2019年8月23日金曜日

その後(というラベル)

それは「post festum」(祭りの後)でもありますし「aftermath」(厄災の後)でもあります。
後者は特にThe Rolling Stonesのそれというわけではありませんが、前者は木村敏のそれでもありますし、Karl Marxの意図するところもすこし入っています。

いつからか、わたしは「その後」を生きている、ということを意識するようになりました。
意識し始めたのは、阪神淡路大震災後だったかもしれないし、もっと以前、わたしが当時住んでいたおなじ部屋で、ある危機を脱したことを意識した「その後」だったのかもしれません。そもそもが先の戦争の戦後に生まれた世代であり、若者たちが世界的に異議申し立てをしていた祭りのあとにやってきた世代というのもあるかもしれません。
そしてそのあとも、東日本大震災と原子力発電所事故の厄災を経て、その感覚は潮の繰り返し寄せるようにますます強くなっていくようでもあります。

わたしがいつごろからインターネットに接続し始めたか覚えていませんが、初めて自分のウェブページを持った記録は残っていて1996年10月とあります。
jajaという名義でウェブ上で詩を書き始め、その詩を通じて他の詩人の方々ともウェブ上で交流を始めました。
jaja名義でウェブにあげた最初の詩が先の「救命艇」になりますが、これが『ボール箱に砂場』のラストにあたる作品の「続き」みたいになっていて、その時期を脱けた「その後」であることがはっきりわかります。
それが「その後」のわたしのはじまりとなり、その意識はいまでも続いています。
アフターマス 「その後」を画する詩には、このラベルをつけていきたいとおもいます。

その時期、おなじjaja名義で、映画好きのネット先達のお仲間に寄せていただいたり、きっつい洗礼も受けつつ、ものすごく楽しい日々を過ごしていましたね・・。
ほんとに偶然なんですが、この記事を準備している最中、そのネット先達のお一人が亡くなっていたことを知らされました。
直接は(つまりリアルでは)存じ上げない方なのですが、その、なんだか「消える」ようにネット上からいなくなってしまわれたその方のありようなどにも思いを馳せ、あの当時の映画好き仲間たちとのやりとりも思い出し、すこし感傷に浸ったことでした。

当時のネット環境はウェブページつくるにも自分でhtml手打ちするし、ブログはまだなくBBS(掲示板)を雛形だけもらってきて自分で作ったり、ウェブチャットが遅いのでもう少し早いチャットのシステムがあったりなどして、まだまだネットを通じての交流のかたちが定まっていなかったころ。
その後、ブログがぶわーっと流行り、わたしは便利にはちがいないけどいろいろ仕様が決まってるのが少し鬱陶しいなと思いつつ、いっときは8つぐらい運営していました。
その後、Facebookの時代になって、わたしはこれには決定的になじめず、さらにTwitterやInstagramの時代になって、またうまく乗っかっていけず、馴染めないというよりは、この3つのSNS、それぞれの「仕様」に踊らされるのが決定的に鬱陶しいのですよね。自分の気づかないところで仕様に制限され動かされ見させられている・・。とはいえ、アカウントは持っていてそれなりに使ってはいますけど・・。

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