2019年7月1日月曜日

一千齣のアニー

石灰岩の酷いにおい
海鈴蘭のかすかなにおい
しろい崖下の小舎にはむかしながらのスタイル英国人夫妻が棲んでいて
黴くさい栄耀につつまれた老人と
年歯の離れた背の高い細君プラチナブロンドおとこみたいに刈り上げ幅広の肩を強調するチャコールグレイのペンシルストライプスーツに身を固め

毎朝仔猫の分泌する水臭いミルクをこっぷに一杯のみながら
わたしたち
ねこを飼っていても女王陛下に
お目にかかれるかしらね? と
真剣に案じながら日々を暮している

菩薩の美徳も才能もキャリアも子をおもう母ごころもみんな使い捨て商品。およめさんに不要品の札ぺたんと貼られようやく見つけたのが生まれてこのかた愛されたいおれは愛されたいのだと喚く以外に何もしたことのないぐうたら亭主

ほらまた
すきとおった天使のかけらが降ってくる

二匹の仔猫はあの荒れた海で拾ってきた。
がりがりに痩せて全身つめたい潮水でずぶ濡れになって黒毛に真っしろの斑がはいった牡のほうは息絶えだえだったけど
牝のほうは灰色虎毛すこし肥っていてまだしも元気があった
あのときからあなたあたしにあまえる口実またみつけたわね
ひきずりあげて懐で懸命にあたためたの。
のんきそうな牝猫しらぬふりであなたと遊んでいたわ

とどこおりなく
よどみなく
おもいにふけるひまもなく
その流儀がかっこよくて

それしかできなくなっていた。
92分間の16mmフィルム作品もう雨がざあざあ降っていて
ぼんやりきいろいランプのひかりのなか
並んだあずきいろのシートは
すりへってビロード剥がれおちていた。
緑灰色のすずしい眼。アニー! 黒革のスーツにぴったりしろい膚をつつみ薄い唇よく動いて口腔の大きな闇にダイアモンド一粒。
ゆびさきが昂奮してつめたく痺れていた

絶頂だったのよ。ルージュがあれほどくっきり滑らかに引けた夜はなかったわ
あたしはひこうきが怖いの。でも好きなの
離陸するまえが
ふっと地上をはなれてきけんなそらにはいり
ぐんぐん上昇していくときが。
もう水平飛行にはいってしまうとああここまできちゃったんだなあってうれしいようなほっとするようながっかりするようなきもち
ああここまで
もうここまで
もうひきかえせないところまで。
着陸のときはもういちどドキドキするけど
それも終わっちゃったらもうかなしくてしかたなくて行き先のことがあたまに浮かんできてそこであたしを待ち構えているさまざまな責任を考えて暗澹たる気分になるのよ大袈裟にいえばね。
それはおとこにはじめて抱かれる夜のように

ひこうきが降り立った海には
ずぶ濡れの仔猫が
あたしを待っていたのよ。
酷薄な眼をした若いスイス人プロデューサはわたしの国の皇太子殿下とおなじファーストネーム
あなたの名声をおざなりに誉めてから
復讐の唄を歌うあたしに拍手をくれたわ
びっくりするほど美しくて気まぐれであたしの好みにぴったりの男の子。
そしてあたしの部屋にある時計という時計が
いっせいに遅れはじめた。

とんでとんでもっととんでよ!
吝嗇家
カルヴィンの末裔
宣教師みたいなお説教しないでさ!
たった千齣なの?
あなたがあたしに与えてくれた出番は?

なにもかも言い訳。終わったあとのながいながい屁理屈。

すっかり元気になった牡猫を竹籠に閉じ込めて海岸沿いを走る汽車に乗り込んだの。片方にしか走らない単線。籠のなかで牡猫は黴菌みたいに単性繁殖してちいさなこどもをいっぱい生んだわ同じ毛をして同じ貌のまったくおなじ染色体の。そして生臭いミルクをどんどん出したわあたしの膝はすっかりびしょびしょに汚れて。

なめるような記憶
牝猫の楽観主義もてあまし
むこうの黒い森から若い鹿のこえ。きっと
むすこ夫婦の御幸。
細君の焼く黒い菓子は
すこし酸っばくなりかけた
猫性脂肪生クリームたっぷり挟んで
かすかにあまい乳糖のかおり

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