2019年10月30日水曜日

初発手術

もちろんtarahineが結婚したわけではない。
初めての(初発のときの)手術の印象を書いたらこんなものが書きあがった。
なんだか「結婚」そのものをごくごく普通に陳腐に記述したものに過ぎないものが出来あがってしまって、tarahine自身は唖然とするばかり。で、現実に結婚したものとさえ思われて「おめでとう」とまで言われる始末。
・・しかし、だとすれば「いやでしょうがない」なんて書くか?
それとも、世間のひとびとはやっぱり「いやでしょうがない」と思いながら「カクゴ」の結婚をするんだろうか?

2019年10月29日火曜日

婚礼

つよくもとめられる
 いやでしょうがない。
つよくもとめられる
 いやでしょうがない。
つよくもとめられる
  もとめられていくのがいちばんだから と
  せけんのひとびとはいう
 いやでしょうがない。
だけど日程はかってにきまる。
婚礼はこのようにとりおこなわれる。

まだひとごとのように現実感のない花嫁は
あおざめて
そこだけがピンクの紅をさしたくちびるが
赤黒い液体をふちまで充たしたワイングラスをまえに
逡巡する。

血はあまいだろうか?
血はねむいだろうか?

こまかい毒の粒子と大つぶの滋養の粒子がきつく縒りあわされた
重たい流れがゆっくりと聖堂の内部を循環している
魚たちはぱくぱくくちをあけていっぺんに呑みこむしかない。
滋養も毒もごそっとくちにはいる。はなからはいる。鰓から全身からはいる
しかない。
ほかに選択肢はない
空テーブルをまえに
浸潤する

1階と2階で完全別居すればいいことなんだから・・・
たった10年がまんすればいいことなんだから・・・
いや5年
1年

1年はほしい。
せめてふたたび外光あびて腕ふりながらあるきたい

なぜわたしにだけ毒はふりかかるの?
なぜわたしがえらばれるの?
なぜわたしをえらんだの?
あっ ちがうんだ
あっちが うんだ

花婿はやせほそった貧相なからだに白い衣装をきて長い顎鬚と長い口髭たらして
テキパキことをすすめて
髪はもうすこし切ったほうがいいね
めがねを新調しといたほうがいい
PowerBookとPHSはかまわないの?

-----知らん顔して入れとくか?
-----ふふふふふふ・・・
-----あっ多い!
-----きょうは写真撮って帰ってくださいね
-----(ジェームズ・コバーンに似ててちょとわたし好みだけど)
-----(そんなこと言うてる場合か!)

とにかくカクゴしといてね。

このグラスはのみほさないといけないの?

きみが美しかろうが醜かろうがそんなことはどうでもよい。
婚礼はとどこおりなくとりおこなわれる
そのことが宇宙の大事

2019年10月24日木曜日

イチゴゼリー

刃のかたがわにゼリーを塗っておくと痛くないのだと
やさしい手術人はいうのである。
つぶつぶのはいったイチゴゼリー。とろとろにながれるほどのカタサの基調のジャムに
真珠ほどのまるさのカプセルのようにとじめのついた紅い透明ぷりぷりつぶゼリーをどっさり配合しました
そのなかにイチゴの種(あるいは罌粟粒)が無数に重なって透けてみえる。
たっぷり取ってかれらの信奉する名人の鍛えしわざもの銘刀ナニガシ真剣白刃の片面に丁寧にぶあつく塗っていくのである。
これで切ると甘いからという。
これで切ると痛みがゼリーにとろけて
ホトンド快感なのだという。
「麻酔のゼリーか?」と問うと、「そのようなものだ」と言葉を濁すのだが
なぜそんな言い方をするのかわからない。
なぜって、妹が管をさしこまれるときに敏感な箇所にはすべて麻酔ゼリーが塗ってあった
というから。苦痛をやわらげるために。なにかからなにかをふせぐために。

静謐な なにかから
押し寄せる なにかを禦ぐために
かれらは深長にぶあつく片側を蔽い隠していく
人工がつくった人工物を組み合わせた模造のウェルメイドのつぶつぶイチゴのゼリーで
人工がつくったいちばん良きものの片面を台無しにして
「血は痛くないよ」
「血は甘いよ」
とつぶやくのである。

それでもひとり。
光るかたがわはのこっている

2019年10月21日月曜日

終わりのヴィルス

なぜ光は点滅するのだろう かげはかげとしてそのまま認識できないのだろう。なぜ
たったいま終わってしまったなにものかを 今まさに始まりつつあるなにかと
取り違えるのだろう。覚悟の欠け落ちた人間は
気づくのがいつも遅すぎる。気づいたころに
終わりは折れ重なってすでに到来していて
時の体内ふかく浸みこみ複製装置を蝕んでいる。ところどころ脱落し
誤って書き換えられたデジタル信号ほどナサケナイものはない。カウンターをこまめにリセットしても
つねにずれを生じるラップタイム。修正しようのないラグ。

