だれかがぼくの名を呼んでいる。
ぼくが名づけられる以前の名で呼んでいる。
だけどぼくはどうやってそれをわかればいいのだろう?
覚醒と睡眠のあいだの階の要衝要衝に
交通案内をしてくれるおばさんが立っていて
わずかなチップと引き換えに夢のチケットをくれる。
長い夢を存分に愉しんでからもっと深い階に降りていくのもいいし
ごく短いイマージュを楽しんで、またすぐべつのおばさんを探しに行ってもいい。
夢の各層には大きなまるい浅い穴が水玉模様のようにぽつぽつと開いていて
ぼくらはそこをとおって睡気の重力に曵かれ
ゆっくりとだんだん深い階へと降りていくのだ。
今夜は穴を避けてごく浅い層をとびまわり
あたらしくみつけたおばさんからつぎつぎとチケットをもらって
気の向くままに点々とイマージュを渡り歩いてみる。
六角形のかざぐるま
ソフトクリームの大山椒魚
一角獣のひづめ
龍の子のこゆび
妻のあしゆび
月のきざはし
霜の刃
あまいひやむぎ
秋冬仕様にツイードを着込んだ雀
生き延びる実感
ぽろぽろこぼれるとうもろこしぱんのくず
降りしきる豆ランプの光のあまだれ
あまずっぱい観覧車に
シナモンの香りのする回転木馬
仔馬のたてがみ
水の龍のまぶたにふれる
浅い階にいるおばさんたちはみんなとても美人でセクシー。
黄色や青やピンクのミニドレスをきらきらきらめかせて
50年代ふうにカールしたヘアに色とりどりの流星や恒星や星雲をいっぱいつけて
惜しみなく笑顔を呉れる。
チケットをわたしてくれる白い手がひやっこくふれるだけで
ぼくはドキドキしてしまう。
でも どこかよそから
たぶん どこか奥のほうから
だれかがぼくの名を呼んでいる。
ぼくが名づけられる以前の名で呼んでいる。
だけどぼくはどうやってそれをわかればいいのだろう?
まぁわからなくてもいいや
気づかなくても仕方がないやと
くちのなかでいいわけしながら
(内心微かに仮借をおぼえながら)
ぼくはイマージュの浅瀬をぴょんぴょん跳んで渉るのだ。
2020年3月24日火曜日
2020年2月27日木曜日
半分だけ立て掛けてある/あるかな はるかな
あるかな
はるかな
アルカナ
あるか
歩かな
歩かな
遥かな
春かな
半分だけ立て掛けてあるよそごとにカチっと欲望をかぎり
舗道から眺めて後ろ半分だけ見えない杉の板に触れたくても触れずにおき
第2第3ステージへとうつっていく中途半端な温度にて
それから2、3歩あとじさる蜥蜴と人間の体温を同じうする気温にて
求心状の視点をそれそこの半径1.5cmの円に万遍無く集中すると
キャメラのファインダーにピント合わせの小さな丸い点をさぐりながら
アウトプットは半径33.3cmの半球型の内側に遠心状に展開する
魚眼様に地球をもっとひろくまるく査収すべしと発言する
捨象する照射の収縮膨脹は徐々に規模そのものを拡大して
バッテリー喰うストロボの発光するしないはだんだんジリジリいらいらしてきて
この序破急に終局はあるかないか
変節漢の怒鳴り声に週末は台無しかどうか
週末という概念そのものがあってよいか否か
終末という休暇そのものにどこへ行くか田舎
射ぬか
犬か
アロンジ ゆこう
アレグレット はるかに
アヴィ えいえんに
アヴォワール つよいいしと
アンタンシテ きょうどをもって
アンタンドゥ りょうかい?
