あいつにヤられてみたいな…」
 それが隣に声をかけるきっかけになったりする。

 島ちゃんとは幼稚園時代からの幼馴染み。
 小学校の半ばくらいから篤彦が加わり、三人で高校卒業までいつもつるんでた。
 からだのでかい篤彦は、小柄な島ちゃんとやせっぽちのオレとのボディガード役。なぜか女の子によくもてたオレたちふたりから、女の子を払いのける役割までしていた。
 島ちゃんはそれでもしっかり自分好みの女の子を確保してつきあっていたけど、オレは篤彦がそうやって難癖つけて払いのけてくれるのをこれ幸いと、あんまり女の子とつきあったことはなかった。
 かといって中学までは自分がホモだなんて自覚もなかったけどね。…オレって性欲が無かったんだ。なんか周りの男たちがみんな毎日毎日性欲が溢れて困るみたいな話ばっかりしてるのがものすごく奇妙で、別世界のドウブツであるような気がしていた。
 篤彦は、はっきりとは言わなかったけどオレにひそかに恋してたらしい。でもオレは篤彦とはいつも距離をおいてつきあっていて、あいつの気持ちを知っててわざと島ちゃんとばっかり仲良くしてたりした。
 実際、なんでも秘密を打ち明けられるのは島ちゃんのほうで、篤彦に対するときにはなんだか一枚壁を隔てて接しているような気がしていた。卒業してから大学が離ればなれになって、彼とはあんまり会わなくなってしまった。

 でもなぜか、オレがなにかをするときにはいつも(なにかをしなくても)、いまでも篤彦の声が耳の奥から聞こえる気がする。
「マーサーユーキー」
「マーサーユーキー」
「マーサーユーキー…ったら」
「なにやってんの?」

「なにやってんの?」
と、耳の奥だけに聞こえる篤彦の声にこたえながら
「オレ、なにやってんだろ?」
と、その言葉を自分で反芻する。
「篤彦、オレさぁ……」
「……オレ、いま、ピンク館でウリやってる」

 あれはまだ高校1年頃だったとおもうけど、島ちゃんとふたりでこの界隈で遊んでたときに男に声をかけられて、君達なら一晩10万は軽く稼げるけどどう?って言われた。
 すぐ見当ついてそのときは逃げたけど、また示し合わせて島ちゃんと出かけた。
 しばらくは男子高校生としての節度を保って(笑)?ウリはやらずにいたのだけれど、また、お尻だけは処女でいようね(笑)と互いに約束もしていたのだけれど、あるとき気づいてみると、ふたりとも互いに黙ったままいつのまにか両方のハードルを易々と越えていたのを、どちらともなく告白しあった。告白して笑いあって、もっと友達度が深くなったような気がした。
 篤彦は、そのことを知らずに卒業していったけど。

「篤彦、オレさぁ…………ピンク館でウリやってる」
「えーーーホント?」
「ホントだよ」
「そんなんでお金になるのぉ?」
「ならないよー。小遣い貰うだけ。だからただの趣味。密やかなお楽しみ」
「お楽しみかーーー。なにが楽しいのーーー???」
「なにが楽しいんだろーねー? 自分でもわかんないやーーーー」

 ほんとはわかってる。
 このオレのからだを承認してほしいからだ。(シャレじゃないけど)。
 オレのからだ、どんどん変わっている。自分でも怖いくらい、まいにちまいにち変わっていく。
 生まれてから20年経ったある晴れた日に、初めて自分はオンナだと気がついた。
 それから3年してようやく認めてくれるオトナがいて、コレは治療できるのであると説得されて、ホルモン投与が始まった。
 元からのオンナだって化粧っけなしに汚いジーンズで歩き回ってるやつがいるように、オレは化粧とか女装とかはホントは嫌いだけど、医者にいくときには女装しないといけない。女言葉も嫌いだけど使わなければいけない。心理的にも行動的にもオンナとして振舞わないといけない。とってつけたようにそうやってオンナを演じると、たいていのひとがオンナだとおもってくれることは、あるていど(オトコやってたころから)知っていた。
 だけど、いつものきったないジーンズ穿いてぼさぼさの頭で出かけると、やっぱり7・3ぐらいの確率でオトコに見られる。この映画館のモギリのおっさんは付き合い長いし、オレをオトコ以外のなにものかであるかもしれないなどと疑ったこともないだろう。引っかける客のオヤジの大半も、疑いなくこちらをオトコと見るようだ。
 それでもホントはオンナだし…
 ニセモノだった部分がどんどんとれてホントのオンナになっていく…。
 どこまでがホンモノでどこからがニセモノかがわからないくらい…
 急速にホンモノになっていく。日が替わるごとに、なにがホントだったのかわからなくなってくるのだ。
 だからそんな自分が怖くて、一日ごとに、だれかに自分を承認してもらわないと、いてもたってもいられなくなる。(こんなことは医者には言えないけど)。
 自分を、というよりは、自分のからだを。
 だから、ちゃんとからだを見てもらうことが、必要なのだ。
 見てもらうだけでなく、抱いてもらうことが、必要なのだ。