除去しようのないバグ。ぞろぞろ這いずりまわるザムザ虫のこらずはぎとってしまわぬかぎり
この寝台にまれびとをむかえることはできない。めりこんだ背後から遊離し寝返りして
わたしを見据えるわたしの鏡像。光学効果をひとひねりくわえて
暗転する 見知らぬひとかげ

ショッピングセンターの柱の四面にぺったり貼りついた水たまりの
かげに予期せずすれちがうとき
わたしは人間の顔をしていない。
とうに時を終えてしまってあてなくはざまにあぶれた怪物の顔をしている。油滴ひとしずくたらして
うつるかげ

最も切実に関係するのに、わたしから最も遠いところでわたしと関係なく執りおこなわれる。わたしは
終わりに立ち会うことはできない。

壁にうずめこまれた死人の肖像画がもっとも人間らしい顔をそなえているのは
かれらが早めに終わりに気づいた聡明なひとびとだったからだ。
終わりをはじまりと勘違いするたびごとに怪物は醜くなる錠剤を一粒ひとつぶ
服用している。くすりが腕のすみずみにまでしみわたってどんより重たい

もちろん奇跡は きちんと端正に死んでいる人びとにしかおとずれないわけだし
奇跡を待ち臨むのもまたあさましい。迂濶きわまりなく
断片化し もうもとにもどせないまで書き込まれてしまった。記憶装置

ぶっこわれたなつかしの記録装置よろしく対向車線に渋滞したくるまの一台からたちのぼる女性性器の俗称の連呼に
あほがとわらいながらすれちがい終わってから そんながきっぽい
世界を構成する欲情の輪環のかたすみに
おなじように鈍くふるえている怪物の楽器もまたわたしのものだということに気づいて
ぞっとする。

確かに共振しているのにことさら誇らしく宣言しなければならない I can't hear you.
漸くたどりついた国境に飛行場の荒漠を支配しながら ざわめく あさましさに立ち会いながら
さて 出立しかねている ヴィルス熱に襲われて

瀉血しないとだめみたい
それとも血を注射する?
それともDNAファイルを差し換える?

2019年10月18日金曜日

濃密に負けまいとする

たがいちがいに不定形の帯をえがきながらやってくる稀薄と濃密に負けまいとする
力もたいしていれないのにたゆたいながら揺られながら
それでも流れにあらがう方向にむかって立ちつくしてしまう。

薄いから速いとも濃いから遅いともかぎらないし
重いから密とも軽いから稀ともかぎらないし
あ、ついでに、と思い出したように振り向いて付けなされる死の宣告
にたまたま向きあう方向に居あわせてしまう。

流れのそちこちにむすぼれとけぬよどみや渦ににた大きい小さい想いのつぶの輪郭の曖昧にぬれた塊を遺しながら
おもいぬられておみなえし流れていくのはだれなのか
みおつくしはどちらなのか
感情に全身びしょびしょにみたされ
みたされぬ愛にひたされ
ひたすら全霊を消尽して出会えばかならず暴力にぶつかってしまう
すれちがえばそのつどそのかずだけ泣いてしまう

流れの筋のわずかなすきまに祥福を透かしみて昏い明るいはただの落差である。すべてが反射し透過し遅延しながら到来する光であって
絶対光はどこにもみえないのに
うれしいときはそのつどそのかずだけ泣いてしまう
遅れながら泣いてしまう

