死はからだを貫く風穴のようなものとして表象される。
たとえば銃の登場するあらゆる映画のように。
しかし別のかたちの死もある。それはゆでたまごの薄皮のようにからだにひっつき
皮膚に塗る麻酔剤のように ひとの 表面の感覚を麻痺させ
徐々に 徐々に 生を 奪う のだ。
つらくて 語れない。アツヒコの死を。
でも語らなければならない。
みんなが気にかけていた。
みんなが見護っていた。
みんな知っていたのだ。すでにその麻酔剤が、たっぷり何年もかけて、アツヒコの表面に塗布されていることを。
そしてじわじわ じわじわと かれのいのちを麻痺させていくのを・・
最期の最期の瞬間まで みんながみまもっていた。
でも、だれも、その最期の瞬間に立ち会った者はいなかった。
アツヒコは だれにも看取られずに 死んでいったのだ。
最後のエントリーは「もう寝る。」だった。
「もう目覚めなくてもかまわない」があとにつづいていた。
半時間後に気づいた誰かが「おい、起きろ!」と書いた。それから、そのほかのだれかも、そのほかのだれかも、「起きろ!」と書いた。「起きてくれ」と懇願する者も、「大丈夫?」とか「心配しています」とか綴った者もいた。
でも、みんなが、広場で起きている惨劇を 自宅の安全なアパートの高い窓から眺めている状態だったのか?
これだけたくさん書きこんでいるそのうちの だれかが、きっと駆けつけてくれるだろう、あるいは通報してくれるだろう、兎に角なんでもアツヒコを救うためのなんらかの適切な手段を講じてくれるだろう、と、みんな、ただ、みているしかできなかったのだ。
広場ではなく、そこはネットのヴァーチャルなひろばだから、画面の向こうには じっさいには見えていない アツヒコを。
そこまで周到だったかれをむしろ褒めるべきなのか?
そうやって、ブログを通じて、かれをみまもっていただれ一人として、アツヒコが現実に住んでいる住所だったり連絡先だったりを知らなかったのだ。
だれも 駆けつけるすべを知らなかったのだ。
そうしているうちに ながいあいだ かれをむしばみつづけていた 死は
最期の最期の瞬間まで ゆっくり ゆっくりと かれをそこないつづけて
かれの表面を 溶解し
かれの 肉を 熔解し
かれのこっかくを 融解し
そして
ついに かれの いのちをうばった のだ。
そりゃあ
さ
責められるべきは ぼくたちだ。
わかってる
でも 酷いよ アツヒコ
ひどすぎる
こんなふうに おまえに 死なれてしまう
ぼくたちの
いや ぼくの
身にも なってくれ。
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