アヴァントゥ なによりも
アヴァン さきに
トゥ すべては
コモンス ここで
イシ はじまる
すべては ここで はじまる
ici
意志
緊張のあまり泣き出してしまうこどもは
訳知らぬ断絶などものともしない綜合は
童児に優しい水の音に思いを馳せている
同時に不可欠な保護観察を取寄せている
ガラス窓に青いトラックが反射していく
鳥瞰視界に最小限の視差を示唆していく
やすがれにはらはら花びらが散るとなく
ほとほと厳密な概念操作も空しくとなく
ちるとなく むなしくとなく
やすがれに ほとほと
こだまする
居ぬか
縊死の
遺志
医師らの
石
石の上にも三年
…とか
往ぬるか
往の
はるかな
アルカナ
あるか
歩かな
歩かな
遥かな
春かな
半分だけ立て掛けてあるよそごとにカチっと欲望をかぎり
舗道から眺めて後ろ半分だけ見えない杉の板に触れたくても触れずにおき
第2第3ステージへとうつっていく中途半端な温度にて
それから2、3歩あとじさる蜥蜴と人間の体温を同じうする気温にて
求心状の視点をそれそこの半径1.5cmの円に万遍無く集中すると
キャメラのファインダーにピント合わせの小さな丸い点をさぐりながら
アウトプットは半径33.3cmの半球型の内側に遠心状に展開する
魚眼様に地球をもっとひろくまるく査収すべしと発言する
捨象する照射の収縮膨脹は徐々に規模そのものを拡大して
バッテリー喰うストロボの発光するしないはだんだんジリジリいらいらしてきて
この序破急に終局はあるかないか
変節漢の怒鳴り声に週末は台無しかどうか
週末という概念そのものがあってよいか否か
終末という休暇そのものにどこへ行くか田舎
射ぬか
犬か
アロンジ ゆこう
アレグレット はるかに
アヴィ えいえんに
アヴォワール つよいいしと
アンタンシテ きょうどをもって
アンタンドゥ りょうかい?
アヴァントゥ なによりも
アヴァン さきに
トゥ すべては
コモンス ここで
イシ はじまる
すべては ここで はじまる
ici
意志
緊張のあまり泣き出してしまうこどもは
訳知らぬ断絶などものともしない綜合は
童児に優しい水の音に思いを馳せている
同時に不可欠な保護観察を取寄せている
ガラス窓に青いトラックが反射していく
鳥瞰視界に最小限の視差を示唆していく
やすがれにはらはら花びらが散るとなく
ほとほと厳密な概念操作も空しくとなく
ちるとなく むなしくとなく
やすがれに ほとほと
こだまする
居ぬか
縊死の
遺志
医師らの
石
石の上にも三年
…とか
往ぬるか
往の
2020年2月3日月曜日
抵裂き難い抗
発火する家
ゆっくり回転しながらしゅうしゅうと炎を噴き上げる。
あの土台のあたりに火薬が仕込まれていたか
それが回転ステージのうえに載せられていたか
跡地のむこうがわは有名な庭園
こちらがわは再開発となる
とりあえず
古着屋ゲー血ム屋掘屋台らの簡易ガレージ店舗が
わいのわいの
軒をつらねて
黄色ジャンパーのにいちゃんらが
コークな茶封筒どを堂々と売っている。
層にかさな死期を女性職員知らせる文化施設
てらてらな黒にグレーのキャ避け難いリアスーツの細身をかためた
男子職員が案裂き難い内する
抵抗
抵熱い抗
耐え抵抗難い
抵愛着抗
の短髪のちに最上死神は階へ
階層を請求書を配達する移る
傾斜のと急を告げ鋭いめつきのるんでもなく緩い
エスカ眉毛のうすいレータ
一気に三層をつ分裂者の手紙らねている
花や樹や種子を撒きちらす草やつめこんだ黒いかばん鳥の標本の束
てっぺんに
曖昧な三角形状のなん誤配物の束をにもない
コンク誰かが勝手に手配したリートの屋上があって
周囲は足首ほど悪意の高さの柵でかこってある。
風が強いから危険です。
吹き飛ばさ狂おしきれて落ちてしまうかもしれませんよ
と職員くんがしきりに止めるのもきかず
折角ここまできたのだから
いちおうは歩い欄干から零れおちるてみようと
危ない端っこをえらんであるく
それでも
エッジから微妙に安全な距離はたもっている
つもり
でも
たぶん風が吹けば無効な距離だ。
彼がはらはらと 内側でみまもるうちに
ゆっくりと ゆっくりと ひとめぐり
するあいだ ついに風は吹かず
無事にもどることができる。
(むしろ風をのぞんでいたのかしらん?)