 とりあえずキスから始まるもののすぐに股間の的へと延びるテキの手をとって胸に導く。
 ささやかなふくらみにふれると、オヤジたち、気色悪げな顔をしたり、バツの悪そな顔したり、嫌悪感を露わにしたり、好奇心むきだしにしたり…。その顔をたしかめながら上半身を半ば露わにして、十分に自分のからだを見てもらう。
 オレのからだをみつめる相手の目をたしかめたうえで、テキのもう片方の手を今度は股間に導く。と、相手がみるみる安心するのがわかる。
 無言でやり終えるのがある種の作法みたいなもんなので、そのままなにもコメント聞かずに終わることも多いのだけど、「ニューハーフってやつか?」みたいに聞くやつもいる。
 曖昧に肯定する。どう呼んでくれてもかまわない。
 ほんとはオンナだってことにも自信がない。
 オレはオレだなんて陳腐なことを言う気もない。
 ただ、このからだを見てほしい、抱いてほしい、だけだ。
 そのつど、見知らぬオヤジたちに。
 あるいは、映画のなかに入っていけるものならば、あのオトコのかたまりみたいな佐野和宏に?

 ほんとは島ちゃんがいちばん好きだ。
 でもこんなにつきあいが長いのに、もちろんガキの頃から互いの性器もなにもかも知ってるし、性的なふざけあいっこもいっぱいしてるのに、オトナになってからは一度も性関係を持ったことはない。
 持ってはいけない、とすらおもっているところがある。

 島ちゃんは立派なバイセクシャルで、ホモのオヤジ相手にウリ始めてばりばり稼ぎ始めてからもつきあってる女の子がいて、30になれば結婚するのだという。カノジョに操たててるつもりなのか、女相手のウリはしない。
 もちろんピンク館で気まぐれのように男ひっかけるなんて金にならないから、ちゃんとあちこちの店と契約してしっかりがっちり稼いでいる。オレには言わないけど貯金もしているらしい(笑)。
 週に一度ぐらいここをのぞきに来るのは、オレのようすを見に来てくれるためだけだ。
 オレに向かって直接は言わないけれど、だれかに「あぶなっかしくてみてらんない」みたいなことも言ってたらしい。
 ついでに、高校の頃からオレとおんなじ映画オタクでもあるから、新作のピンク映画をきっちりチェックしていく。期待の新人監督が現われたりしたら、そのことで話が弾んだりする。