2019年10月8日火曜日

try

現在(といっても今在るかどうかわからないが1997年4月1日小包を出しに行ったときは確かにあった)中央郵便局のあるところは(信頼できるといわれている)歴史教科書等によれば100年前から由緒ある中央郵便局であるということだが私にいまある記憶によれば30年前ここはたしかに1,000年前からここはこうだったとひとびとのいう果物卸売市場があった。ゆっくり移動撮影して7分25秒かかるほどの間口にドリーすべらせ何か寄生植物の蔓を編んだ籠をせなにオレンジ檸檬ライム西洋梨いちご杏さくらんぼアヴォカドまんごー芭蕉いろんなめずらしい果物の山とつみあげられたうえに美味しそうな白熱電球の美人ライト処々ともるひろい市場をあるきまわる。ここ1週間の滞在で見たことのなかったマンダリンがあるのをみつけへたくそな(現地に行ってからおぼえたばかりの)スペイン語で「どこの産か?」と問うと親爺は「中国産だ」という。小粒のふわっとしっかりした粒揃いに有田を見出していたわたしは重ねて「日本産ではないのか?」と問うと親爺は「ああそのとおりだ。中国の(なかの)日本だ」と答えるのでうつむいて言い訳がましく「わたしは日本人だから」と呟き「2kg頂戴」と籠をさしだす。秤に2kgぴったりのみかん籠に入れてもらい財布をさぐってお金を出そうとすると親爺はすでに市場の仲間たちとべつのおしゃべりに夢中になっていて此処1ヵ月まともな肉の配給がないとか今日はいよいよ塊肉が大量に出るらしいとかハムしか出ないのではないかとか豚のたべられないおまえは気の毒だとかハムを少しずつ削って夕食の貧しいおかずにするのはやりきれないとかひんぴんと受け渡されるハムの語感にぶっとい脚の筋肉ぷりぷり私を蹴ろうとして脹れ漲るのを感じ蹄がしゅわっと目の前とおりすぎるのをあやうく躱して私は出しかかっていたニッケル硬貨2枚引っ込め気づかれぬうちにとそそくさその場を離れる。結果的にただで手に入れたみかん背にコリント通り北へ進むと左手に酸性雨なみだたれる建国英雄の銅像といつもつるつるに磨かれている黒い石の碑があってあらかじめセットされたおざなりの花束とロウソクと泣き女(子供つき)が供えられている。ゆるやかに段をのぼり剣呑な石の喉元に籠のみかんをそのままざらんとあけてひとつかに重ねカンマがわりに手をあわせそれから自分のために3個だけ取り戻しいざりさがると2~3日前から耳について離れない声がまた執濃く囃したてるとられたものはとりかえせトランスポートとらまえるトラックにトライ・・・ざぶん!筒状に空洞になった情報端末に視線をくれ病状の宣告はあと2年の猶予をくれてもうこれいじょう睡れないわやわやといそがしくいごきまわるゆめをいちいちキャッチアップすることなどできぬ何いいだすかわからない渡来人たちのほこりに一人ひとりフォローすることなどできぬぼろぼろに穢されたうつろを抱え疲れ果ててヒジャブの少女をかどわかしてくる純情下劣にうちのめされどうにもならないどうやることもできないひとひとひとのみがわりにfuckfuckfuckをかさね無残な不潔な非人道的なここまで堕ちたくないとだれしもなぜおもうのだろう?生きるためにはどうして墜ちずにいなければ或る水準を保ってきしむ板を渡さねばならぬのだろう?ぎしぎし板をわざにゆるがせ錠をやぶるほどの酒かっくらって紫陽花をかかえたjohnnyは「今晩おれの子供が生まれたから」と嘘をのべて死をもてあそぶありふれたあかぬけないあかぎれたあそびにわたしを誘った。しょぼくれはてた贅沢にもゴールデン(すら)アンバーむさぼりそこがだれか高貴なひとの墓であることはまちがいないのに火の玉の人食い鬼のドルイド幽霊の俗説が圧し倒している天罰覿面ばちかぶりに剥き出しに曝されたごつい石をかさねた遺跡で夜明けを迎えて二人だらだらみかんの小袋を吸いながら春分だったらよかったのにねとなまりきった感覚をなぐさめあいつつかつての英語教師にwish you were hereをふくむ絵はがきを出しに中央郵便局へとまたロケバスを駆っていく。

2019年10月3日木曜日

名づけたくないひと

きみと私とのあいだにあるびみょうな間(マ)
いわくいいがたいふんいきを
きみは名づけたくない。

どういうことばをつかっても
かならず「ちがう」と抗議する。
どう言っても ずれてしまう。
どう語っても 紛糾してしまう。
名づけると同時に 腐ってしまう。
終わってしまう
から?

だけど きっと
ホンキで名づけようとおもったら めちゃくちゃ簡単なのだ。
生物学的な段階を位置づけるメタフォールをもって
AとかBとか あっさり名指しされてしまうもの。