なんだ関か平和だ係ねぇと
むこうがわの庭園の入り口にたつ
レスト棄てがたいランの灯のにぎやかにともるのをみて
簡易店舗の涸れる陽こちらがわも
1ヵ月半もたたぬまに
愛抵抗着
なにやら変なかたちのビ耐えがたいルが立ち並ぶのだろうと
さしむける
うつそみの
ゆっくり回転しながらしゅうしゅうと炎を噴き上げる。
あの土台のあたりに火薬が仕込まれていたか
それが回転ステージのうえに載せられていたか
跡地のむこうがわは有名な庭園
こちらがわは再開発となる
とりあえず
古着屋ゲー血ム屋掘屋台らの簡易ガレージ店舗が
わいのわいの
軒をつらねて
黄色ジャンパーのにいちゃんらが
コークな茶封筒どを堂々と売っている。
層にかさな死期を女性職員知らせる文化施設
てらてらな黒にグレーのキャ避け難いリアスーツの細身をかためた
男子職員が案裂き難い内する
抵抗
抵熱い抗
耐え抵抗難い
抵愛着抗
の短髪のちに最上死神は階へ
階層を請求書を配達する移る
傾斜のと急を告げ鋭いめつきのるんでもなく緩い
エスカ眉毛のうすいレータ
一気に三層をつ分裂者の手紙らねている
花や樹や種子を撒きちらす草やつめこんだ黒いかばん鳥の標本の束
てっぺんに
曖昧な三角形状のなん誤配物の束をにもない
コンク誰かが勝手に手配したリートの屋上があって
周囲は足首ほど悪意の高さの柵でかこってある。
風が強いから危険です。
吹き飛ばさ狂おしきれて落ちてしまうかもしれませんよ
と職員くんがしきりに止めるのもきかず
折角ここまできたのだから
いちおうは歩い欄干から零れおちるてみようと
危ない端っこをえらんであるく
それでも
エッジから微妙に安全な距離はたもっている
つもり
でも
たぶん風が吹けば無効な距離だ。
彼がはらはらと 内側でみまもるうちに
ゆっくりと ゆっくりと ひとめぐり
するあいだ ついに風は吹かず
無事にもどることができる。
(むしろ風をのぞんでいたのかしらん?)
なんだ関か平和だ係ねぇと
むこうがわの庭園の入り口にたつ
レスト棄てがたいランの灯のにぎやかにともるのをみて
簡易店舗の涸れる陽こちらがわも
1ヵ月半もたたぬまに
愛抵抗着
なにやら変なかたちのビ耐えがたいルが立ち並ぶのだろうと
さしむける
うつそみの
2020年1月20日月曜日
たからくじ
だから
くじ
くじく
くじる
しくじる
じりり
かれはわたくしの冷凍庫に小函を蔵い忘れてかえる
じる
じるれ
わたくしのトイレットの小棚に懐中時計を置き忘れてかえる
ねやのひまに たがいちがいに長短のことなる糸くずを捨て忘れてかえる
境界線をさぁっと引いて すぐ削除する。
境界線をさぁっと引いて すぐ削除する。
べつの境界線をさぁっと引いて すぐ削除する。
またべつの境界線がさぁっと引かれて またすぐ削除される。
線を引いて 削除
線を引いて 削除
ふわふわに交差して糸屑のようになった線の残骸が
場にない場につもりつもって糸玉ガラクタのやまのようになり
その引力で 周囲をさらにおおくの 糸のかけらが旋回している。
指でつまめば たちまち消える。
ある主体は マウスの線でさぁっと描くだろうし
ある主体は キーボードを一個一個たしかめながら叩くかもしれない。
てんてん ときとき ながいじかんをかけて 彫琢し
ていねいに 細心に ちゅういぶかく しつらえたものほど
すわぁぁぁぁぁっと 豪快に削除されていく。
1999年1月1日午前1時27分頃 エレベータのなかで
酒酵素にあわさったどぐさい息とよれよれに高湿度おびた体温をまともにふきかけられる位置にいながら
われかんせずと(あるいはそれこそこころよいかのように)
幾枚もの布にくるまれてすとんと落ちるように抱かれて すやすや睡っている
ちいさないきもの
に遭遇する。
| なぐりつけるように 地におとせば すぐしぬだろう
| しぬかもしれない
| しんだら それなりに かなしんでくれるひとびとがいるだろう
| それなりに かなしんでくれないひとびともいるだろう
| (そちらのほうが とうぜん おおかろう)
| だから いつでも しんでもよい のだと
| みえぬものに あくがれるように たのしげに
| さんざぼこぼこにされた とうめいにんげんのたましいは
| つぶやくのである
| しょーがねーな とめてなんかやらねーからと
♪たのしげに うけこたえてみる やる
りながら
こんなのはまちがっていると つよく おもう
ラヴさえぴりぴりりとはぎとってしまえば かんたん
という 公式見解も もちろんあやまっていると おもう
べたべたのラヴシャワーの視線に曝された素肌は
ねとねとになるごと 粉をふいたようにすべすべなめらかで