 島ちゃんが、契約してるお店につれてってくれて飲ませてくれる。ときどきここで会う変な女三人連れとまたおしゃべり。
 サッカーボールみたいな顔と体型していつも元気で勢いのあるブスのマルは、17のニンフォマニア。
 ペコは、基本的に美人系なのになぜだか頬から目の端にかけての皮膚がいつも突っ張っていて変な顔。ちょうどマルの倍の齢だっていうから34でバージン。
 キナコは20代半ばのMtFレズビアンで、身長が180cm以上あるのが悩み。
 この三人がいつもつるんでる光景もなんだかおかしい。
 ペコはバージンの強みで妄想だけはどんなことでも妄想するという。ハル・ハートリーの映画でそんなキャラクターがあったな。ニンフォマニアでポルノ作家でバージンの女。イザベル・ユペールはとてもそんなふうには見えなかったけど…(笑)。
 妄想のなかでペコは男にも女にもなるし両性具有にも性別の無い存在にもなんでもなるという。相手も男でも女でもなんでもかまわないし、どんなシチュエーションでも、どんなセックスでも、なんでもやる。でもそれはオナニーのおかずとかいうのではなく、オナニーは即物的にただのオナニーで全然別物なんだという。妄想はあくまで妄想。アタマのなかだけの世界。
 でも現実には、ペコは神経質なところがあって、他人にすこしでも触られるのがいやなタイプ。特に髪の毛には絶対に触らせない。
 自分の無いはずのペニスがアタマのなかで立ったりするのだという話をしていて、急にオレに話を振る。
「んでさ、あんたは自分の無いはずのヴァギナが濡れる気なんかするわけ?」
「…んーいや。あー…。わかんない」
「ウシロの穴の感覚とは別もんなの?」
「…んーーーあーーたぶん別もん」
「で、そのナントカ治療が進んでくとペニスは取ってしまってヴァギナをつくったりするわけ?」
「それも、いまんとこわかんない」
「ペニスはちゃんと立つしちゃんとイクんでしょ?」
「うん」
(…でもそのことはオレがオンナであることと、なんら矛盾するとはおもわないんだけどな…)
 と、オレはくちのなかでつぶやくのだが、わかってもらえるような気がしないのでだまっている。
「両方あるといいなぁ!あたしなんて心底そう思うよ!」と、ペコ。
「あったってさぁ、あんたの場合やんなきゃ宝の持ち腐れじゃん」と、マル。
 引き続きマルの話になる。
 そりゃ妄想だけならなんでもできるもんな。からだを傷つけることないもんな。妄想だけのほうがいいよぉ、羨ましいよぉ…と、マルは心底うらやましげに言うのだけど、もちろんすこしもうらやましがってなどいない。
 あたしなんてペコとは正反対に「触りたがり」だからさ、誰といてもこう~~やって(そばにいる誰でも腕や肩や膝やあちこち触りまくりながら)触っていないと安心できないんだけどさ、だから男ができるたびに、いつもいつもくっついていたくて、ずっとずっとずっとくっついてるんだけどさ、ホントは肌が弱いもんだから(実際、赤ん坊のような柔らかそうな白い肌をしている)、そうしてるとすぐ肌が荒れてくんのよ。ちょっとした刺激でキスマークなんてすぐできちゃうしさ、それがなかなか消えないしさ、キスしまくってると唇も荒れるしさ、セックスもしまくってるとあちこちの粘膜がすれてこすれてむけてしまって痛くてたまんなくなっちゃうしさ、膀胱炎にはなるしさ、挙げ句の果てには妊娠しちゃうしさ。
「おい」と34歳バージンがすかさずツッコミいれる。
「いいけど避妊ぐらいしろよ」
「一応してるつもりなんだよ」
「それはしてねえっていうんだよ」
 ひとしきり、セーフティ・セックスに関するペコのお説教。
「いやあね。あなたがた」とキナコが得意そうに
「妊娠なんかしちゃうのは野蛮だっていうの。ほら同性愛だってSMだってフェチだって文化度の高いセックスは生殖とは無縁なのよ。サド先生をお読みにならなくっちゃ…」
 得恋したばかりのキナコはこのごろノロケ話ばっかりで、あとの二人から煙たがられている。
 (マルは男つくってもいつもレンアイではないからノロケ話にはならない)。
「でもさぁ、レズビアンってどんなことするのぉ?」
「あーんなことも、こーんなことも、そーんなことも…(笑)。ご希望ならば実地体験させたげる」
「遠慮する」と、ふたり。
「あーんまりやりまくってるから舌なんか脱臼したりなんかして」
「えーーーー舌って脱臼するのぉ???」
「しないしない(笑)。なんであんなとこに関節があんのよ」
「ちがった。舌を骨折しかかったりなんかして(笑)。で、脱臼したのは小指よぉ」
「えーーーーなんでそんなとこ脱臼したりなんかするのぉ(笑)???」
「っと待った!だいたい舌に骨があるのぉ(笑)?」

 脱臼ね。
 オレの高校時代の同級生もよくやってたな。アメリカンフットボール部の選手みたいだ。
 そういえば、映画の主題歌であるときには歌われない1番の歌詞は、たしかボーイスカウトで習ったかな。
  In a cavern, in a canyon,
  Excavating for a mine,
  Dwelt a miner, forty-niner,
  And his daughter Clementine.

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