2019年9月22日日曜日

闘病とは言わんぞ

(これ書いたときから13年経ってますが状況あんまり変わってないですかね?)
いまでも普通の(自分や近親者が癌になったことのない)人たちには「癌=死病」というイメージがあるかもしれないし、もちろん今でも治療困難で間近な死が避けられない癌もたくさんあるけど、たとえば映画になった『阿弥陀堂だより』など南木佳士さん(もともとお医者さん)の小説を読んでたりすると、ひと昔前の医者たちの意識、患者やその周囲の人たちの意識はこうだったのねぇ〜という「明治は遠くなりにけり」的な感慨しか思い浮かばん。思いっきりええかげんにいえば「そんなに深刻にならんでもええのに...」という感じ。
もちろんこのかんの医学的治療的環境の変化はすごく大きい。オールマイティな特効薬とか画期的な治療法とかが発明されたわけではないが、癌もエイズも知らん間に患者がなかなか死ななくなったのは、いくつものいくつものいくつもの新薬や治療法が発明・発見されていて、どれもが「決定打」ではないにせよ、取っ替え引っ替え使ってなんとかコントロールしていくうちに、自然の寿命と等しくなるぐらいになっているという算段。
それもあるが、たとえ死が避けられない場合でも、死そのものに対する意識、あるいは死を迎える意識も変わってきたような気がする。死というものはそれほど深刻なものではない、必ずしも悲劇というわけではない、なにか軽快なもの、ポップなもの、場合によっては楽しみに待つべきもの…でさえあるかもしれない。
「生」の側にあくまで固執すること(死すべき患者を生の側に引き戻すこと)が「癌」(病、死)との闘いであり、それに敗北することは絶対的に避けたいことであり、敗北、降伏は圧倒的である・・・とかいうんじゃなく、少なくとも、果敢に闘うばかりが肯定されるべきではなく、苦しんで苦しんで最後まで苦しく生きるよりは、楽に死を迎えるほうがいい場合だってあるじゃないという意識も確かにあって、むしろ肯定的に捉えられていますな。周りが本人に押しつけるのはよくないと思うけど・・ただ現実には(特に日本では?)周りが勝手に押しつける「尊厳死」も多いようではある。
いや実は、あくまで生に固執する「闘病」的意識こそ、近代のある一瞬に特有の特殊な意識であって、実はその前の時代はずーっと人類にとって「死」はもっと仲良しさんだった気もしないでもないのだが...。

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