化粧している ほかの身体パーツよりも もっと化粧をほどこされている のだが
なんら防禦的 やくわりをはたさず
かえって ぱぱぱぱっと指圧されるとすぐ
へにょりんこんとへこんで とぽとぽにくたびれてしまう
まいなすの 傷つきやすさ 強度の欠如 欠如の強度
もっとつるつるにしあげて 汁気を剥奪すれば おはだの張りは保たれるかもしれない という
わけにもいかないんだな これが
うしろざまに
ろざまに
さまに
まさに
まに
むけに
ほれ剥がせ ほれきえろ ほれなませ ほれとのせ
!hola! と hala
いって 消えろ て・きえろ te quiero quienes? quiera quienesquiera
くじ
くじく
くじる
しくじる
じりり
かれはわたくしの冷凍庫に小函を蔵い忘れてかえる
じる
じるれ
わたくしのトイレットの小棚に懐中時計を置き忘れてかえる
ねやのひまに たがいちがいに長短のことなる糸くずを捨て忘れてかえる
境界線をさぁっと引いて すぐ削除する。
境界線をさぁっと引いて すぐ削除する。
べつの境界線をさぁっと引いて すぐ削除する。
またべつの境界線がさぁっと引かれて またすぐ削除される。
線を引いて 削除
線を引いて 削除
ふわふわに交差して糸屑のようになった線の残骸が
場にない場につもりつもって糸玉ガラクタのやまのようになり
その引力で 周囲をさらにおおくの 糸のかけらが旋回している。
指でつまめば たちまち消える。
ある主体は マウスの線でさぁっと描くだろうし
ある主体は キーボードを一個一個たしかめながら叩くかもしれない。
てんてん ときとき ながいじかんをかけて 彫琢し
ていねいに 細心に ちゅういぶかく しつらえたものほど
すわぁぁぁぁぁっと 豪快に削除されていく。
1999年1月1日午前1時27分頃 エレベータのなかで
酒酵素にあわさったどぐさい息とよれよれに高湿度おびた体温をまともにふきかけられる位置にいながら
われかんせずと(あるいはそれこそこころよいかのように)
幾枚もの布にくるまれてすとんと落ちるように抱かれて すやすや睡っている
ちいさないきもの
に遭遇する。
| なぐりつけるように 地におとせば すぐしぬだろう
| しぬかもしれない
| しんだら それなりに かなしんでくれるひとびとがいるだろう
| それなりに かなしんでくれないひとびともいるだろう
| (そちらのほうが とうぜん おおかろう)
| だから いつでも しんでもよい のだと
| みえぬものに あくがれるように たのしげに
| さんざぼこぼこにされた とうめいにんげんのたましいは
| つぶやくのである
| しょーがねーな とめてなんかやらねーからと
♪たのしげに うけこたえてみる やる
りながら
こんなのはまちがっていると つよく おもう
ラヴさえぴりぴりりとはぎとってしまえば かんたん
という 公式見解も もちろんあやまっていると おもう
べたべたのラヴシャワーの視線に曝された素肌は
ねとねとになるごと 粉をふいたようにすべすべなめらかで
化粧している ほかの身体パーツよりも もっと化粧をほどこされている のだが
なんら防禦的 やくわりをはたさず
かえって ぱぱぱぱっと指圧されるとすぐ
へにょりんこんとへこんで とぽとぽにくたびれてしまう
まいなすの 傷つきやすさ 強度の欠如 欠如の強度
もっとつるつるにしあげて 汁気を剥奪すれば おはだの張りは保たれるかもしれない という
わけにもいかないんだな これが
うしろざまに
ろざまに
さまに
まさに
まに
むけに
ほれ剥がせ ほれきえろ ほれなませ ほれとのせ
!hola! と hala
いって 消えろ て・きえろ te quiero quienes? quiera quienesquiera
2019年12月26日木曜日
時間の持続
こんなこと経験ある人はみな知ってることでめずらしくも何ともないだろうけど・・。
全身麻酔手術受けてみて初めて知ってびっくりしたこと。
麻酔かかってる間って、自分のなかで時間が進んでいないのね。
先に注射打たれて数を数えあげてる間に意識がなくなったという自覚はあって、次目覚めたとき、意識は眠りに落ちた時点から直に繋がってて、「あれ?今から手術始めるのかな?」とか思ってると「無事に終わりましたよ」と言われる。
眠ってたあいだの時間の感覚がなく(夢ももちろん見てないし持続した感じがなく)その間の時間をごっそり盗まれたような感じ。麻酔にかかってる間も睡眠と同じように(夢でも見ながら)とろとろと時間が過ぎていくものだと想像してたら、全く違ってた・・。
昏睡状態の人の意識もそうだろうか?