だって
名づけられないものが
なんでにんげんに知覚されるはずがあろう?
私が たしかに感じている この感覚を
きみが どうとらえているのか しらないけれど

私は 謎を問うて
きみの胸に飛びつくスフィンクスか。
きみが、まっとうに人生を歩めば、私の謎などは粉砕される。
こなごなにくだけてしまう のに。

2019年10月2日水曜日

ブランデンブルク協奏曲

(90年代)こもっていたその時期がいまから思えば「軽い鬱」だったかもしれないと本人が素人診断するのはホンモノの鬱レベルではなかったろうなということと(だって昼間にはそれなりに仕事もしていたし本人にはまともな意識があり周囲が気づいて病院に担ぎこむほどでもなかったということ)それがひとりきりの夜になるとたまらなく鬱の重みに押しつぶされる日々が続いていたことと。自殺念慮という症状があるわけだけどこれは経験した人にしかわかるめえ。「あ、自殺念慮キタ!これはいつもの鬱の症状でやばいから病院に駆け込もう」とか思える人はよほどその病気との付き合いが長くおそらく瀕死の体験も実際にして来ている人かもしれないとおもうけど、当時のわたしにそんな知恵はなく13階のベランダから身を躍らせる代わりに灰皿を投げていた。(いや、ほんまにそのことば通りに)。で、背中からしつこくしつこく重たく重たく迫ってくる鬱の重圧をなんとかやり過ごすために頼っていた最後のよりどころ(縋った藁しべ)が音楽で、そんなときに繰り返し繰り返し頼ったのがJoy Division(もちろん Ian Curtisが自死を遂げたことは知っててだからこそ身に沁みたとこもあったかも)と バッハのブランデルク協奏曲 。これはたんなる当時の私の感覚で根拠も何もないのだけれど、世間的に心を鎮めるのに良いとされるモーツァルトは当時の私の耳にはめちゃマッチョに聴こえ聴くに堪えなくて(当時の私を現実的に苦しめていたもの=迫害者はなにかマッチョ的なるものであった)それにくらべてバッハは女性的?(もしくは脱男性的)に聴こえていた。なかでもたまたま持ってたブランデルク協奏曲の4番5番6番をこの順で収録したTrevor Pinnock率いるThe English Concertの古楽器つかったCDはその再生頻度からして大袈裟に言えば(いやちいさく見積もっても)わたしの命を救ってくれたともいえます。夜中アンプのとこに駆け寄り背中まるめてヘッドホンで聴いてた自分の姿を第三者がみているように思い出すことができる。

2019年10月1日火曜日

自然からの復讐(もしくは懲罰)?

だいぶ以前の話になるが・・さる薬品会社のPR誌に小コラム書くためにわざわざ専門医師に取材に行ったのだが、内臓脂肪が体に悪いというのは、内臓脂肪がまるで独立した一つの臓器のように、数々のホルモンを分泌するからなのだ、という話。そのホルモンあるいはメッセージ物質は体の他の箇所に働きかけ、その個体に早死にをもたらす。高血圧だったり心臓疾患だったりのリスクを高めるんだそうで、内臓脂肪が伝えるメッセージに良いものは一つとしてないらしい。
という話を聞けば、みんなすぐそう感じるだろうか? その取材の折に医師が洩らしたこと。これってあたかも自然の摂理ですよね。群れのなかで食物を独り占めする強い(権力のある)個体があって、どんどん食べるもんだからどんどん肥って内臓脂肪を貯めこむ。そんな個体は群れにとって邪魔だから、早死にするよう自然が命令するのだ・・と。
その伝でいけば、栄養状態が良くて女性ホルモンが盛んに出ていてそれなのに妊娠出産しない個体に乳癌・子宮癌のリスクが有意に高いというのも、似たような自然の摂理ではないのか。そんな個体は群れのためにならないので、早々に癌を発生して死んだほうがいいのだ、と。それって世間が乳癌あるいは子宮癌になったその条件にあてはまる女性に対して言うのであれば、これは完全に差別であって許されることではない。エイズ禍真っ盛りの頃のアメリカで、エイズを発症するゲイの男性たちはやっぱり自然に反する行いをしているので自然の摂理で死病になるのだとか原理主義的保守派から指弾される一方、ゲイの女性では乳癌が「レズビアンのエイズ」と呼ばれるほど猛威をふるっていて(だってアメリカとか先進国のレズビアンって上に挙げたリスクに大抵あてはまるでしょ?)これまた自然の摂理的語られ方をして、当事者らを怒らせていたのだ。
・・しかしtarahineが当事者になってみて、しかもその癌がまさしく「女性ホルモンを餌にして成長するヤツです」というご託宣もとい検査結果が出てしまうと、当事者自身としてはやっぱり自然から復讐(もしくは懲罰?)されているな・・と感じずにはいられない。そのとおり。tarahineは食べるのが大好きで栄養状態良くこってり小肥りで、恋愛沙汰もそれなりにこなし女性ホルモンもおそらくたっぷり出ていて、それなのに妊娠出産しようとしない、自然に反した生きかたをしているので、自然からしっぺ返しされたのだ、と。