2019年11月10日日曜日

fragments

わたしたちは厳密な全体ではない

かたまりかけた豆腐のひとすくいを ふわっとテーブルのうえに盛りつけたように
部分部分がゆるやかにあわさって ようようひとつの全体として機能してはいるが
あちこちの部品やつなぎめが ほろほろ綻びかけたころあいをみはからって
遊離剤をくわえてばらばらにし
つながりをかるくたもちながらも
それぞれのパーツが自由に漿水のなかを ぷかぷかうかぶ諸島連合にしたところで
わるくなったところを取り除いて あたらしいものを補ったり
つなぎめを補強したり
部分部分を刷毛できれいにおそうじして 生気を注射したり
そのように全体をリフレッシュしてから
ふたたび凝固剤をくわえてかるくかため
うまくつながらないピースは 鋏で切ったり捨てたり
また新たな白紙のピースを補ったり
接着剤で接合したり
そうしてふたたび ひとつのものとして
ゆるくあわさった全体として
機能するなにものか にする。

そんなふうなものとして わたしたちは生きていける。

取り除かれた部分への郷愁もなく惜別もなく
あたらしいものへの感慨もなく歓迎もなく
ジグソーパズルほどにも 厳密でなく
粗忽な鋏で エイヤッと ピース切るええかげんさほどが
ゆるやかに たえず揺れうごいている やわらかさをたもつにふさわしい。

夜中
分解され排泄される部分部分が 大量の細かく薄いかけらになって
ところどころきらきら 記憶の反射光を呼び覚ましながら
さらさらと排気孔へと 流れ落ちてゆくのが聴こえる。
朝方
あたらしく挿入された部分部分が 真白い無関心の顔して
それぞれの場所に ぐつ悪げにおさまり
だんだん馴れて環境に応じて
赤く青くとりどりに だんだらに染まっていくのが 見わたせる。
夜明け
一旋ふと吹く感情のつむじ風に 呼吸器が一寸ふたがれ
ちいさな咳をして ふたたび常のように流れはじめる
血流の音に
みじかい永遠の
そのまた一瞬一瞬を微分した
ごくごく微細な断面のいたみを 思いやる。
それは
なんら 意味ある図形を 描いていない
にもかかわらず/だからこそ
如何ようにも 読みくだせる
抽象的なfigureである。
純にsignifiantな
第一の模様

とりわけ明るい眸をもつ解読者が必要だが
解読されると寿命がちぢむとでもいうのだろうか
野蛮人たる魂は
最も単純な構造をもつ 写真機のまなざしさえ 嫌がって拒むのではあるが。

それでもただに捨てられるばかりの断片を サンプルとしてわずかに謂集し
だましだまし撮影した無数の断片図像を 表層像として定着させ
できあがった無数の膜の断片を ひとつながりのなにものかとして再構築し
細長いテープに編集して リールに巻き取っていく。

さてさて お立ち会い!
どのようなおはなしがみえまするか
わたしたちのささやかな60年を わずか60分のフィルムにしたてあげて
何も語るな
何も読み取るな
ただ瞳を 曝してさえいればよろしい
というのは あまりに傲慢な 監督の態度である。

とりわけ暗い心室をもつ鑑定者が必要だが
鑑定されると かぎりある生命が果てしなく延びるとでもいうのだろうか
文明人たる魂は
最も簡単な操作が可能な映写機の介入さえ よろこんで いちいち だらしなく
身をゆだねるのではあるが。

そりゃ 豆腐よりは
暗闇のなかを一閃 はしりぬける光の波動として
histoireに銘記されるほうがかっこいい。
だけど
わたしたちのほとんどは それほど 重要では ない。
豆腐の蓋然性と
光の蓋然性と
誰もがふたつながら 持ちながら
光のほうは 日々無駄に流産し
ながしつづけているケースがほとんどである。
そりゃ かっこよさが
すべてでは ないけどさ。

 (そこに多声コーラスが入って)
 それでも だれしも
 めちゃくちゃに こんぐりがえった ノイズの 糸玉となって
 宇宙の複眼の 多重露光の いくつかのショットぐらいには
 互いに 捉えあって いるのである
 そして かる がるしい 糸玉どうしが
 もっとかるがるしく
 たぶん かっこよくなくてもいい
 それが しあわせ などとつぶやきながら
 もつれあい こすれあっているのであろう
 そりゃ しあわせだって
 すべてでは ないけどさ。

ふと とった 他人(ひと)の手の あたたかさが
ひとにぎりの つかのまの 妄想へとさそう
Tout とうとつに
ばか笑いしたくなるような

0 件のコメント:

コメントを投稿