全身麻酔手術受けてみて初めて知ってびっくりしたこと。
麻酔かかってる間って、自分のなかで時間が進んでいないのね。
先に注射打たれて数を数えあげてる間に意識がなくなったという自覚はあって、次目覚めたとき、意識は眠りに落ちた時点から直に繋がってて、「あれ?今から手術始めるのかな?」とか思ってると「無事に終わりましたよ」と言われる。
眠ってたあいだの時間の感覚がなく(夢ももちろん見てないし持続した感じがなく)その間の時間をごっそり盗まれたような感じ。麻酔にかかってる間も睡眠と同じように(夢でも見ながら)とろとろと時間が過ぎていくものだと想像してたら、全く違ってた・・。
昏睡状態の人の意識もそうだろうか?
2019年12月23日月曜日
お腹の脂肪を・・
tarahineの肉体をフィールドにして自分の「作品」を創りあげたのが、tarahineの形成外科医だった。
実際のところ腫瘍の摘出手術は、初発のときの全身麻酔手術、再発のときの部分麻酔手術と二度体験しているが、それ自体それほど大したことはなかったのだ。手術時間もそれほどかからなかったし、手術後の回復もスムーズだったし。むしろ身体に(心にも)大きな負担をかけたのは、再建手術の方だった。
初発のときに乳房温存手術を諦めた時点から「では再建を」と申し出ていたのだが、当時の(最初の)乳腺外科の主治医は、「でも、ま、美容のことだしね」って消極的だった。(その「美容」の文言にかなりカチンと来た。その医者の価値観からすれば癌の手術と治療は生死に関わる大問題だから真剣に取り組む。再建なんて美容上のことで生死に関わりないし必須でもないので後回しと。tarahineに言わせれば、それはQOL上必須でしょうがぁ!治療とは現状に復元して初めて治療でしょうがぁ!と吠えたくなるのだったが・・)。しかし結果的には摘出手術後しばらくして(しばらくは片っぽ欠損のまま下着だのTシャツだのに工夫して外見からはそれと気づかれぬようにしてたけど)形成外科医を紹介してもらい、話し合いの末、再建手術をお願いする次第になる。最初の主治医はその総合病院の副院長の立場にあったのだが、その先生に言わせると「若くて熱心な先生。どうしてもやらせて欲しいと切望している」。確かにその通りだった。
いまでは(美容形成と同じく)シリコンだの人工物を使った手術の方が一般的かもしれない。そっちの方が圧倒的に負担少なくて済むもんね。もちろん当時もその選択肢はあったが、なんだか人工物というのが嫌で、自前の組織(自分の体の他の部分)を持って来て作るという方法を選んだ。(この選択基準、本当に合理的かと言えばそうでないような気もする)。
で、どこの組織を持ってくるか? ここに至って選択基準はさらにボロボロになる。二つ方法あります。背中の脂肪をぐるっと持ってくるやり方、もうひとつはお腹の脂肪をよいしょっと上に持ってくるやり方。笑っちゃいますが、そう言われて「やった!お腹の脂肪を取ってもらえる!」と思わない女子はいるでしょうか?(いや、もちろんいるでしょうけど)。
愚かにもtarahineは「お腹!」と即答しました。そして、女友達らには「ずるい!」とか羨ましがられさえしましたよ。
で、実際の手術は思ったより大変だった・・。きっとそんなことの説明(インフォームド)もちゃんとなされてたんでしょうけど、耳で流してたんでしょうね・・。手術時間も予定より長くかかったし、目覚めたあとの体の感覚ももう大変で、回復にも時間がかかった。どんな時でも食べるtarahineが食欲なくなり、手術の翌日はけっきょく一日食べることができず、形成外科医に「意外とあかんたれやな」と心配される始末であった。
実際のところ腫瘍の摘出手術は、初発のときの全身麻酔手術、再発のときの部分麻酔手術と二度体験しているが、それ自体それほど大したことはなかったのだ。手術時間もそれほどかからなかったし、手術後の回復もスムーズだったし。むしろ身体に(心にも)大きな負担をかけたのは、再建手術の方だった。
初発のときに乳房温存手術を諦めた時点から「では再建を」と申し出ていたのだが、当時の(最初の)乳腺外科の主治医は、「でも、ま、美容のことだしね」って消極的だった。(その「美容」の文言にかなりカチンと来た。その医者の価値観からすれば癌の手術と治療は生死に関わる大問題だから真剣に取り組む。再建なんて美容上のことで生死に関わりないし必須でもないので後回しと。tarahineに言わせれば、それはQOL上必須でしょうがぁ!治療とは現状に復元して初めて治療でしょうがぁ!と吠えたくなるのだったが・・)。しかし結果的には摘出手術後しばらくして(しばらくは片っぽ欠損のまま下着だのTシャツだのに工夫して外見からはそれと気づかれぬようにしてたけど)形成外科医を紹介してもらい、話し合いの末、再建手術をお願いする次第になる。最初の主治医はその総合病院の副院長の立場にあったのだが、その先生に言わせると「若くて熱心な先生。どうしてもやらせて欲しいと切望している」。確かにその通りだった。
いまでは(美容形成と同じく)シリコンだの人工物を使った手術の方が一般的かもしれない。そっちの方が圧倒的に負担少なくて済むもんね。もちろん当時もその選択肢はあったが、なんだか人工物というのが嫌で、自前の組織(自分の体の他の部分)を持って来て作るという方法を選んだ。(この選択基準、本当に合理的かと言えばそうでないような気もする)。
で、どこの組織を持ってくるか? ここに至って選択基準はさらにボロボロになる。二つ方法あります。背中の脂肪をぐるっと持ってくるやり方、もうひとつはお腹の脂肪をよいしょっと上に持ってくるやり方。笑っちゃいますが、そう言われて「やった!お腹の脂肪を取ってもらえる!」と思わない女子はいるでしょうか?(いや、もちろんいるでしょうけど)。
愚かにもtarahineは「お腹!」と即答しました。そして、女友達らには「ずるい!」とか羨ましがられさえしましたよ。
で、実際の手術は思ったより大変だった・・。きっとそんなことの説明(インフォームド)もちゃんとなされてたんでしょうけど、耳で流してたんでしょうね・・。手術時間も予定より長くかかったし、目覚めたあとの体の感覚ももう大変で、回復にも時間がかかった。どんな時でも食べるtarahineが食欲なくなり、手術の翌日はけっきょく一日食べることができず、形成外科医に「意外とあかんたれやな」と心配される始末であった。
2019年12月22日日曜日
患者第一?
ときどき「医者は患者の命(利益)を最優先する(べきだ)」と信じているひとがいてびっくりすることがある。医者は人間の命を救うことを第一の目標/動機に仕事をしていることを信じているし、そうでない医者は医者失格だとでも思っている。
そうじゃないことは実際に医者と接していればすぐわかる。(もちろん辺境の医者や町医者と専門性の高い医者とではそれぞれありようが異なるだろうけど)。医者はそれぞれの専門によって異なるそれぞれのプロフェッショナリズムの内部に第一の動機も目標も、また矜恃も持っている。「患者の命」とか患者の利益とかはそれじたいを目標とするものではなく、医者が医者としての最善を尽くしたあとから結果的についてくるといったところだろう。(たとえば災害や紛争など究極の条件下にあって目の前の命を救わなければといった切迫した場面にあってさえ、そのとき医者の考えることは「自分に何ができるか」であって「どんな手段を使ってでも(極端にいえば自分の命を投げうってでも)この人を救いたい」ではないだろう。)
もちろん医者が医者という職業を志した最初の動機に「人の命を救いたい」「人に奉仕したい」という心があるだろうことは否定しない。あらゆる「奉仕(サーヴィス)」業の根っこにはそれがあるだろうから。しかし、その動機から職業(プロフェッショナル)として「医師」を選択した時点で、そして「医師」として立派に一人立ちしたときから、その人は、ただただ盲目的に人に奉仕するだけの者ではなく、一人のプロになっていますぜ。
そして、そのことはちっとも悪いことではない。オートバイを作るのがものすごく好きなホンダさんという人がいて、そのひとは消費者の存在なんて意に介さず、ひたすら自分の気に入る良いオートバイを作りたいと念じて製作に励む。そのひとが創造力に優れていて、また運が良ければ、これまで世に阿るようにつくられてきた製品とは格段に異なる画期的な製品が生まれるだろう。消費者はそのひとたちのプロとしての仕事から、自分にとって利益になる部分を都合良くもらってくればいいだけの話である。
オートバイづくりとはちがって医者の仕事は患者の身体という場をフィールドにしているし、医療にかぎらずサーヴィス業というのは消費者それぞれについて商品であるサーヴィスの内容が異なって当然でもあるし、医者と患者が少しずつ接触を重ねつつ、それぞれの要求や利害をすりあわせつつ、少しずつ微調整を繰り返しながら、実際の医療サーヴィスは遂行されていくものなんだろう。
大勢の患者が集まる病院では、一人ひとりの患者の利益を最優先することなど不可能だから、それこそ調整が必要で、どこまで自分の都合を押し通すのか、どこまでの不都合を受け容れるのか、わがままと言われるのを恐れずにどんどん要求したほうがいいみたい。単に病院の都合で不都合を強いられているのに、「これは先生(医者)がわたし/あなた(患者)のことを考えてくれてこのようにしてくれているのよ」「わたし/あなた(患者)には理解できないところもあるけどきっとこれが最善の道なのよ」とかわざわざ医者/病院の都合の良いように考えてあげる(たぶん患者の不安をのぞいてあげるための善意でもあるんだろうけど)ひとなどを見ていると、意地悪なわたしは横から口を挟んで「ちがいますよ」と冷たく言ってやりたくなるのだが(笑)、患者の気持ちを考えるとそんなこと言っちゃいけないんでしょね。どうも患者同士のなぐさめあい、周りの近親者が患者をなだめるために口々に言うことなどは、この種の欺瞞に満ちていて気にくわない。
患者と医者と(また病院と)利害がはっきり対立したり思惑がずれたりすることは当然のことなのであって、医者は「わたしはあなた(患者)のことを第一に考えてるんですよ」などと嘘をつくべきではないし、患者の側も「全幅の信頼」なんて医者に押しつけるべきではないだろう。いまだにびっくりするほどナイーブな人がいて、「先生のおっしゃることにまちがいはないから…」「先生がわたしにとって最善の道を勧めてくださるから…」と信じている患者とか、ろくに説明もせず(インフォームドコンセントをなおざりにして)「君は何も心配しなくていいから」「安心してわたしに任せていればいいから」とのたまう“名医”とかがいるらしい。そんな名医に全幅の信頼とやらを預けてそれが裏切られればなにもかもチャラのように言うひともいるが、そもそもそんな“信頼”があるかのように振る舞うほうがまちがっている。必要なコミュニケーションをせず、お互いに勝手な幻想を抱いてそれぞれが自分の都合の良いように考えているだけの信頼なんてもとから信頼じゃないぜ。
あらかじめ「各々の利害は異なる」という互いの了解があってこそ、きちんとコミュニケーションができる。互いの立場や条件、それぞれの意思を確認し、そのうえで、いろんな調整も関係も契約もできていくわけなんだから。そのコミュニケーションのベースになるのが、誠実であるとか、正直であるとか、互いを思いやることができるとか、そういう人間性への信頼ではないのかね。
そうじゃないことは実際に医者と接していればすぐわかる。(もちろん辺境の医者や町医者と専門性の高い医者とではそれぞれありようが異なるだろうけど)。医者はそれぞれの専門によって異なるそれぞれのプロフェッショナリズムの内部に第一の動機も目標も、また矜恃も持っている。「患者の命」とか患者の利益とかはそれじたいを目標とするものではなく、医者が医者としての最善を尽くしたあとから結果的についてくるといったところだろう。(たとえば災害や紛争など究極の条件下にあって目の前の命を救わなければといった切迫した場面にあってさえ、そのとき医者の考えることは「自分に何ができるか」であって「どんな手段を使ってでも(極端にいえば自分の命を投げうってでも)この人を救いたい」ではないだろう。)
もちろん医者が医者という職業を志した最初の動機に「人の命を救いたい」「人に奉仕したい」という心があるだろうことは否定しない。あらゆる「奉仕(サーヴィス)」業の根っこにはそれがあるだろうから。しかし、その動機から職業(プロフェッショナル)として「医師」を選択した時点で、そして「医師」として立派に一人立ちしたときから、その人は、ただただ盲目的に人に奉仕するだけの者ではなく、一人のプロになっていますぜ。
そして、そのことはちっとも悪いことではない。オートバイを作るのがものすごく好きなホンダさんという人がいて、そのひとは消費者の存在なんて意に介さず、ひたすら自分の気に入る良いオートバイを作りたいと念じて製作に励む。そのひとが創造力に優れていて、また運が良ければ、これまで世に阿るようにつくられてきた製品とは格段に異なる画期的な製品が生まれるだろう。消費者はそのひとたちのプロとしての仕事から、自分にとって利益になる部分を都合良くもらってくればいいだけの話である。
オートバイづくりとはちがって医者の仕事は患者の身体という場をフィールドにしているし、医療にかぎらずサーヴィス業というのは消費者それぞれについて商品であるサーヴィスの内容が異なって当然でもあるし、医者と患者が少しずつ接触を重ねつつ、それぞれの要求や利害をすりあわせつつ、少しずつ微調整を繰り返しながら、実際の医療サーヴィスは遂行されていくものなんだろう。
大勢の患者が集まる病院では、一人ひとりの患者の利益を最優先することなど不可能だから、それこそ調整が必要で、どこまで自分の都合を押し通すのか、どこまでの不都合を受け容れるのか、わがままと言われるのを恐れずにどんどん要求したほうがいいみたい。単に病院の都合で不都合を強いられているのに、「これは先生(医者)がわたし/あなた(患者)のことを考えてくれてこのようにしてくれているのよ」「わたし/あなた(患者)には理解できないところもあるけどきっとこれが最善の道なのよ」とかわざわざ医者/病院の都合の良いように考えてあげる(たぶん患者の不安をのぞいてあげるための善意でもあるんだろうけど)ひとなどを見ていると、意地悪なわたしは横から口を挟んで「ちがいますよ」と冷たく言ってやりたくなるのだが(笑)、患者の気持ちを考えるとそんなこと言っちゃいけないんでしょね。どうも患者同士のなぐさめあい、周りの近親者が患者をなだめるために口々に言うことなどは、この種の欺瞞に満ちていて気にくわない。
患者と医者と(また病院と)利害がはっきり対立したり思惑がずれたりすることは当然のことなのであって、医者は「わたしはあなた(患者)のことを第一に考えてるんですよ」などと嘘をつくべきではないし、患者の側も「全幅の信頼」なんて医者に押しつけるべきではないだろう。いまだにびっくりするほどナイーブな人がいて、「先生のおっしゃることにまちがいはないから…」「先生がわたしにとって最善の道を勧めてくださるから…」と信じている患者とか、ろくに説明もせず(インフォームドコンセントをなおざりにして)「君は何も心配しなくていいから」「安心してわたしに任せていればいいから」とのたまう“名医”とかがいるらしい。そんな名医に全幅の信頼とやらを預けてそれが裏切られればなにもかもチャラのように言うひともいるが、そもそもそんな“信頼”があるかのように振る舞うほうがまちがっている。必要なコミュニケーションをせず、お互いに勝手な幻想を抱いてそれぞれが自分の都合の良いように考えているだけの信頼なんてもとから信頼じゃないぜ。
あらかじめ「各々の利害は異なる」という互いの了解があってこそ、きちんとコミュニケーションができる。互いの立場や条件、それぞれの意思を確認し、そのうえで、いろんな調整も関係も契約もできていくわけなんだから。そのコミュニケーションのベースになるのが、誠実であるとか、正直であるとか、互いを思いやることができるとか、そういう人間性への信頼ではないのかね。
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